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『シュレーディンガーの魔王様〜ただのお世話係の孤児、愛が重すぎる騎士と聖女に囲い込まれる〜』  作者: 虹の箸


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開戦の足音

墓前での誓いを経て、三人の間には奇妙だが確かな絆が結ばれた。

3日は騎士団で働き、3日は孤児院で奉仕し、1日の安息日には二人の過剰な、そして本人は全く気づいていない愛情を一身に受ける。

愛と勘違いに満ちた平穏な日々は、このまま永遠に続くかのように思われた。

しかし、時代は彼らの安息を長くは許さなかった。

数年前の終戦協定で火種が消えたはずの隣国との国境地帯で、突如として大規模な武力衝突が発生したのだ。

事態は瞬く間に悪化し、王都の空気は一変。街路には重武装の兵士たちが慌ただしく行き交うようになる。

王国騎士団は極度の緊張状態に置かれ、全軍の指揮を執るエレノアもまた、最前線への出陣を余儀なくされた。さらに、教会からは有事の際の特例として、聖女であるセシリアが「筆頭軍医」として戦地へ動員されることが決定した。

国と教会を代表する二人の英雄が、激戦地へと赴く。

それはつまり、あの『3日・3日協定』の強制終了を意味していた。


出征前夜。

騒然とする騎士団本部の執務室で、銀色のフルプレートアーマーに身を包んだエレノアが、リトを前にして険しい表情を浮かべていた。

「リト。貴様への新たな命令だ」

キビキビとした、いかにも軍のトップらしい威厳に満ちた声。

「明日より、貴様には本部地下にある『第五特別書庫』の専属管理を命じる。あそこは分厚い防魔壁に覆われており安全だ。私が戻るまで、食事の時以外は一歩もそこから出るな。いいな、絶対にだ!」

それはリトを安全な地下シェルターに隔離するための、彼女なりの必死の保護だった。

「はいっ! 承知いたしました、団長様! 地下書庫、ピカピカに磨き上げておきますから、ご武運を!」

リトが満面の笑みで敬礼した、その瞬間だった。

「……っ」

ガシャン、と重たい鎧の音が鳴ったかと思うと、エレノアが糸の切れた操り人形のように倒れ込み、リトの華奢な体にすがりついた。

「わわっ!? だ、団長様!?」

「んん……リトぉ……っ。本当は、戦場になんて行きたくないのぅ……」

先ほどまでの威厳は跡形もなく消え去り、エレノアはリトの首筋に顔をグリグリと擦り付けながら、熱に浮かされたような極甘の声を出し始めた。

明日から長期間、リト成分を摂取できなくなるという事実が、彼女の理性を戦崩壊させたのだ。

「ずっとここでお前の匂いを嗅いでいたいのぅ……。もっと近くに来てぇ……はぁ、リトの匂い……落ち着くぅ……」

「だ、団長様!」

「んふふ……リトぉ……私がいなくて寂しいぃ? 寂しいよねぇ? 私は寂しいのぅ……だから、今日は夜明けまで私を撫でててぇ……?」

(団長様、全軍を指揮する重圧に耐えきれなくて、ついに幼児退行みたいな防衛本能が出ちゃったんだ! なんて過酷な立場なんだろう。僕がしっかり看病してあげなきゃ!)

リトは相変わらず斜め上に解釈し、「はいはい、大丈夫ですよ」と、彼女の銀髪を優しく撫で続けた。

数十分後、リト成分を最大量まで吸い込んでようやく理性を取り戻したエレノアは、真っ赤な顔で咳払いをして「き、貴様は絶対に外に出るな!」とだけ言い残し、逃げるように出陣していった。


その数時間後。

今度は孤児院の礼拝堂で、リトはセシリアと向き合っていた。

血の汚れを目立たせないための暗紅色の軍医服の上に、純白の十字ケープを羽織った彼女の姿は、いつにも増して神々しかった。

「シスター……本当に、戦地に行っちゃうんですか?」

「ええ。国が危機にある時、傷ついた人々を癒やすのが教会の務めですから」

セシリアはおっとりと微笑むと、祭壇の前の長椅子に座り、自らの膝をポンポンと叩いた。

「さぁ、こちらにいらっしゃいな。シスターがいない間、リトも寂しいでしょう?」

「えっ、あ、はい」

リトが素直に近づくと、セシリアは彼を無理やり自分の膝の上に座らせ、その頭を自らの豊かな胸元へとギュッと抱き込んだ。

「よしよし……私のいい子ねぇ、リト。お留守番、可哀想に……よしよし……」

「シ、シスター、苦しいです……!」

「ほーら、お口あーんしてちょうだいねぇ」

セシリアは抗議を笑顔でスルーし、手作りした甘い焼き菓子をリトの口に押し込んだ。モグモグと食べる彼を見つめながら、彼女の態度は言葉の通じない赤ん坊を溺愛する母親のそれだった。

「んふふ、えらい、えらい。いっぱい食べてねぇ……。シスターの匂いと温もり、ちゃーんと覚えとくのよぉ……」

(シスター、残していく家族のことが心配でたまらないんだ……。僕が一人で何もできないと思っているみたいだけど、それだけ愛してくれている証拠だなぁ)

腹の底で暴れ狂う、今すぐ彼を連れて逃げ出したいという想いを必死に押さえ込んでいることなど露知らず、リトは過保護な家族愛としてそれを受け入れていた。

やがて、セシリアはリトの耳元に顔を寄せ、呪縛のように重く囁いた。

「私は必ず生きて帰るわ。だから……『ここで待っていなさい』」

――ここで、待っていなさい。

その言葉を聞いた瞬間、リトの脳裏に、かつて戦火の中で燃え盛る街の記憶がフラッシュバックした。

『ここで待っていなさい』。それは、あの優しいお母さんが残した、最後の言葉と全く同じだったのだ。

「っ……はい! わかりました、シスター。僕、ずっと待ってます!」

リトが力強く頷くと、セシリアは満足げに微笑み、彼のおでこにそっと口づけをして戦地へと旅立っていった。

***

二人の英雄が王都を去り、静まり返った孤児院の自室。

一人残されたリトは、荷袋に石鹸と何枚もの清潔な包帯と布を詰め込んでいた。

地下で大人しく埃を払え。ここで待っていなさい。

それは紛れもなく、彼を命懸けで守ろうとする二人の愛だった。しかし、根っからの働き者である彼が、その温情に甘えて大人しくしているはずがなかった。

(お二人とも、きっと戦場で人手不足に悩まされるはずだ。あんなに疲れていた団長様や、僕たち家族の心配ばかりしているシスターに、水汲みや包帯洗いなんてさせている余裕はないだろうし……!)

今の自分には、孤児院と騎士団で鍛え上げられた雑用スキルがある。

(僕みたいな雑用係が安全圏でぬくぬくしている場合じゃない! 僕もお二人の役に立たなくちゃ!)

自分が向かおうとしている場所がどれほど凄惨な地獄か、そして自分が現れることで、お姉さんたち二人がどれほどのパニックを起こすことになるかなど、微塵も想像しないまま。

「よし! 待っていてください、お二人とも! 僕、戦場でも最高のお茶を淹れてみせますからね!」

こうして、世界中で最も純粋で、最も自分の価値を分かっていない神の子は、前線へ向かう補給物資の馬車にこっそりと潜り込み、激戦地へと向かって出発したのである。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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