氷の剣姫
コンコン、と控えめにドアをノックする。
「……入れ」
分厚いオーク材の扉越しでも、空気が凍りつくような低い声が響いた。
失礼します、と扉を開けると、そこには書類の山に囲まれた王国騎士団長、エレノア・ヴァン・クロイツの姿があった。
「何の用だ。私は今、極めて機嫌が悪い。無駄用なら出ていけ」
彼女は手元の書類から一切目を上げず、絶対零度の声を放つ。
部屋の中に充満するピリピリとした殺気は、歴戦の騎士たちでさえ泣いて逃げ出すほどのものであり、二日間の徹夜が彼女の神経を限界までささくれ立たせているのは明白だった。
だが、僕はそんな彼女の姿を見ても「やっぱり団長様は働き者で立派だなぁ」としか思わなかった。
「急ぎの決裁書類をお持ちしました。それと、温かいカモミールティーです」
僕は足音を立てないように机に歩み寄り、お盆を差し出した。
カチャリ、とティーカップを置き、決裁書類を彼女の利き手側に、最も目を通しやすい角度で整えて置く。
「……」
エレノア団長様のペンの動きが、ピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げた彼女の、氷のように冷たいアメジストの瞳が僕を射抜く。
「貴様……自分が誰に向かって何をしているか、分かっているのか?」
「はい。僕たちの国を守るために、誰よりも頑張ってくれている団長様です」
僕が素直に答えると、彼女は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「ならば、この程度の気遣いで私の機嫌が取れると思うな。私は騎士団長だ。貴様のような雑用係の淹れた茶が、万が一にも熱すぎたり、逆に冷めていたりして執務の妨げになれば、即刻……」
言いながら、彼女は確認するようにティーカップへ口をつけた。
その瞬間、彼女の言葉が止まった。
(……なんだ、この茶は)
エレノアの内心に、微かな驚きが走った。
熱すぎず、ぬるくもない。疲労しきった内臓にじんわりと染み渡る、完璧に計算された温度。そして心を落ち着かせるカモミールの香りが、張り詰めていた頭痛をふっと和らげていく。
さらに、無造作に置かれたと思っていた決裁書類は、ペンを持ったまま視線を少し動かすだけで読める完璧な位置に配置されていた。
「……」
エレノアはカップを置き、改めて目の前の少年を見た。
少し袖の余った粗末なシャツを着た孤児。並の人間なら、自分の威圧感の前にガタガタと震え上がり、まともに息すらできないはずだ。
しかし、この少年は違った。そのエメラルドグリーンの瞳には、恐れも、逆に媚びへつらうような卑屈さも一切ない。
ただ純粋に、「お疲れ様です」という無垢な労いだけがそこにあった。
「……どうしましたか? もしかして、お茶が薄かったでしょうか」
「……いや。問題ない」
エレノアは意地を張るように視線を外し、再び書類にペンを走らせた。
「さっさと仕事に戻れ。私の視界でウロチョロされると気が散る」
「かしこまりました。あまりご無理はなさらないでくださいね。失礼いたします」
厳しい言葉にも、僕はニコッと一礼して踵を返した。
やっぱり団長様は国のために真剣だから、厳しいのは当然だ。僕ももっと仕事を頑張って、少しでも皆の役に立たなきゃ。
ドアノブに手をかけ、扉を開こうとしたその時。
「……ご苦労」
背後から、本当に小さな、微かな声が聞こえた。
「……ありがとう」
それは、普段の「氷の剣姫」からは想像もつかないほど、ポツリとこぼれ落ちたような、不器用な労いの言葉だった。
僕は驚いて振り返る。
エレノア団長様は相変わらず書類から目を逸らしたままだったが、その言葉が、僕みたいな底辺の孤児に向けられたものだと分かって、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「っ……えへへ!」
僕は思わず、パッと花が咲くように満面の笑みを浮かべた。
「お役に立てて、すごく嬉しいです! 団長様!」
なんの打算も、見返りも求めない。
ただ「ありがとう」と言ってもらえたことへの、純度100パーセントの喜びの笑顔。
――っ」
書類を見つめていたはずのエレノアは、その眩しすぎる笑顔を視界の端に捉えた瞬間、不覚にも、ふっと息を呑んだ。
ほんの一瞬だけ、心臓の鼓動が、トクン、と少しだけ強く鳴った気がした。
(……な、なんだ、今の笑顔は)
エレノアは目を見開いたまま、ピタリと固まった。
今までどんな屈強な敵を前にしても、どれほど絶望的な死地においても、決して揺らぐことのなかった彼女の呼吸が、ほんのわずかに乱れている。
冷たく張り詰めていたはずの心の奥底に、ポツンと温かい雫が落ちたような、奇妙で名状しがたい感覚だった。
「だ、団長様? どうかされましたか?」
「な……なんでもないッ! 早く行け! 貴様は掃除の続きがあるのだろうが!」
「は、はいっ! 失礼します!」
バタン、と慌ただしく扉が閉まる。
執務室に一人残されたエレノアは、ゆっくりと息を吐き出し、ペンを置いた。
「……」
少しだけ早くなった自分の脈を確かめるように、指先を首元に当てる。
やはり、疲労が溜まっているのだろうか。それとも、あの少年の淹れたカモミールティーの香りが、予想以上に神経を弛緩させたせいか。
(たかが雑用係の、孤児の少年の笑顔一つで……この私が、一瞬でもペースを乱されるなど)
彼女は苛立たしげに眉をひそめ、冷めかけたカモミールティーを飲み干した。
しかし、その口の中に広がった温かさと仄かな甘みは、なぜかいつまでも消えることがなかった。
彼女はまだ知らない。
この「奇妙な心の揺らぎ」こそが、のちに国を捨ててまで一人の少年を囲い込むことになる彼女の、長くて深い「沼」への第一歩であるということを。
そして、彼女の鉄壁の理性をすり抜けたその引力こそが、世界を狂わせる『神の愛』と『悪魔の誘惑』の、恐るべき螺旋の片鱗であるということを――。
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