4 48時間前(後編)
深碧色の布地には、シルフェード王国の伝統刺繍が施されている。
「以前、シルフェードの伝統刺繍に興味があると話していただろ? 是非、君に見てもらおうと取り寄せたんだ。手に取って、見てもらっても構わないよ」
たしかに、伝統刺繍が好きなことは話したかもしれないが、覚えてくれていたとは思わなかった。
殿下に許可をいただいたので、私は生地を慎重に手に取る。
(なんて緻密なのかしら……。綺麗なんて言葉じゃ言い表せられない。この中に、一つの世界が完成しているわ……)
私は食い入るように、刺繍を眺める。
「君さえよければ、シルフェードで、この伝統刺繍を学んでみないかい?」
殿下の思いもよらない言葉に、私は驚いて顔を上げた。
「昨今シルフェード国内では後継者不足で、伝統刺繍を継承するのが難しくなっているんだ。しかし、君ほどの刺繍の技術があれば、習得できるはずだ」
「そんな、私の技術なんて、大したことはありませんわ。それに私は学園を卒業したら、ヨーク家へ嫁入りが決まっておりますので、シルフェードへ行くなど無理なお話ですわ」
私は苦笑し、かぶりを振った。
シルフェードへ行って刺繍を学ぶなんて、そんな無謀なこと許されるわけがない。
(……そんな夢みたいなこと……、本当にできたら、どんなにいいか……)
キュッと胸が締め付けられる。
二日後、この学園を卒業し、私は結婚しなければならない。そして、あの兄妹に囚われて、一生、檻の中で暮らしていくのだろう。
「――君は本当に、それでいいのかい?」
殿下は気品ある所作で、カップを持ち上げる。
「……どういう意味でしょうか?」
殿下の言わんとしていることが、分からなかった。
「目の前に、違う未来の可能性があるというのに、それを見ようともせずに、自らその可能性を潰すということだよ」
殿下はカップに口をつけた。
図星を突かれ顔を伏せると、手に持っていた刺繍が目に入る。
(……そう言われたって、それ以外の道を選ぶなんて許されない……。お父様が許可してくれるはずないわ……)
クラヴィス侯爵家の娘として生まれた私には、家のために良家へ嫁ぐというのは当然の務め。
「……殿下、貴重な物を見せていただきまして、ありがとうございました」
私はテーブルの上に布を戻し、殿下にお礼を言う。
カチャと、静かにカップを置く音が聞こえた。
「……君が本気でシルフェードに渡りたいと言うなら、俺が全面的に協力しよう」
「……え? 殿下が協力……!?」
私は目を見開き殿下を見つめると、空色の瞳とかち合う。冗談を言っているようには見えなかった。
「シルフェード王国の王子である俺の特権を使えば、たとえ婚約破棄だろうが、留学だろうが、不可能じゃないさ。可愛いご令嬢の頼みなら、一肌脱いでも構わないよ?」
殿下はいたずらっぽい笑みを浮かべる。それは、まるで悪魔の囁きのような、甘い誘惑だった。
(……殿下に協力してもらえれば、婚約破棄も、留学も、そんな道があるというの……?)
いつの間にか握っていた手は、じわりと汗ばんでいた。
「やはり……俺が信用できないかな?」
殿下はスッと目を細め、少し悲しげにこちらを見上げるように見つめてくる。
私は慌てて首を横に振った。
「いいえ、まさか、そのようなことはございません! ただ、お気持ちはありがたいのですが、私個人のことで殿下のお手を煩わせるわけにはいきませんわ」
「いや、君個人の問題ではないよ。シルフェードでも、技術を継承できる優秀な人材が必要なんだ」
私は殿下の誘いに返事をすることができなかった。
「……ふっ、すぐに決める必要はない……が、一応、これを書いておくのはどうかな?」
「え?」
殿下はテーブルの端に置いてあった書類の束とペンを、私に手渡してくれる。
それはシルフェードの文字で書かれていて、一番下には殿下のサインが記されていた。
私もシルフェード語は学んでいたが、専門用語などを読むのはまだ難しい。
「えっと、なんの書類でしょうか?」
「これは招へい状だよ。シルフェード王国から、正式にローゼ嬢を招き入れるつもりさ。で、この書類は留学申請書、こちらは――万が一のための、出国や入国に関する諸手続きの書類一式さ」
「え!? い、一式ですか……? 私、まだ……っ」
殿下の用意周到さに驚きつつ、私は両手を振って断る。
「もちろん、サインをしたからといって、今すぐ効力が出るものではない。お守りみたいなものだよ。ただ、君に知ってほしかったんだ。……君が選びさえすれば、別の未来もあることを、ね」
その優しく注がれる空色の瞳に、私は胸を打たれる。
( 私の未来を案じて、ここまでご用意してくださるなんて……っ! そうよね……。書くだけなら、自由ですわよね)
いつかそんな日が来ることを夢見て、私はペンを走らせたのだった。




