12.合わせる
「テオ。それ取って」
「これ?」
「違う。隣」
「こっち?」
「それ」
「はい」
僕は棚から糸巻きを一つ取り、ヲワさんへ渡した。
受け取ったヲワさんは、礼を言うでもなく、そのまま作業へ戻る。
まあ、いつものことである。
「テオ。針」
「はい」
「細い方」
「はい」
「違う」
「…………」
まだまだ修行が足りないらしい。
あれから僕は、服の仕立てという名目で、定期的にヲワさんの店を訪れるようになった。
最初は糸について教えてもらうためだった。
今も、それは変わらない。
ただ。
「テオ。そこの布、畳んで」
「はい」
最近、明らかに仕事が増えている気がする。
「ヲワさん」
「なに」
「僕、お客さんですよね?」
「今日は違う」
「前も聞きました、それ」
「なら聞かないで」
「はい」
理不尽である。
とはいえ、嫌ではない。
むしろ僕からすれば、これほど面白い場所もなかった。
棚には何十種類もの糸がある。
太さが違う。
硬さが違う。
材料も違う。
同じように見える布も、触れば全然違う。
ヲワさんは、それらを当たり前のように選び分ける。
「ヲワさん」
「なに」
「なんで、こっちじゃなくて、その糸なんですか?」
「この布には硬すぎるから」
「硬いと駄目なの?」
「縫える。でも、長く使えば布の方が負ける」
「布が負ける」
なんとなく面白い言い方だ。
「丈夫な糸を使えばいいってわけじゃないんですね」
ヲワさんの手が止まった。
ほんの一瞬。
「当たり前」
そして、また針を動かし始める。
当たり前らしい。
僕には新発見なんだけど。
丈夫なら、丈夫なほどいい。
今まで、なんとなくそう思っていた。
僕の《糸》だって、ずっと強くしようとしてきた。
でも。
強い糸と弱い布を合わせたら、布が先に壊れる。
なら。
『糸』
するり。
右手のひらに、十センチほどの糸が現れる。
摘む。
少し引っ張る。
以前より、ずっと丈夫になった。
「…………」
もっと強く。
もっと丈夫に。
そう思っていたけれど。
「強さを変えられた方がいいのかな」
「手を動かして」
「はい」
今は仕事中だった。
◇
「テオ様」
「はい」
「聞いておられましたか?」
「……半分くらい」
「正直なのは結構です」
テレシア先生がため息をつく。
ヲワさんの店から戻った僕は、そのまま午後の授業を受けていた。
今日の授業は算学。
得意科目である。
だから少しくらい、別のことを考えていても――。
「では、こちらも」
紙が一枚追加された。
「増えた」
「半分しか聞いていなかったので」
「聞いていた半分は?」
「通常どおりです」
「…………」
世の中は厳しい。
仕方なく問題へ目を落とす。
ある商人が小麦を十袋仕入れ、そのうち三袋を――。
「先生」
「なんでしょう」
「この商人、仕入れ値が高くないですか?」
「そこは問題ではありません」
「でも、この値段で仕入れて、この値段で売ったら――」
「テオ様」
「はい」
「計算をしてください」
「はい」
数字そのものは難しくない。
掛けて。
足して。
引いて。
答えを書く。
「できました」
「……早いですね」
テレシア先生が答案を見る。
「正解です」
「はい」
「では、追加を」
「なんで?」
「余裕がありそうでしたので」
墓穴を掘った。
王国史なら、一問にもう少し時間を使えるのに。
「テオ様は、算学だけは本当に手が掛かりませんね」
「だけ?」
「王国史も頑張りましょう」
「はい……」
まだベルナント王とガルド・ローデン侯爵が、頭の中で喧嘩している。
ガルド・ローデン侯爵は覚えた。
これだけ頑張っているのだから、アップルパイの頻度を増やしてもらってもいいはずだ。
「それと」
テレシア先生が新しい紙を取り出す。
「本日から、こちらも始めます」
「なんですか?」
紙には、見慣れない文字が並んでいた。
いや。
文字なのは分かる。
でも、読めない。
「外国の言葉です」
「外国語?」
