鼻風邪
十月に入り、朝晩がだいぶ涼しくなってきた頃、有木が遊びに誘ってくれる。鷹座駅で待ち合わせ。俺は絲草駅から普通に電車で来るが、有木は地下鉄の方が自宅から近いためそちらを利用してわずかに遅れて来る。地下鉄のホームで出迎えてやると、くしゃみをしながら鼻をずびずび言わせた有木が現れる。パッと見で明らかに風邪をひいていた。
俺はすぐ言う。「お前、帰れよ。体調悪いのに無理して来なくていいから」
「超余裕」と有木もすぐ返してくる。「鼻がおかしいだけだから。体はなんともないよ」
「つっても、鼻だけでもだいぶひどそうだけど?」
「平気。それに試してみたいことがあるんだ」と言いながら有木が近づいてくる。
「いきなり試したいことって……なんだよ」
「…………」有木が緊張した面持ちで迫ってきて、迫ってきて、俺の隣に立つ。
「ん? なに?」
「なに?って、わかんない?」
「何が? あ、お前、俺の傍に来ても大丈夫なの?匂い」
有木は得意気に笑う。「鼻詰まってるから」
「ああ……なるほど」匂いを感じないから、俺の体臭に包まれていてもへっちゃらなのか。
「もしかしたらあんたの匂いだけは鼻詰まりも突き抜けて来るんじゃないかって不安だったけど……匂いである以上は、鼻さえ塞げば匂わないみたいだね」
「へえ」
「今朝起きたら鼻詰まってたから、これは試してみないと!と思ってね」有木は楽しそうだ。「あんたの大悪臭も、鼻が機能してない人間は殺せないんだね。悔しかろう」
「臭くないっていうんなら本望だよ」と俺は受ける。「なんでもいいけど、無理するなよ? それ、風邪だろうから」
「うつしたらごめん」
「うつる危険もあるんだったな……」
「でも、こんな機会滅多にないしさ? あんたの匂いを気にしなくていいシチュエーションなんて。だから」
「まあ、たしかにな」有木と遊んでいても、いつも二歩ぐらい余分に距離を取られるから、やりづらかったのだ。今日はそれがない。新鮮でいいかもしれない。「じゃ、いっぱい遊ぶか」
「さっそく行こう」と有木が腕を組んでくる。
俺はびっくりさせられてしまう。「え、そういう感じ?」
「今日しかできないんだよ? 鼻が通るようになったらこんなに近づけないし」
「うん」
「遊んでる途中で鼻が治ってもアウト……即死か。スリリングだなあ」
「死にはしないだろって」
「重体は免れないよ」
「途中で治っても知らないからな? 怒るなよ?」
「いきなりカッとなるかもしれない」
「俺の方も戦々恐々じゃん」
「お互いスリリングだ」などと駄弁りながら地上へ戻る。「丹羽、ちょっとは元気になった?」
「んー? なったよ」と俺は強がる。姫ちゃんとの断絶はまだ継続している。全然話せていないし、顔を見合わせることすらないけど、ハンカチだけは定期的にチャージして支給している。なんだ?この関係……とバカらしくなってくるけれど、いつか交流が復活して正常化したときのために、できることはする。しかし、姫ちゃんがなんらかの答えを出さない限りは俺の期待が叶うこともないし、でも場合によっては、姫ちゃんの『答え』が俺達に終わりをもたらすおそれだって充分ある。それこそスリリングだ。
なんらかの答え? だけど、あの件から既に一ヶ月半ほどが経過しているにも関わらず何も動きがないということは、姫ちゃんの中にはもう明確な答えがあり、姫ちゃんの望む状況っていうのは、もしかしたら今のこれなんじゃないか?と俺は不安に駆られている。答えはとっくに出ていて、俺はその『答え』を言い渡される価値すらない男なのでは? 考えれば考えるほどに暗く悲しくなる。
「嘘ばっかり」と有木にはすぐ見破られてしまう。「しょうがないから、今日はあたしのこと彼女だと思ってもいいよ」
「あれ? 太っ腹」
「今日はマジで機嫌いいから、あたし」
「天使かな」
「今日は天使!」と有木は宣言してくる。服装も……俺にはあまりよくわからないんだけど、マロンクリームみたいな上着に花柄の薄手のスカートで、なんか本当にデートしに来たお姉さんみたいで清楚。
けれど、姫ちゃんの代わりにしようとしたところで、有木と姫ちゃんだとだいぶ違う。まあ有木には有木のいいところがいっぱいあるし、そういう何かの代わりにするみたいなのはやめようと思う。有木には有木として接したい。その方がけっきょく楽しいのだ。
