氷の剣姫の葛藤
「僕がこれまでの倍、働きます!!」
国と教会、二つの巨大権力が激突する一触即発の修羅場。
リトの斜め上すぎる決意表明によって、前代未聞の『一週間のうち、3日を騎士団で、3日を孤児院で過ごす』というスケジュール協定が結ばれた。
それから数日後。騎士団本部での「リトの3日間」の初日がやってきた。
「……遅い」
執務室の机で、エレノア・ヴァン・クロイツは羽ペンをへし折らんばかりの力で握りしめていた。
時刻は朝の八時。リトが出仕してくる時間だ。
孤児院での3日間、彼に会えなかった間、エレノアの体調は最悪だった。
なぜか夜は全く眠れず、他の部下が淹れた茶を飲んでも頭痛は治まらない。
(当然だ。優秀な部下……そう、あの絶妙な温度のカモミールティーを淹れられる専属の部下が不在だったのだから。業務効率が落ちるのは必然である)
恋愛経験が完全にゼロであるエレノアは、自分が「リトに会えなくて寂しい」などとは微塵も思っていなかった。
あくまで「彼の淹れるお茶と清掃スキルという『有益なリソース』を欲しているだけだ」と、強固な理屈で自分の心を正当化していたのだ。
コンコン、とドアがノックされる。
「団長様、おはようございます! 今日からの三日間、よろしくお願いします!」
ドアが開き、エメラルドグリーンの瞳を輝かせたリトが入ってきた。
その瞬間。
「――ッ!!」
エレノアの心臓が、ドクンッ!と肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。
視界が急にチカチカして、顔にカッと熱が集まる。呼吸の仕方を忘れたように息が詰まり、立っているのがやっとの状態になる。
(な、なんだこの動悸は!? まさか、潜んだ敵の精神魔法か!?)
本気で周囲を警戒するエレノアだったが、彼女の身体は、彼女の強靭な理性とは全く別の動きを始めた。
「団長様、お茶をお持ちしまし――わっ!?」
お盆を机に置こうとしたリトの腕を、エレノアは無意識にガシッと掴んだ。
そしてそのまま、自分の背後にある長椅子へとリトを引っ張り込み、彼にすがりつくように倒れ込んだのだ。
「だ、団長様!?」
「んん……リトぉ……っ」
驚くリトの首筋に顔を埋めた瞬間、エレノアの口から、キビキビとした軍人らしからぬ、熱に浮かされた酔っ払いのような声が漏れた。
(ば、馬鹿な! 私は何を……離れろ、今すぐ離れるんだ私!!)
頭の中の『氷の騎士団長』が必死に叫ぶ。しかし、三日ぶりに嗅ぐリトの石鹸の匂いと、彼の放つ無自覚な神の癒やしの成分を摂取した身体は、完全にストライキを起こしていた。
「もっと近くに来てぇ……あなたの匂い、すごく落ち着くのぅ……ふふっ」
「だ、団長様!? お体がすごく熱いですよ! やっぱりお疲れなんじゃ……」
「違うのぅ……疲れてないのぅ……」
エレノアは頬をすりすりさせながら、必死に言い訳を紡ぐ。
「こ、これは戦略的休息だ……! 貴様の匂いには、高い鎮静効果があることが観測されている……っ! だから、これは決して私が貴様に甘えているわけではなく、軍のトップとしてコンディションを整えるための……んんっ……だからどこにも行かないでぇ……頭、撫でてぇ……?」
「なるほど! 戦略的休息ですね! わかりました!」
恋愛感情などこれっぽっちも理解していないエレノアの苦しい言い訳を、自己評価ゼロのリトは完璧に真に受けた。
(団長様、限界まで働いて、ついに幼児退行みたいな防衛本能が出ちゃったんだ! なんて過酷な職場なんだろう。僕がしっかり看病してあげなきゃ!)
「はいはい、どこにも行きませんから。ゆっくり休んでくださいね、団長様」
リトはニコニコと笑いながら、エレノアの銀髪を優しく撫で始めた。
その温かく包み込むような手の感触に、エレノアの心臓はさらに狂ったように跳ね回る。
(ああっ、なんだこの胸の苦しさは……! やはり敵の魔法……いや、毒か!? 苦しいのに、嬉しくて、ずっとこうしていたい……!)
自分が「初恋」という名の重篤な沼に沈みかけていることに全く気づかないまま、王国最強の騎士団長は、ただの雑用係の少年の腕の中で、ふにゃふにゃに溶かされていくのだった。
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