10.一本がダメなら二本で
『糸』
するり。
右手のひらに、いつもの十センチが現れる。
手を傾ける。
ひらり。
床に落ちた。
消えない。
「うん」
もう、これくらいでは喜ばない。
一ヶ月前なら大騒ぎしていたことを考えると、僕も随分とオトナになったものだ。
さて。
ヲワさんに教えてもらったことがある。
一本では弱いなら、合わせればいい。
あの時見せてもらった糸は、一本に見えて一本ではなかった。
細い繊維を合わせて、撚る。
それで一本の糸になっていた。
なら。
僕もやってみればいい。
『糸』
するり。
一本目。
慎重に机へ置く。
『糸』
するり。
二本目。
机の上には、十センチの糸が二本。
それぞれを摘み上げる。
右手に一本。
左手に一本。
ゆっくり近づけて――。
「合わせて……撚る」
ヲワさんがやっていた動きを思い出す。
右手の指を動かす。
左手も――。
すん。
「あ」
左の糸が消えた。
右手に意識を向けすぎて、左手に力が入ったらしい。
もう一度。
今度は左を意識する。
ゆっくり。
ゆっくり。
すん。
「あー……」
今度は右。
「左右で別々のことするの、難しくない?」
刺繍でも、片方の手で布を支えながら、もう片方で針を動かす。
でも、あれは右と左で役割が違う。
今やろうとしているのは、両手で脆い糸を摘みながら、それぞれを少しずつ動かすことだ。
「もう一回」
『糸』
『糸』
摘む。
合わせる。
右を少し。
左も少し。
右。
左。
「お、おお……」
二本の糸が絡み始める。
もう少し。
右。
左。
あと少し――。
すん。
「…………」
消えた。
あとちょっとだった。
「もう一回!」
「テオ様」
「はい!」
反射的に背筋が伸びた。
振り返ると、テレシア先生が本を抱えて微笑んでいる。
「お勉強のお時間です」
「……あと一回」
「お勉強のお時間です」
「今、すごくいいところなんです」
「第三代国王陛下が、北方三領の諸侯と結ばれた盟約の名称は?」
「…………」
「テオ様?」
「……お勉強の時間です」
糸は逃げない。
たぶん。
◇ ◇ ◇
「違います」
「…………」
「それは第五代国王陛下の時代です」
「はい」
大人しく答えを書き直す。
王国史。
苦手である。
成績が悪いわけではない。
テレシア先生によれば、五歳児としては十分どころか、かなり先まで進んでいるらしい。
でも。
苦手なものは苦手だ。
算学なら分かる。
一足す一は、この世界でも二である。
しかし。
「ベルナント王が即位された年の三年前に起きた東部騒乱を鎮圧した将軍は?」
知らん。
前世の記憶をどれだけ掘り返しても、ベルナント王も東部騒乱も出てこない。
当然である。
「……ガルド将軍」
「惜しいですね。ガルド・ローデン侯爵です」
「ガルドまで合ってたら正解じゃ駄目ですか?」
「貴族家の歴史も含めて学んでいるのですから、駄目です」
「はい……」
前世でも将軍の名前を聞かれて、将軍と答えたら正解にはならない。
「それにしても」
テレシア先生が答案から顔を上げる。
「今日は随分とそわそわなさっていますね」
「二本が、もう少しで撚れそうなんです」
「二本?」
「《糸》です」
「ああ」
先生は納得したように頷いた。
「ヲワ殿に教わったのですか?」
「一本では弱いなら、合わせればいいって」
「なるほど」
「でも、右を動かすと左が駄目になるんです」
先生が少し考える。
「それは《糸》というより、同時に二つのことを行う難しさでは?」
「……やっぱり?」
「魔法でも、左右で異なる術式を同時に扱うのは高度な技術です」
やっぱりそうなのか。
「練習するしかない?」
「そうなりますね」
「ですよねー」
近道はなかった。
まあ、いい。
どうせ時間はある。
「では、続きを」
「はい」
「第六代国王――」
こっちにも近道はないらしい。
◇ ◇ ◇
その日の夕食後。
僕は居間のテーブルで、二本の普通の糸と格闘していた。
《糸》ではない。
母からもらった刺繍糸だ。
右手に一本。
左手に一本。
右。
左。
右。
左。
「テオくん、何してるの?」
隣からメイ姉さまが覗き込んでくる。
「二本の糸を撚る練習」
「なんで?」
「二本にしたら強くなるから」
「ふーん」
姉さまは僕の手元をしばらく眺めた。
「それ、右手と左手を別々に動かしたいの?」
「そうなんだけど、難しくて」
「兄さまに聞けば?」
「兄上?」
「だって剣を使う時、身体中を別々に動かすじゃない」
「なるほど」
確かに。
カイ兄さまは《剣聖》。
糸のことは知らなくても、身体の使い方なら僕なんかよりずっと詳しい。
本を読んでいた兄さまを見る。
「兄上」
「聞こえていたよ」
本を閉じて、こちらへやって来る。