有木はどうも、本当に俺が誰かにフラれたと思っているようで……まあその通りっちゃその通りなのかもしれないが、ともあれ、だからそういう気の遣い方をしてくれる。でも根掘り葉掘り訊いてくることはしない。明確にしようとはしない。意外としっかりしているというか、空気を読んでくる子なのだった。
「何したい?」
俺が訊くと、「ゲーセンとか?」と言われる。
鷹座ポールっていう電波塔が駅近くにあり、その中にいろんな店が入っている。ゲーセンもある。俺と有木はそこへ行き、面白いのかよくわからないけれどUFOキャッチャーなどで遊ぶ。
「お金だけ無駄になくなりそう」とコメントさせてもらう。
「こういうの得意じゃないの?」
「まったく。小学校低学年以来やったことないよ」
「丹羽ってUFOキャッチャー得意そうな顔してんだけどなあ」
「絶対褒めてないだろ……」プレイしてみるも実際得意じゃないので何もゲットできない。
「形に残るものもやっとこう」と言われてプリ機にも入らされる。
「いや、これメッチャ恥ずかしいんだけど」
「なんでだよ。あたしがいるんだから別にいいでしょ」
「このさあ……暖簾みたいなのを二人で潜るのがいかがわしい。ううってなる」
「何を想像してるんだよ。……中は二人だけの空間だけど」
「エロ本コーナーに突入するときの息苦しさを感じる……」
「日頃からエロ本コーナーに突入してますって告白する方が恥ずかしいと思うけどな。あとあたし達はまだエロ本コーナーに入っちゃダメだから」
「男としてやむを得ないときもあるんだよ」
「おお」
で、撮るんだが、やっぱり『臭い男』たら『亜空の瘴気』たらとペンで書き込みをされる。ただし今日は匂わないから『安全日』とも書かれる。いや、あとで見返したときに何かと思わない?それ。
「疲れたらお腹空いた」と俺は訴える。
「ハンバーガー食べる?」
「有木ハンバーガー好きだな。普通のごはん食べたくない? 丼とかうどんとか」
「両方食べたいの?」
「いや、どっちかでいいんだけど、そういうものが食べたい。食べたくない?」
「いいよ」
機嫌のいい有木は俺に合わせてくれてとてもいい。鷹座ポールには食べ物屋もたくさんあるので、和食の店で昼食とさせていただく。
「すごいデートっぽい」と俺は言う。
「ふうん。デート気分なんだ?」と有木は目を細めて笑う。「デートだったらハンバーガーじゃない?」
「まあ……高校生のデートだったらハンバーガーの方が、ぽいか?」
「ま、いいけど」と有木。「いいよね、たしかに。こういうとこ来るのも。あんたと美味しくごはん食べれる日が来るとも思わなかったし」
「今日限定だけどな」
「まあね」
「あと、鼻詰まってるんだから味もあんまりしないだろ?」
「味しないね。でも悪臭を嗅ぎながら食べるより美味しいよ」
「いつも迷惑かけてすまんね」
「いいよ。好きでいっしょにいるんだから」言ってから、「いっしょにいて面白いから」と言いなおす。
「うん」
「うん」
腹を満たし、取り立ててやりたいこともなくなったので鷹座ポールで観光客用のお土産を見たり、VVVIROWへ行って服を見たり、何かを買うわけでもなくブラブラと駄弁りながら歩く。やることは何もないけど、何かを見つけてそれについて二人で話しているだけで楽しい。有木も今日は天使宣言をしたからか、口の悪さが抑えられ、笑顔で俺の周りをくるくるしていて、本当にただの可愛らしい女の子だった。
VVVIROWの通路の途中にある休憩用ベンチで一息ついたとき、有木の頬がピンク色に染まっていることに気付く。俺と二人きりで照れているわけじゃない。目付きもぼんやりとし、視線の動きがおとなしい。そういえば口数もだんだんと減ってきていた。
「お前、熱あるだろ?」と俺は質す。
「ないよ」と有木は答えるが、白々しいほど気だるげだ。
「帰ろう」と俺はベンチから立ち上がるけど、シャツの袖を掴まれる。
「少し休んだら復活するから、あんたもちょっと、ここ……となり座ってて」
「…………」俺はとりあえず座りなおし、これからどうするべきか考える。ドラッグストアは鷹座駅の地下にあるけれど、解熱剤だって効いてくるまでに時間がかかるし、全然効かなかった場合、ホント何してたんだってことになりかねないし、やはりまっすぐ有木家を目指した方がよさそうだ。救急車を呼ぶのは大袈裟だし。「有木、帰ろう? 心配だから」
