氷の剣姫の初めての敗走
執務室の机には、手つかずのまま冷めきった紅茶が置かれていた。
「……不味いな」
エレノア・ヴァン・クロイツは、一口だけ口をつけたカップを顔をしかめて置いた。
他の部下に淹れさせた茶は、温度も香りも、あの少年――リトが淹れるカモミールティーとは雲泥の差だった。
今日を含めた三日間、リトは孤児院での奉仕義務のため、騎士団本部には出仕していない。
(たかが雑用係が数日いないだけだ。業務に支障はない)
そう自分に言い聞かせるが、なぜか書類の文字が頭に入ってこない。視線は無意識に、いつも彼が掃除をしていた部屋の隅や、給湯室の方へと向いてしまう。
「……少し、風に当たってくる。急ぎの決裁以外は机に置いておけ」
エレノアは部下たちにそう言い残し、逃げるように執務室を後にした。
気がつけば、彼女の足は王都の端にある孤児院へと向かっていた。
(勘違いするな。私は騎士団長として孤児院に視察に来ただけだ)
もっともらしい言い訳を心の中で反芻しながら、孤児院の裏庭が見える垣根の陰からそっと中を覗き込む。
そこには、年下の子供たちに囲まれ、シーツを干しながら楽しそうに笑うリトの姿があった。
「あはは! こらこら、引っ張ったらシーツが破けちゃうよ!」
太陽の下で弾けるような、純度百パーセントの笑顔。
執務室で見せていたものと同じ、なんの打算もない無垢な笑顔。
トクン、と。
エレノアの胸の奥で、またあの奇妙な音が鳴った。
しかし同時に、ギリッと胸を締め付けられるような、名状しがたい焦燥感と痛みが走る。
自分が彼に向ける感情の正体が分からない。ただ、彼のあの笑顔が、自分以外の誰かに向けられていることが無性に苛立たしく、そして、ひどく寂しかった。
その時、不意にリトがこちらを振り向いた。
「あっ! ……エレノア団長様!?」
目が合ってしまった。
リトはパァッと顔を輝かせ、垣根の方へと駆け寄ってくる。
「団長様! もしかして、孤児院を視察に来てくださったんですか!?」
「っ……!!」
エレノアの心臓が、ドクン、と跳ねた。
いつもの威厳ある態度を取り繕わなければならないのに、喉がカラカラに乾いて声が出ない。顔に一気に熱が集まり、思考がショートしていく。
「ち、違うっ……! 私はただ、その……道に迷っただけだッ!!」
「えっ!? 団長様が道に……あっ、お待ちください団長様!」
リトの制止を振り切り、エレノアは脱兎のごとくその場から逃げ出した。
背中を向けて全速力で路地を駆け抜ける。歴戦の騎士団長にあるまじき、あまりにも無様なそして初めての敗走だった。
(私はいったい、何をやっているんだ……!?)
路地の陰に隠れ、壁に背中を預けて激しく息をつく。
氷の剣姫と呼ばれた自分が、たかが雑用係の少年に声をかけられただけで逃げ出すなど。自分の内側で急速に膨張していく「何か」に、エレノアは戸惑い、ギュッと胸元を握りしめて震えることしかできなかった。
「……あらあら」
エレノアが逃げ去った孤児院の裏庭。
その建物の暗がりから、ゆっくりと歩み出てきた人影があった。
シスター・セシリア。
彼女の顔には、いつものおっとりとした慈愛の微笑みが張り付いていた。
しかし、エレノアが走り去った路地を見つめるその瞳には――一切の光がない。まるで深海のようにドス黒く、冷たい闇が渦巻いていた。
「……困った方ですねぇ。わざわざこんな所まで、他人の家族を覗き見にいらっしゃるなんて」
おっとりとした、優雅で静かな口調。
だが、その声色は氷よりも冷たく、重い執着に満ちている。
セシリアは、リトが落としていった小さな洗濯バサミを拾い上げ、まるで大切な我が子を撫でるように、愛おしげに指先でなぞった。
「リトの居場所は、ここだけですのに。……あんなポッと出の女に、私の可愛いリトを渡すわけにはいきませんねぇ」
暗い目をした聖女は、孤児院の陰で一人、静かに笑みを深めた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