「はい」
「五歳から?」
「貴族ですから」
なんという便利な言葉だろう。
貴族ですから。
これを言われると、大体のことが終わる。
「ラルシーア家は、国外の方と接する機会も少なくありません。基礎だけでも、早いうちから触れておくべきでしょう」
「先生も話せるんですか?」
「日常会話程度でしたら」
さすが《智者》。
「母上も?」
何気なく聞いた。
テレシア先生が僕を見る。
「ルカ様ですか?」
「はい」
「……私より、遥かにお上手ですよ」
「へえ」
意外だった。
いや、公爵夫人なのだから、外国語を話せてもおかしくないのか。
「母上、何か国語くらい話せるんですか?」
「私から申し上げるより、ご本人に聞いてみてはいかがでしょう」
「そうします」
テレシア先生は、それ以上何も言わなかった。
◇
「お母様、外国語を話せるの?」
夕食の席で聞いてみた。
「ええ。少しだけね」
母が、なんでもないことのように答える。
「何か国語?」
「ええと……」
母が指を折り始めた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
「…………」
まだ増える。
「母上?」
「なあに?」
「少しって何?」
「全部、流暢というわけではないのよ?」
そういう問題だろうか。
「母上は昔から、語学がお得意なんだ」
カイ兄さまが助け舟を出す。
「外国からお客様がいらした時も、母上が直接お話しされることがあるんだよ」
「そうなの?」
「そうよ」
メイ姉さまが、得意そうに胸を張る。
なぜ姉さまが誇らしげなのかは分からない。
「お母様、エルフの言葉も話せるんだから」
「エルフ語!?」
思わず声が大きくなった。
「少しだけよ」
また少し。
この人の少しは、信用しないことにしよう。
「だから、ヲワさんとも?」
「ヲワは人の言葉を話せるわよ?」
「そうじゃなくて」
どうやって知り合ったのか。
聞こうとして。
「テオ」
父が口を開いた。
「はい」
「今度、近郊領へ行く」
「領地に?」
「そうだ」
父さまが頷く。
「今年の収穫も、ほぼ終わった。冬支度の状況を確認する時期だ」
僕はフォークを置いた。
ラルシーア家には、王都の屋敷とは別に領地がある。
もちろん、知識としては知っている。
でも、五歳になってから領主の仕事について少しずつ学び始めたばかりだ。
「冬支度って、何をするんですか?」
「色々だ」
父さまが指を折る。
「穀物の備蓄。保存食。薪。家畜の飼料。道や建物の補修。それから、冬の間に王都へ送る食料の確認」
「王都へ?」
「あの領地は、王都の食料庫の一つでもあるからな」
食料庫。
「王都で食べる分を作ってるの?」
「全部ではない。当然だ」
父さまが少し笑った。
「だが、王都には自分で食料を作らない人間が大勢住んでいる」
それはそうだ。
王宮の人。
兵士。
商人。
職人。
聖職者。
全員が畑を持っているわけではない。
「だから、周りの領地から運ぶ」
「そういうことだ」
なるほど。
前世でいうところの、食料供給網みたいなものか。
特別な発明でもなんでもない。
人が集まれば、その人たちを食べさせる場所が必要になる。
当たり前の話だ。
「でも、父上」
カイ兄さまが口を挟む。
「今年は、南倉の備蓄を増やすと仰っていませんでしたか?」
「ああ」
「王都への出荷を減らすのですか?」
「いや。商会から買い足す」
父さまの顔が少しだけ、家で見せるものから宰相の顔へ変わった。
「昨年は暖冬だった」
「はい」
「今年も同じとは限らん。それに、今年は魔物の動きも例年より活発だ。冬が長引けば、領内だけでなく王都でも食料の値が上がる」
「だから、余裕を持たせる?」
「そうだ」
僕は黙って聞く。
去年が大丈夫だったから、今年も大丈夫。
そうは考えない。
余裕があるうちに備える。
なんとなく、父さまらしい。
「冬越しの宴もある。テオも今年から参加するといい」
「宴?」