「……平気。いける」
「痩せ我慢」俺は有木の脇腹をつつく。
有木は力なく身をよじる。「う、く、やめ……やめろ。しんどいから」
「な?」
「ちょっと一回休ませて。マジで。様子見させて」
「五分くらいだけな。それで改善しなかったら帰るぞ?」
「はあ……まだまだ遊べる時間あるんだけどな。くそ。悪化してきたね」と有木はようやく認める。
俺はスマホで時間を確認する。「もう三時過ぎ。充分遊んだんじゃない?」
「まだ」と有木は貪欲だ。「いつもだったらもういいよ? でも今日はせっかくの匂わない日なんだよ? もったいないじゃん」
「まあなあ」こんなふうに並んで座れる機会なんてほぼないし。「そういえば、有木に触ったのも初めてかも。俺」
「触ったことくらいあるでしょ」
「どうだったかな」記憶にはない。
「だとしたら、やっぱりもったいないでしょ? 貴重な日なんだよ?今日は」
「別に鼻が利いてても触ったっていいんだろ?」
「いや、そんな距離まで近づかれたら意識が遠のくって。あと、臭いものには基本、触られたくないじゃん」
「鼻つまむなり息止めるなりしてたらいい」
「わざわざあんたのためにそんなことしてられないよ」
「まあそれは冗談。俺なんかのために無理することないよ」こちらも、呼吸を止めながら近づかれているんだなんていちいち思いたくない。「今日が楽しかっただけに、たしかに寂しいよな、もとの距離感に戻るのは」
「覚えといて」有木が俺に体を預けてくる。座ったまま、上半身だけを俺に傾けてくる。「やっぱ覚えとかなくていい。忘れて。でも、今日だけ楽しんで」
「…………」
「一応女だから、あたしにくっつかれるのもそれなりに嬉しいでしょ?」
「嬉しいよ。芳日高校二年生の中で、十本の指に入る美人だからな」
「非公式ランキングやめて。怒られるから」
「いや、十本には入るだろ。綺麗だよ」
「ねえ、バカ。人が死んでるときにからかわないで」
「からかってないよ。だって今日は彼女なんでしょ?有木は。俺の」
「あは。マジに受け取るなよ」
「童貞にそういう冗談は通じないから」
「キモ……童貞アピールすんな」
「ふふ」と俺は笑い、「さて」と言う。「回復した? 歩けそう?」
「歩けない。まだ五分経ってないでしょ」有木は俺の肩に頭をぐりぐりしてくる。「もう少しだけこのままいさせてよ。この姿勢、楽だから」
「有木、スマホ貸して。有木の家族に鷹座駅まで迎えに来てもらおう」
この案はすごくいい。ほとんど歩くことなく、休んでいるだけで帰宅の手段が向こうから来てくれる。
しかし有木には不評だった。「はあ? それは嫌。なんでそんなつまんない案を採用するの?」
「一番負担がないからだろ」
「…………」
「ほら、スマホ貸して。辛くて無理そうだから、俺が代わりに連絡するよ」
「いらない……!」と言って有木が立ち上がる。「そんなことするくらいなら、あんたが家まで送ってよ。帰るから」
「歩ける?」
「なんとかね」
「じゃあわかった」俺も立ち上がる。「帰ろう」
「おんぶして」
「無理! すぐ力尽きそう。それに人目につきすぎて恥ずかしい」
「即答すんな」
「寄りかかりながら歩くくらいならいいよ」俺は有木に手を差し出す。
「あたしと手繋ぎたいの?」
「寄りかからなくても歩けそうなら自分で歩けばいいし」
「そこは『繋ぎたい』って言えよ。恋人ごっこはどうしたんだよ」
「えぇ……」面倒臭。「繋ぎたいよ」
「『面倒臭』って言ったのも聞こえてるから。バカ」
「ごめんごめん」俺はもう何も言わずに有木の手を取る。「やばかったらしがみついてもいいからな?」
「……うん」
VVVIROWを出て、駅まで戻る。地下鉄の方の切符を買い、ホームへ下りて電車を待つ。地上の電車より本数が多い気がする。すぐ来る。しかし、休日の夕方前の電車なのでかなり混んでいる。俺は有木の腰に手を回し、有木が弾かれたりはぐれたりしないよう配慮する。
「座れないかな?」空いている座席を探すが、あるわけない。
「十分ほどだから大丈夫だよ」と有木はうつむき加減で呻くように言う。
「いや……」俺は座席を確保している人を順番に値踏みし、問題なさそうな大学生っぽい女の人に話しかける。「すみません。この子、体調が悪いんですけど……芳日駅まででいいので、座らせてもらえませんか?」
