戦場のカモミールティー
泥と血の匂いが立ち込める最前線の野営地。
連日の激戦により、王国軍の士気は限界に達しつつあった。
「……次の部隊を前へ出せ。右翼の防衛線を死守するのだ」
天幕の中で地図を睨むエレノアの顔には、濃い疲労の色が浮かんでいた。
キビキビとした軍人口調で指示を飛ばしているが、数日間「リト成分」を絶たれた彼女の心身は、すでに禁断症状の極みに達していた。
(頭が割れるように痛い……。リトの淹れた茶が飲みたい。リトの匂いを嗅ぎたい……っ。こんな泥だらけの戦場、今すぐ更地にして王都に帰りたい……!)
一方、負傷兵が次々と運び込まれる野戦病院の天幕では。
「女神の加護があらんことを……」
セシリアがおっとりとした声で治癒魔法をかけ続けていた。
表向きは慈愛に満ちた聖女そのものだが、その瞳の奥はドス黒く濁りきっている。
(ああ、なぜ私がこんな薄汚れた男たちの血を拭わなければならないの? 私が触れていいのはリトだけなのに。私の可愛いリト……今頃、寂しくて泣いているのではないかしら……)
国を背負う二人の英雄が、それぞれ限界を迎えて倒れる寸前だったその時。
野営地に、後方からの補給物資を積んだ馬車が到着した。
「団長様! シスター! 補給部隊が到着しました!」
「あぁ……ご苦労」
「あらあら、ようやくですねぇ……」
報告を受けて天幕から出てきた二人の視界に、信じられないものが飛び込んできた。
荷台の木箱の間からヒョッコリと顔を出したのは、少しサイズの余ったシャツを着て、両手にヤカンと雑巾を持った、見慣れた少年だったのだ。
「団長様! シスター! お疲れ様です! お茶をお持ちしました!!」
「「…………は?」」
砲弾の音が鳴り響く戦場のど真ん中に、エメラルドグリーンの瞳を輝かせた雑用係が降臨した。
「リ、リト!? 貴様、なぜこんな所に……ッ!?」
「リト!? 孤児院で待っていなさいと言ったのに……!」
血相を変えて駆け寄るエレノアとセシリア。
リトは荷台から飛び降りると、ニコニコと笑ってヤカンを掲げた。
「お二人とも人手不足でお困りだと思って! 水汲みでも包帯洗いでも、なんでも僕に命じてください!」
究極の善意が、戦場という地獄に放たれた瞬間だった。
「こんな危険な場所に!」と怒鳴りつけようとした二人だったが、リトが近づいてきたことで、その身体から漂う『石鹸の匂い』と『神の子の癒やし』を、極限状態の脳がダイレクトに吸い込んでしまった。
「――ッ!!」
ガシャン!! と大きな音を立てて、エレノアがリトに覆い被さるように抱きついた。
「だ、団長様!?」
「んん……リトぉ……っ! 来ちゃダメって言ったのにぃ……でも、でも……っ」
先ほどまでの威厳ある指揮官の面影は秒で消し飛び、エレノアはリトの首筋に顔を埋めて、熱に浮かされたように匂いを嗅ぎ始めた。
「すぅーっ……はぁっ……リトの匂い……! 枯れ果てた心に沁み渡るのぅ……っ。危ないからどこにも行かないでぇ……ずっと私に撫でられててぇ……」
「だ、団長様!? お怪我はないですか? ああっ、こんなに重い鎧を着て……やっぱり戦場は過酷なんですね!」
勘違いして背中をさするリト。しかし、反対側からはセシリアがリトの腕をギュッと抱き込んでいた。
「リト……私のリト……っ! 悪いお外の世界に出ちゃダメって言ったのにぃ、悪い子ねぇ……!」
彼女もまた、普段のおっとりとした聖女の仮面をかなぐり捨て、完全に幼児をあやす過保護な母親モードへと突入していた。
「でも、よくシスターのところに来てくれましたねぇ……よしよし、えらい、えらい……っ。もう大丈夫よぅ、シスターにぜーんぶ任せて。リトを悪い敵さんから守ってあげるからねぇ……」
怒声と悲鳴が飛び交う戦場のど真ん中で、王国軍のトップ二人が一人の少年にすがりつき、完全に理性を溶かして甘え倒している。
周囲の兵士たちが「団長と聖女様が壊れた!?」と呆然と立ち尽くす中、事態はさらに最悪の方向へと転がり始めた。
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