その言葉には反応した。
「食べるの?」
「そこに反応するのか」
父さまが呆れる。
母が笑う。
「おいしいものが、たくさん出るわよ」
「行きます」
「最初から行く予定だ」
そうでした。
「冬越しの宴は、今年の恵みを神に感謝して、皆で冬の無事を祈るのよ」
母が教えてくれる。
「収穫した食料のうち、冬に残せるものは保存して、保存に向かないものは皆でいただくの」
「なるほど」
保存できないなら、食べる。
非常に合理的である。
「それだけではないぞ」
父さまが続ける。
「冬を越すのは、一人ではできん」
「一人では?」
「病人が出る。家が壊れることもある。食料が足りなくなる家もある」
父さまは僕を見る。
「だから冬に入る前に、領内の状態を確認する。困っている者がいれば、その時に見つける」
宴。
と聞いて、ご馳走を食べるだけだと思っていた。
どうやら違うらしい。
祈る。
食べる。
冬支度をする。
そして、皆が冬を越せそうか確かめる。
「領主のお仕事なんですね」
「そうだ」
父さまが頷いた。
「領地を持つというのは、土地を持つという意味ではない」
少し間を置いて。
「そこに住む者たちが、来年もそこで暮らせるようにするということだ」
「……はい」
覚えておこう。
これはたぶん、やっと覚えた王国史の王様の名前より大事だ。
「テオくん」
姉さまが僕の袖を引っ張る。
「なに?」
「冬越しの宴で着る服、ヲワさんが作ってるんでしょ?」
「あ」
そうだった。
だから最近、僕まで店に連れていかれて、採寸されている。
「楽しみね」
「はい」
「私のも、ヲワさんにお願いしたかったなあ」
「メイ」
母の声。
「分かってる。ヲワさん一人じゃ、そんなに作れないんでしょ?」
「ええ」
ヲワさんの店は小さい。
腕はいい。
でも、一人で作れる服の数には限界がある。
だから我が家の服も、すべてヲワさんへ頼んでいるわけではないらしい。
「テオの服は、スキルを授かったお祝いも兼ねているから特別よ」
母が微笑む。
「大事に着るのよ」
「はい」
そう答えながら。
僕は少し、楽しみになっていた。
ご馳走も。
新しい服も。
もちろん楽しみだけど。
父さまが普段、何を守っているのか。
僕たちが食べているものが、どこから来るのか。
それを自分の目で見るのも、悪くない。
そして翌日。
「テオ」
「はい」
ヲワさんは、僕のために仕立てている服を広げた。
まだ完成していない。
「腕、通して」
「はい」
言われたとおりにする。
肩。
袖。
胸。
ヲワさんの指が、布の上を走る。
「動いて」
「どうやって?」
「普通に」
普通。
一番困る指示である。
とりあえず、腕を上げる。
下げる。
身体を捻る。
「…………」
ヲワさんが、何かを見ている。
「なに?」
「テオ」
「はい」
「服は、何のためにあると思う?」
突然だった。
「着るため?」
「そう」
正解らしい。
「綺麗に見せるためじゃないんですか?」
「それもある」
ヲワさんは、袖を少し摘む。
「でも、動けない服は服じゃない」
「鎧みたいな?」
「鎧だって、動けないと死ぬ」
「確かに」
ヲワさんは印を付け、また布を整える。
「身体に合わせる。使う人に合わせる。何に使うかに合わせる」
「合わせる」
「糸も同じ」
手が止まった。
僕の方が。
ヲワさんは、何事もなかったように作業を続けている。
「丈夫ならいいわけじゃない。細ければいいわけでもない」
先日聞いた話と繋がる。
「使うものに合わせる……」
『糸』
するり。
僕は小さく呟きながら、手のひらに一本の糸を出す。
十センチ。
前より丈夫になった。
もっと丈夫にしようと思っていた。
もっと長く。
もっと強く。
でも。
もし。
「ヲワさん」
「なに」
「弱くする練習って、意味あると思う?」
ヲワさんが初めて、作業の手を止めた。
僕の手のひらを見る。
そして。
ほんの少しだけ笑った。
「自分で試せば?」
いつもどおりの答えだった。




