聖女の微笑み
騎士団本部での、週に5日の奉仕義務。
その期間を終え、孤児院に帰ってきた僕は、休む間もなく厨房に立って夕食のスープを煮込んでいた。
「リト。あなた、またそんなに働いて」
ふわりと、陽だまりのような優しい香りが鼻をくすぐる。
振り返ると、柔らかな栗色の髪を揺らした孤児院の院長――シスター・セシリアが、困ったような、けれど慈愛に満ちた微笑みを浮かべて立っていた。
「国へのご奉仕、大変だったでしょう。せめてここに帰ってきた時くらいは、ゆっくり休んでいいのよ?」
彼女は僕の横に並ぶと、エプロン越しに僕の肩を優しく抱き寄せた。
豊満で柔らかい体が密着し、シスターの体温が直に伝わってくる。相変わらずシスターは、僕のことを本当の子供のように甘やかしてくれる。
「ありがとうございます、シスター。でも、全然大変なんてことないんですよ」
僕は鍋をかき混ぜながら、ニコッと笑って答えた。
「騎士団の皆さんは優しくてよくしてくれますし……それに、エレノア騎士団長様も」
「……騎士団長様が?」
「はい! 噂ではすごく厳しい方だと聞いていたんですけど、僕が淹れたお茶を飲んで『ありがとう』って言ってくださったんです。厳しいけれど、本当はすごく優しい方なんですよ」
僕が純粋な尊敬を込めてそう言った、次の瞬間。
――ピキッ。
シスター・セシリアの周囲の空気が、微かに凍りついた気がした。
いや、気のせいかもしれない。彼女の顔には、相変わらず聖母のような完璧な微笑みが張り付いている。
ただ、僕の肩を抱く彼女の指先に、ギュッと不自然な力がこもっただけだ。
「……そう。あの『氷の剣姫』様が、ねぇ」
セシリアの瞳の奥で、キュピーン!と光が走る。
(あの、他人に一切の情を見せない冷血漢が、リトに『ありがとう』ですって……?)
セシリアの脳内で、警鐘がガンガンと鳴り響いていた。
同時に、泥のように黒く重い感情――『独占欲』が、彼女の胸の奥底からドロドロと溢れ出しそうになる。
そう、セシリアがリトに抱いている感情は、単なる孤児院の院長としてのそれではない。
出会ったあの日からずっと、彼女は狂おしいほどの特別な感情を彼に抱き続けていたのだ。
数年前、戦火の爪痕が残る街の道端で、母親からはぐれ、途方に暮れてポロポロと泣いていた小さなリト。
誰もが自分のことで精一杯で、見知らぬ子供など見て見ぬふりをする過酷な世界の中で。
セシリアが彼を見つけ、その小さな体を抱きしめた時、彼は「ありがとう」と、涙に濡れた顔で、世界で一番美しい花のように笑ったのだ。
その瞬間、聖女として神に仕えてきた彼女の心に、神への信仰すら塗りつぶすほどの強烈な『執着と愛情』が生まれ、植え付けられてしまった。
(この純粋で美しい魂は、私が見つけた。私だけのものだ。他の誰にも、絶対に触れさせたくない――)
そんなドス黒いダークな感情が湧き上がるのを、セシリアは必死に理性の鎖で押さえつけてきた。
自分は聖女であり、彼を保護する立場の大人だ。歳の差もある。もし本性を曝け出して彼を怯えさせてしまえば、この無垢な笑顔は二度と自分に向けられなくなるかもしれない。
だから彼女は、なんとか「優しい保護者」としての体面を保ち、聖女の笑顔の裏に狂気を隠し通してきたのだ。
しかし今、自分の知らない場所で、よりにもよってあの高慢な騎士団長が、リトの無垢な優しさに触れたという。
放っておけば、あの女も間違いなくこの少年の引力に狂わされる。
「シスター? どうかしましたか?」
鍋から目を離したリトが、小首を傾げて僕を見上げてくる。
無防備なエメラルドグリーンの瞳。本当に、悪魔の誘惑ともいえる自分の魅力に微塵も気づいていない、罪作りな子。
「……ううん、なんでもないわ」
セシリアはさらに笑みを深め、リトの頬を両手で優しく包み込んだ。
「ただね、少し心配なの。リトは優しすぎるから……外の世界の悪い大人たちに、利用されたり、騙されたりしないかって」
「えっ? 僕みたいな雑用係を騙しても、何にも得することなんてないですよ?」
「そう思っているのはリトだけよ。……いい? リト」
セシリアは顔を近づけ、リトの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
それは聖女の慈愛に満ちた声でありながら、彼を逃がさないように絡みつく、甘く恐ろしい呪縛だった。
「あなたは、ただここで私のお手伝いをしてくれていればいいの。外の人たちに気を遣う必要なんてない。あなたが本当に安心できる居場所は、世界中でここ……私の腕の中だけなんだから。ね?」
「……シスター」
至近距離で囁かれた言葉に、僕はパァッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! やっぱりシスターは、僕の本当の家族みたいです!」
「ええ……家族、よ」
「はい! シスターがそこまで僕の心配をしてくれるなら、僕、孤児院でのお仕事も今まで以上に頑張りますね!」
「……」
見事に明後日の方向へとすれ違っていくリトの返答に、セシリアは笑顔のまま内心でこめかみを押さえた。
この自己評価の低すぎる少年には、遠回しな囲い込みは全く通じない。
(……ええ、いいわ。今はまだ、この温かい家族ごっこを楽しんであげる)
セシリアはリトを胸に抱き寄せながら、瞳の奥に昏い炎を宿す。
(でも、もしあの騎士団長がこれ以上、私のリトに手を出そうとするなら――その時は教皇庁を動かしてでも、彼を私の手元に縛り付けるまでよ)
神への祈りなど、とうの昔に忘れていた。
聖女が心の中で縋り、独占を誓う神は、今、彼女の腕の中で「夕食のスープが焦げちゃいますよぅ」と無邪気に笑っている少年ただ一人なのだから。
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