匂いだけ欲しい
九月の始まりと共に夏休みも終わり、ぼんやりしていたら学校祭も終わる。俺は主にパネルの色塗りしかしていないので、何の感慨も達成感もなかった。それよりも、姫ちゃんと会話できていない辛さばかりをひしひしと感じてしまい何も手につかない。姫ちゃんはこっちを向こうともしない。俺の席の位置を把握しているから、その方向を意地でも見ないようにしている。間違っても俺と目が合わないようにしている。そんな頑なさが窺える。
しかしそんな俺にもチャンスはある。地学の授業だ。別棟の講義室でおこなわれる授業で、席替えが一切なく、俺は四月からずっと姫ちゃんの隣に座っている。ただ、姫ちゃんは俺を警戒してか授業開始と同時にしか座席に着こうとしないので、俺はもう授業中にコンタクトを取るしかなくなる。
先生が授業を進めながらチョークで黒板を打つ、けたたましい音に乗じて俺は小声で訊く。「姫ちゃん、元気?」
「!」
姫ちゃんはすぐ真っ赤になり、心持ち俺に背を向けるような体勢を取り、こくこく頷く。
反応してもらえて俺は気分を上げる。続け様に「あんまり話せなくて寂しいよ」と言う。
姫ちゃんは赤い顔のままうつむき、ノートに何やら書いて俺に見せてくる。『しばらく話せないです。ごめん』。
俺の鼓動が一度だけ大きく揺らぐ。『なんで?』と俺も筆談に移行する。
『恥ずかしい。ごめん』と書いてから、姫ちゃんはすぐに書き足す。『頭の中がごちゃごちゃ。いっぱいいっぱいです』。
俺は小さく息を吐く。やっぱり姫ちゃんは深く悩んでいるようだった。悪いことをした。『ごめんなさい』。
姫ちゃんはこちらを見ることなく、ふるふると首を振る。『私のもんだい』。
俺にできることは……いや、ないな。思いつかないし、何をしたところで余計なことにしかならない気がする。余計なお世話ぐらいならまだマシだけど、本当にただただ『余計なこと』になりそうで恐い。
俺は話題を変えて『ハンカチいる?』と書く。
どう答えるか微妙なところだったが、姫ちゃんはおずおずと頷いてくれたので、匂いをチャージしたハンカチだけはとりあえず渡しておくことにする。
姫ちゃんは俺の匂いだけが欲しいのだ。俺は姫ちゃんにとって、匂いだけの男になってしまった。話すことなどないし、顔を見る必要もない、匂いにしか価値のない存在。匂いというアドバンテージを利用して姫ちゃんに近づこうとしていた俺は、とうとう逆に、匂いだけを姫ちゃんに利用される形となってしまった。
授業が終わり、生徒達がぞろぞろと講義室をあとにしても、俺は立ち上がれなかった。姫ちゃんと距離ができてしまったこと、俺が姫ちゃんにしてしまったこと、姫ちゃんにとっての俺の価値……いろいろ考えているとどんどん体が重くなる。その重みで、講義室の長椅子がひしゃげて曲がってしまうんじゃないだろうか?