「まず見せてごらん」
「はい」
二本の糸を持つ。
右。
左。
右――。
「テオ」
「はい」
「手を見すぎだ」
「え?」
「右を動かす時は右手を見て、左を動かす時は左手を見ているだろう?」
言われてみればそうだ。
「両方を一緒に見るんだ」
「両方?」
「一つ一つを追うんじゃない。二つがどう動いているかを見る」
「…………」
分かったような。
分からないような。
「僕も最初は、師匠によく言われたよ」
兄さまが笑う。
「剣しか見ていない、とね」
「剣なのに?」
「剣だけ見て戦うわけじゃないからね」
なるほど。
相手がいる。
自分の足も動く。
周りも見なければならない。
「やってみます」
今度は右手だけを見ない。
左手だけも見ない。
二本の糸をまとめて見る。
右。
左。
右。
左。
「あ」
さっきより少しだけやりやすい。
「できそう!」
「焦らない」
「はい」
右。
左。
少しずつ。
二本の糸が絡み合っていく。
「おお……」
「テオくん、すごい!」
「メイ、静かに」
「あ、ごめん」
右。
左。
そして――。
「できた!」
不格好だけど。
二本の糸が、一本になっている。
《糸》じゃない。
ただの刺繍糸だ。
それでも嬉しい。
「兄上、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「ねえテオくん、それ何に使うの?」
「…………」
姉さまの質問に手が止まる。
「練習?」
「ふーん」
姉さまは興味を失ったらしく、今度は僕の刺繍籠を漁り始めた。
「あ、この色かわいい」
「姉上、それ母上からもらった――」
「メイ?」
母の声。
姉さまの手が止まる。
「……戻しておきます」
今日も我が家は平和である。
◇ ◇ ◇
数日後。
僕は再びヲワさんの店に来ていた。
僕の服の仕立ては、スキルを授かって初めて迎える年明けの宴のためらしい。
なおヲワさん曰く、
「ご飯がおいしい」
とのこと。
なによりである。
さて。
今日は僕にも目的がある。
「ヲワさん」
「なに」
「撚れるようになりました」
「そう」
反応が薄い。
持ってきた二本の糸を取り出す。
「見てください」
「普通の糸じゃない」
「まず普通のでできるようになろうと思って」
ヲワさんの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「誰に言われたの?」
「兄上に少し教えてもらいました」
「そう」
やっぱり反応は薄い。
でも。
さっきより少しだけ、僕の手元を見ている気がする。
「やってみて」
「はい」
二本の糸を持つ。
右だけを見ない。
左だけも見ない。
全体を見る。
右。
左。
少しずつ。
出来上がったものを、ヲワさんへ渡す。
「…………」
指先で確かめる。
「下手ね」
「はい」
自覚はある。
太さも均一じゃない。
途中で撚り方も変わっている。
「でも、前よりは糸を触れるようになった」
「本当ですか?」
「少しだけ」
よし。
褒められた。
たぶん。
「じゃあ次は――」
「待って」
ヲワさんは棚から何本か糸を取り出した。
太いもの。
細いもの。
柔らかいもの。
少し硬いもの。
僕の前へ並べる。
「全部触って」
「はい?」
「触って、曲げて、引っ張って。違いを覚えて」
「これが次の練習?」
「違う」
「え?」
「店に来たなら、仕事を手伝って」
目の前に大量の糸が置かれる。
「種類ごとに分けて」
「…………」
もしかして。
「僕、働かされてます?」
「嫌なら帰れば?」
「やります」
即答した。
糸を触れる。
違いを覚えられる。
しかも、ヲワさんの仕事を間近で見られる。
帰る理由がない。
「じゃあ、これも」
さらに糸が増えた。
「……多くない?」
「仕事だから」
「僕、お客さんですよね?」
「今日は違う」
どうやら僕は、知らないうちに《店員》スキルを授かったらしい。
けれど。
目の前の糸を一本摘み上げる。
細い。
でも、僕の《糸》よりずっと丈夫そうだ。
隣は少し硬い。
その隣は柔らかい。
同じ糸なのに、全然違う。
「ヲワさん。これは何が違うんですか?」
「素材」
「こっちは?」
「撚り」
「じゃあこれは?」
「テオ」
「はい」
「手を動かして」
「はい」
そんなやり取りをしながら。
僕は少しずつ、ヲワさんの店へ通うようになった。
もちろん、弟子でもなんでもない。
正式に働き始めたわけでもない。
糸について知りたくて勝手にやって来て。
質問して。
仕事を増やして。
その代わりに、少しだけ手伝う。
エルフの仕立て屋に、ヒトの子供が一人。
いつの間にかいるようになった。
――ヲワさんは、いつまでもそう言っていた。




