塗り替えられた英雄譚
おねショタ激甘重い物語を書きたくなったので書きました。
フラッシュの瞬く光と、ざわめきに包まれた大講堂。
壇上に立つ白髪の老人は、震える手で分厚い一冊の論文を掲げた。
「本日はお集まりいただき感謝する。今から50年前……私の恩師であり、二度の世界的権威ある賞を受賞した偉大なる量子物理学者は、息を引き取る間際にこの論文を私に託した」
老人の言葉に、世界中から集まった記者や学者たちが息を呑む。
「『私が死んでから50年後に、これを世に出してほしい。それまでは必ず深く秘しておくこと』。それが、恩師の最後の遺言だった。……私は今日、その約束を果たす」
スクリーンに映し出された論文のページ。
前半を埋め尽くすのは、現代の最高峰の頭脳を集めても解読に数十年はかかるであろう、複雑怪奇な数式の羅列。
だが、世界を震撼させたのは、後半に綴られた恩師自身の『文章』だった。
老人が、恩師の言葉を代読する。
『私は昔から不思議だった。全能の神がこの世を統べており、悪魔が地獄で凍りついているというのなら、なぜこの世界はこれほどまでに悪意に覆われているのか。なぜ、善意は個々の人々の間に、ほんの小さく纏われるのみなのか』
静まり返る講堂に、老人の声だけが響き渡る。
『我々の研究が示した通り、素粒子の世界においては、すべての物質、時間、そして運命すらも、波のエネルギーとして揺蕩っている。人が“観測”しない限り、物事は確定しないのだ。
それはつまり、これまで人間が信じてきた「神」も「悪魔」も、信じられてきたというだけで誰も観測しておらず、不確定なまま揺蕩っているということになる。
――いや、揺蕩って“いた”、と言うべきか』
老人が論文のページをめくると、そこに記されていたのは、科学の歴史を根底から覆す、狂気すら孕んだ真実だった。
『私はこの論文の前章までの計算を用いて、密かに「神と悪魔の存在」を観測してしまった。
そこで得た結論は、神も悪魔も独立した存在ではなく、螺旋状に深く絡み合い、陰と陽をなしているという事だ。神の愛は、悪魔の誘惑と表裏一体であり、決して切り離すことはできない。
この観測結果は、我々の歴史の認識を根本から覆す。
一つの例を挙げよう。建国史において最も尊ばれている英雄伝説――『魔王を倒し、その代償として命を落としたとされる、聖騎士エレノアと聖女セシリアの物語』だ。
私の計算した量子波動の痕跡から推論される彼女たちの結末は、歴史書で信じられているものとは、全く違う。
彼女たちは、魔王を討ってなどいない。
純粋すぎる神の愛と、恐ろしい悪魔の誘惑……その両方を併せ持って生まれた“ただ一人の少年”に出会い、狂わされ、そして――』
老人の声が、ふっと途切れる。
スクリーンに映し出された最後の文章。そこには、偉大な物理学者が遺した、まるで御伽噺のような一文が記されていた。
『――世界中が恐れたその魔王は、誰よりも優しく、健気で、ただ床を磨き、美味しいお茶を淹れるだけの、自己評価の低い雑用係だったのだから』
***
「ふぅ……よし、こんなもんかな」
王都の中央にそびえ立つ、豪奢な白亜の建造物――王国騎士団本部。
その長く広い廊下の床を磨き終えた僕は、額の汗を拭いながら満足げに息を吐いた。
僕の名前はリト。
かつて隣国との戦争で両親を亡くした戦争孤児だ。
孤児院のシスター・セシリアに拾われ、たっぷりの愛情を受けて育った僕は、保護の代償として国の奉仕義務を負って、現在この騎士団本部で雑用係として働かせてもらっている。
シスターがお直ししてくれた、少し袖の余るお下がりの詰め襟シャツ。
特別な魔法も使えず、剣を振るう力もない僕にとって、掃除やお茶汲みといった「雑用」は、国や孤児院に恩返しができる唯一の仕事だった。
「おーい誰か、団長様にこの決裁書を届けてくれ!」
「馬鹿野郎、団長に今近づいたらヤバいぞ、書類仕事二徹目だぞあの人」
廊下の向こうから、屈強な鎧姿の騎士が青ざめた顔で歩いてきた。
彼らが怯えているのは、この先にある執務室の主――王国が誇る『氷の剣姫』こと、エレノア・ヴァン・クロイツ騎士団長だ。
銀糸のような美しい髪と、絶対零度のアメジストの瞳を持つ彼女は、戦場では無敗を誇る完璧な騎士である。しかし、規律に厳しく一切の妥協を許さないその冷徹さから、部下たちからはひどく恐れられていた。
「どうしよう、急ぎの決裁なのに……あ、リト!」
騎士の一人が、雑巾を片手に持っている僕を見てすがるような声を上げた。
「た、頼む! お前、団長にお茶を淹れるついでに、この書類を団長様の机に置いてきてくれないか!?」
「えっ、僕がですか? もちろん構いませんけど……」
「恩に着る! 生きて帰ってこいよ!」
騎士たちは書類を押し付けると、嵐のように去っていった。
大げさだなぁ、と僕は首を傾げる。
たしかにエレノア団長様はいつも眉間にシワを寄せているし、声も冷たい。
でも、僕みたいな身寄りのない雑用係をこの本部に置いてくれている、とても慈悲深くて偉大な人なのだ。怖がる必要なんて一つもない。
僕は給湯室で温かいカモミールティーを淹れると、書類と一緒にお盆に乗せ、執務室のドアをノックした。
のちに『魔王』として世界の歴史に名を刻むことになど微塵も気づいていない僕は、
のちに『魔王を倒した英雄』として名を残すことになる氷の騎士団長が待つ部屋へ、無邪気な足取りで入っていった――。
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