暴走する2人
「あらあら、リト。今日も髪が少し跳ねていますよ。こちらにいらっしゃいな」
孤児院の裏庭での一件から数日後。
シスター・セシリアは、中庭で洗濯物を畳んでいたリトを呼び寄せ、その栗色の髪を愛おしそうに櫛で梳かしていた。
「ありがとうございます、シスター。でも僕、そろそろ騎士団本部への出仕の時間で……」
「いいえ、リト。あなたはこのまま、ずっとここにいていいのよ」
セシリアは、おっとりとした声音で、リトの首元に回した手に少しだけ力を込めた。
「司教様から直々に、特別許可をいただいたのです。あなたの無垢で美しい心は、孤児たちの模範となる。だから、国の奉仕義務は免除し、専属で教会の管理下に置く……とね」
それは、聖女としての権限と教会の政治力を最大限に悪用した束縛だった。
あの騎士団長――エレノアの瞳に宿っていた、狂気じみた執着の芽。あれが完全に花開く前に、リトを教会の権能で囲い込み、自分の揺り籠に閉じ込めてしまう。
それがセシリアの計画だった。
「えっ!? そ、そんな! 僕なんかのために司教様が!?」
「ええ。だからもう、あんな恐ろしい剣の匂いがする場所へは行かなくていいの。あなたは私のそばで、ずっと良い子にしていればいいのですよぉ……」
「でも、団長様の執務室、僕が掃除しないとすぐに埃が……」
「いいえ、行かせません」
セシリアはリトの言葉を遮り、彼の頭を自身の豊かな胸にギュッと押し付けた。慈愛に満ちた聖女の微笑みの裏側で、ドス黒い独占欲が渦を巻く。
(私のもの。私だけのもの。あの女には、絶対に触れさせない……!)
その時だった。
「――そこまでだ、教会の者よ!!」
孤児院の古い木扉が、蹴破られる勢いで大きく開け放たれた。
そこに立っていたのは、銀色の甲冑を鳴らし、肩で息をする王国騎士団長、エレノア・ヴァン・クロイツその人だった。
その背後には、完全武装した精鋭の騎士たちがズラリと並んでいる。
「だ、団長様!? どうしてここに……」
驚くリトを背中に庇いながら、セシリアは氷のような視線をエレノアに向けた。
しかし、口調だけはあくまで、おっとりとした聖女のそれだ。
「あらあら……騎士団長様。大勢で押しかけて、いかがなさいましたか? リトの奉仕義務は、先ほど教会の権限をもって免除の手続きを……」
「教会の手続きなど知らん! 私は今日、その少年を本部へ連行しに来た!!」
エレノアはキビキビとした、しかしどこか必死さを孕んだ軍人口調で叫ぶと、懐から仰々しい羊皮紙を取り出し、バサァッ! と広げた。
そこには、王家の紋章が入った豪奢な蜜蝋が押されている。
「見よ! 国王陛下より直々に賜った『王命』である!」
「……は?」
セシリアの聖女の仮面が、ピシッと音を立ててひび割れた。
「こ、国王陛下はこう仰られた! 『我が国の誇る騎士団長の疲労を回復させるため、リトの淹れるカモミールティーは国防において必要不可欠である! 故に、彼を直ちに騎士団本部へ出仕させよ』とな!!」
「えええええっ!?」
リトが目を丸くしてすっとんきょうな声を上げる。
「王様が、僕のカモミールティーを!? ど、どういう!?国防!? 僕の雑用が国防に!?」
「その通りだ、リト! 貴様の掃除と茶は、すでに国家の存亡に関わっている! だから早く私のもとへ……いや、本部へ来い!」
堂々と王命を読み上げるエレノアだったが、その手は微かに震え、アメジストの瞳は血走っている。
数日間リトの成分を絶たれたことによる、完全な禁断症状だった。彼女は自分がどれほど狂ったことをしているか自覚しないまま、ただ「リトを取り戻さなければ自分が壊れる」という本能だけで、国王にまで直談判をしてきたのだ。
(…………な、なんなの、この女は!?)
セシリアの胸の内に、かつてないほどの激しい『焦り』が湧き上がった。
たかが戦災孤児の、なんの力もない一介の雑用係。
彼を巡る綱引きに、まさか『王命』などという国家の最終兵器を持ち出してくる人間がいるだろうか。
教会の権力で囲い込めると思っていた。
しかし、目の前の氷の騎士団長は、リトを欲するあまり、軍の指揮権も国王の権威も私物化して暴走している。
(まさか……この女の執着、私のそれと互角……いや、それ以上!? このままでは、本当に力ずくでリトを奪われてしまう……!)
「リトは渡しませんよぅ……!」
セシリアはリトの腕を強く掴み、背後に隠した。
「教会は彼を必要としています。王命であろうと、神の領域を侵すことは……!」
「国法は絶対だ! 邪魔立てするなら、教会ごと消滅させる!!」
エレノアが腰の剣に手をかける。
「ひぃぃっ! 団長様、シスター! 争わないでください!」
リトの悲痛な声が響く。
自己評価ゼロの少年は、自分が「神の愛」と「悪魔の誘惑」で最強の女二人を狂わせていることなど微塵も気づかないまま、震える声で叫んだ。
「どちらも人手不足で僕を必要としてくれていること、痛いほどわかりました! ですから……僕がこれまでの倍、働きます!!」
――ついに。
国と教会、二つの巨大権力が一人の少年を巡って激突する修羅場の果てに、妥協点として、『3日孤児院・3日騎士団・1日休息日』という、スケジュールとなったのだった。