快く譲ってもらえる。よかった。俺は女の人に頭を下げて、有木を座らせる。
「大袈裟……」と有木は決まり悪そうにする。それから女の人に「ありがとうございます」と礼を言う。
女の人が「お大事に。優しい彼氏くんで羨ましい」と微笑む。
有木は「はい」とだけ頷く。
たしかに十分はすぐで、あっという間に芳日駅に到着する。俺は再度女の人にお礼を言い、座席をお返しし、有木の体を引っ張るように抱き寄せ、電車から脱出する。ホームも車内と同様に混雑していたが、俺達にはもう関係ない話だ。
地上へ出て「もうちょっとだな。有木んちまで案内してよ?」と言う。
「その前に、一回休憩」と言われ、有木家ではなく公園へ案内される。いや、公園というほどの規模ではなく、地下鉄の下り口付近に設けられた一休み用のスペースだ。アスファルトのしっかりした地面だけど、雑草に支配された植え込みから蔓が大量に伸びてきていて、気をつけないと引っ掛かって転びそうだった。訪れる者も手入れする者も誰もいないんだろうなといった風情の物寂しい空間だった。
石のベンチに腰かけ、俺は「あと何分で帰れる?」と訊く。「ここからはもう近いんだろ?」
「バカ」と言われる。「早く帰りたがるなよ。少しは惜しがれ。バカ」
「お前が絶不調だからだろ。心配してるって言ってんじゃん」
「好きで絶不調なんじゃないし」
「……惜しいとは思ってるよ。夕食は何食べようかなって思ってたし、鷹座ポールから夜景でも見るかなって思ってたし。予定丸潰れだよ」
有木が「う」と息を呑む。「ごめん。嘘? 予定立ててた?」
「あらかじめ立ててたわけじゃないけど、遊んでる途中に、これから何しようかとかはなんとなく考えてた」
「な、なんで芳日に戻ってきてから言うの。あっちにいるときに言ってくれれば……」
「や、でもどっちにしろ有木のことは帰すつもりだったし。そんな体調じゃ無理だろ」
「いや……いけた」
「いけないって。また今度にしよう」
「今度だったら匂い復活してるじゃん」と責めるように言われる。「今日だけだったのに……」
「それは……二歩分ぐらい離れて歩いて」
「バカ……」
「俺だってもっと遊びたかったよ」
「もう……やだ」と有木はぼやきながら、俺の頬にチュウしてくる。
柔らかく湿ったものが急に付着したため、俺は何事かと上半身を有木に向ける。有木は俺の太ももに手を乗せ、今度は口と口を合わせてくる。「ちょっと……」と俺は何かリアクションしようとするが、両頬を手でガシッと押さえられてしまい、何度となく口付けされる。有木の体温と熱い吐息に当てられて、のぼせそうになる。
顔の真ん前で「丹羽」と小声で呼ばれる。
「なに……?」と返すと舌を入れられる。発熱しているからか有木は舌も蕩けそうなほどに熱い。口の中がびっくりしてしまう。
舌先を触れ合わせていると、有木が「もう限界……」とつぶやいて、ずるずるずると脱力していく。キスをやめ、俺の胸に額をトンと押し当てる。「しんどい……ごめん」
「や、あの、有木……」
「もっとしてあげたかったけど」
「は? 別に無理にしてくれなくても……俺はもう落ち込んでないよ。元気だし、そんなに気ぃ遣ってくれなくても大丈夫」
「冗談だよ」
「…………」
「初チュウなんだけど、変じゃなかった?」
「お前、こんなところで初チュウを消費するなよ……」
「そういうのいいから。どうだった?」
「いや、嬉しいけど……」
「変じゃなかったかって訊いてんの」
「そんなの俺にはわかんないよ。普通なんじゃない?」
「上手くなかった?」
「知らないって。上手い下手なんて俺には判定できないんだから」
「……じゃあもう一回だけ」
有木が俺の肩をグイッと引き、その勢いで二回目の口付けを俺にかましてくる。熱い、柔らかい、溶けそう……と思う。
「有木、あの……」
「今日したことは今日の内に忘れてね」と囁かれる。「鼻が治ったら、あたし達はまた友人同士になるんだから。わかった?」
そんなことを言うわりにはさらに三回、深い口付けをされ、俺が芳日駅から有木を自宅まで送り届けるのにけっきょく一時間くらいかかった。ずっと、舌の先端が溶けて短くなってしまったかのような錯覚に陥っていた。




