2.2 無知の知と、消えた歴史
「……いや、本当に何なんだ、これ」
僕は、ゴブリンが消え去った地面にぽつんと残された、小さな赤黒い『魔石』を拾い上げた。
ダンジョンまとめサイトによれば、通常なら初心者はここで「やった、初討伐だ!」と歓喜するらしい。しかし、僕の心にあるのは達成感ではなく、圧倒的な困惑だけだった。
「ふむ。主よ、怪我はないかね?」
白い布を巻き付けた禿げ頭のおじさん――ソクラテヌが、親戚の法事にいるおっさんのような気軽さで話しかけてくる。
「あ、はい。怪我はないですけど……あの、あなた一体何者なんですか? スキルで召喚されたのは分かりますけど、その……」
「何者、ときたか。素晴らしい問いだ!」
ソクラテヌは嬉しそうに目を輝かせ、突き出たお腹をポンと叩いた。
「しかし困ったことに、私自身にもそれが分からんのだ。名前は『ソクラテヌ』と脳裏に刻まれているし、何かを『問わずにはいられない』という強烈な衝動はある。だが、自分がかつてどこで生まれ、何をしていた人間なのか、記憶の霧の彼方に消えていて思い出せんのだよ」
「えぇ……自分のことが分からないんですか?」
「うむ! まさに『私は、自分が何も知らないということを知っている』状態だな。ハッハッハ!」
豪快に笑っているが、笑い事ではない。
というか、さっきからこのおじさんが使う言葉―学校の授業(一般教養)でもネットの海でも、一度も聞いたことがない単語ばかりだ。
この世界には、彼が語るような学問の記録は存在しない。
義務教育で習うのは、数学、科学、そしてダンジョン出現以降の「現代魔導技術」や「サバイバル法」といった、徹底的に実用主義な知識だけ。人の心の在り方を論じるような、そんなまどろっこしい歴史は、教科書のどこを捲っても載っていなかった。
「……まぁ、いいか。とりあえず、魔物を倒せるのは間違いないみたいだし」
「倒す、とは人聞きが悪いな。私はただ、緑の彼と『対話』をしただけだ。彼が勝手に、自らの矛盾の重さに耐えかねて霧散したに過ぎん」
「それを世間では精神崩壊って言うんですよ」
深いため息をつきながら、僕はステータス画面を開く。
すると、そこには新たなログが刻まれていた。
【ゴブリンを討伐しました。経験値を獲得】
【ソクラテヌの『記憶の断片:アテナイの風』が0.1%解放されました】
「……ん? 記憶の断片?」
画面を凝視する僕の横から、ソクラテヌがフムと画面を覗き込む。
「ほう。どうやら主と共にこの『ダンジョン』とやらを進み、世界の歪み(魔物)と対話を重ねることで、私の失われた記憶……いや、この世界から消え去った『何か』が戻ってくるようだな」
ソクラテヌの目が、一瞬だけ、ただの呑気なおじさんとは思えないほど鋭く、知的な光を宿した。
「主よ。どうやら君のスキル『倫理マスター』は、単に魔物を滅ぼすための道具ではないらしい。私たちが戦う(対話する)ことは、この世界の失われた理を取り戻す旅路なのかもしれんぞ」
「世界の、失われた理……?」
なんだか、アマチュア探索者登録をした時の「バラ色の高校生活」というおじさんの言葉から、どんどん遠ざかっている気がする。
僕が引きつった笑いを浮かべていると、ソクラテヌはまたいつもの呆けた顔に戻り、「さて、次の対話の相手を探そうか!」と、楽しそうに洞窟の奥へと歩き出した。
こうして、歴史に存在しない『倫理』を武器にした、僕たちの奇妙なダンジョン攻略が始まったのだった。