次の授業でここを使う生徒達がぼちぼちとやって来始めるが、俺はまだ動けない。石像のようになっていると、「丹羽じゃん。何してんの?」と声をかけられる。「次の授業始まるよ?」
顔を上げなくてもすぐに誰だかわかったが、それでも顔を上げてみると、ひとつ前の机に有木がお尻を乗っけて座っている。足は長椅子の上に乗せている。行儀が悪い。俺は「休み時間だから休憩してるんだよ」と言う。どうやら次の授業、二年八組がここを使うらしい。
「あんた大丈夫?」とすぐ言われる。「保健室で休んだら? やばい顔してるよ」
「え、やばい?」
「やばいやばい。最愛の人にさよならを言われた人みたいな顔してるよ」
「…………」
そういう本当にありそうな冗談を言うのはやめてくれっていうか、今回はほぼ正解じゃない?それ。
「……保健室いっしょに行こうか?」
「平気だよ」と俺は丁重にお断りする。「珍しく優しいんだな」
「普段のあたしってそんなに性格悪い?」と有木が心外そうに訊いてくる。「ふざけるときはふざけて、大切なときは大切な感じにしてるつもりだけど?」
「まあそうかもな。ありがとう」
「まあ今のはあんたに託つけて授業サボろうとしてただけなんだけど」
「はっ」と俺は強いて笑う。「サボりたきゃ勝手にサボればいいじゃん」
「サボる理由がないとサボれないんだよ。あたしは根が真面目だから」
「……ありがとう。有木」
「別に。いくらなんでも凹みすぎだろ」と有木は笑う。「あんたが臭くなかったら、反射的に頭撫で撫でしてあげてるくらいの落ち込みっぷりだよ」
「撫で撫でして」
「無理。射程内に入っちゃう」有木が足をドン!と俺の机……俺の顔の前に置く。「足でならよしよししてあげるけど?」
「足ならいらない」って言いながら、俺は有木の足が上がったおかげで広がったスカートの隙間からわずかに見える有木のパンツを拝む。赤い……テロテロ。マジか。けっこうエロい。俺は立ち上がる。席からね。「……元気になった」心がね。
「ホントに?」
「なったよ」俺は有木に微笑みかける。
有木は目を逸らす。「まあ、顔色は少しよくなったかな」
「なあ。今日の放課後、またコーヒーショップ行かない?」
「あ、ごめん」あちゃと顔をしかめる有木。「あたし今日は病院だ。ごめん」
「あ、そうなんだ。だったらいいんだけど……病気かなんか? 大丈夫か?」
「あー、全然平気。病気とかじゃないよ。歯医者みたいなもんだから」
歯医者みたいだけど歯医者ではないのか。「ならいいよ。了解」
「夕方……っていうか夜からなら会えるけど」
「いや、夜はダメだろ。危ないし。明日も学校だし」
「じゃあまた今度ね」と有木は頷く。「いや、何時になってでも会ってあげないといけないくらい悲愴な顔してたからさ」
「いやいや。マジで心配には及ばない。ありがと。それだけで元気出た」
「ん。礼にも及ばない」有木は机から降り、「そろそろ帰ったら? チャイム鳴るよ」と言う。
「そうだな。赤テロ」と俺はからかってやろうとするが、有木には伝わらず、怪訝そうな顔をされて終わる。自分の穿いているパンツの色も覚えてないのか?とあきれるけれど、よく考えたら俺も自分が今どんなパンツを穿いているかなんて微塵も覚えていない。
視線……を感じた気がして、俺はふとそちらへ目を向ける。こちらを眺めて立っているのは六海皐月。俺と六海の視線同士が初めてぶつかる。初対面。そうだった、こいつも八組の生徒。六海は俺のことをどれだけ知っているんだろう? 姫ちゃんは六海に俺のことを何か話したんだろうか?
喋りかけてきかねないぐらい凝視されていた気がしたけれど、俺の自意識過剰だったようで、視線が衝突するとすぐに六海は目を伏せ、そのまま自分が座る席へと歩いていく。やれやれ。そんな姿すら舞台のワンシーンみたいだというんだからうんざりする。
「格好いいよね、六海くん」と有木が言う。
「まだいたのか。このイケメン好きが」
「格好いいっつっただけじゃん。好きとは言ってない。早く教室戻れよ、ブサメンコンプレックス」
「ひっでえ」落ち込んでる奴にそんなこと言う?
「今度コーヒーショップね」
「はいはい」
俺はようやく講義室を出ることができた。チャイムが鳴り、次の授業の開始を告げてくるが、俺は走ることなくゆっくり歩く。ゆっくりと別棟から本校舎へ移り、ゆっくりと四組の教室を目指す。ゆっくりとしか無理だ。




