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コーヒーショップ

 なんとなく予期していたけれど、あの日以降、姫ちゃんからの連絡は全然なくなり、こちらから連絡してみても微妙なところで早々とやり取りは途絶え、メッセージが来なくなってしまう。今までにも何度となくお互い気まずくなったりしたが、今回の姫ちゃんは自己嫌悪に陥っているようにも見受けられ、俺としては気が気でない。不安だ。俺は立場上『気にしなくていいよ!』『大丈夫だよ!』なんてことを言えるはずがないし、どうフォローしたところでなんだかいやらしくなってしまう気もして、だからとりあえず様子見に徹している。姫ちゃんがあの件を自分の中でどう処理するのか、完全に姫ちゃんに委ねる。


 姫ちゃんの家でしたことを俺は後悔していないけど、行動を起こしてしまう前にもう少しコミュニケーションがあってもよかったのかもしれない。姫ちゃんに考える時間を作ってあげて、姫ちゃんの考えを聞くべきだったかもしれない。それを後悔というのか? でもあのときにそんなタイミングはなかったし、そんなタイミングがあるような状況だったらああはならなかったはずだ。


 何もないまま夏休みが消費されていき、櫓係の色塗り作業も夏休み最後の日程を終える。午前中いっぱいを学校の中庭で作業し、解散後、有木とコーヒーショップへ寄る。全国チェーンではなく、鳥山大学の近くにある昔ながらの渋い店だ。そこで甘いコーヒーなんぞを飲みながら駄弁る。


 有木が言う。「丹羽さ、ちゃんと体洗ってる? あんた、体の洗い方間違えてたりしない?」


「……いや、だから俺の体臭を過剰に臭く感じてるのは有木だけなんだって」俺は力説する。「他の人にとっては俺なんて普通なの。そりゃ、自分がいい匂いだなんて思ってないよ? 男子だから多少は臭いと思うけど、そこまで臭くない」


「実際臭いじゃん」


「有木にとってはな」


「じゃああたしだけが脳とか精神に異常があるってこと?」


「そんな大袈裟な話じゃないだろ。ただ単に、感覚的に苦手なんでしょ?俺の匂いが」


「うーーん」と有木は唸る。「何か改善策があると思うんだけどな。あたしはあんたが体を洗うの下手くそなんじゃないかと思ってるんだけど」


「普通に洗えてるよ」


「あたしが一回洗ってあげようか?」


「アホか……」どんなプレイだよ。


「半分マジで言ってるんだけどなあ」


「絶対そういうんじゃないんだよ、俺の体臭に限ってはさ。『臭すぎて死ぬ』って言ってる奴の隣で『いい匂いだから嗅ぎたい』って褒めてくれる人がいるわけないだろ?普通」


「あんたの変な友達のことね」


 姫ちゃん……。「うん」


「信じられないよね」


「俺はその人のことも有木のこともどちらも信じがたいんだけど。極端だし、過剰すぎる」


「実際マジ臭いから」


「わかったわかった。わかったところでどうしようもないけど……」


「……ところで丹羽」有木がアイスコーヒーに口をつける。「元気ないね。なんかあった?」


「え、元気ないかな……?」


「なんとなくね」


「そうかな……」落ち込んだり悩んだりしているふうに見えるなら、まあたぶん姫ちゃんのことだろう。具体的に何かを考えているわけじゃないんだけど、頭の片隅にはずっとある。考えるともなく、俺は姫ちゃんのことを思っている。


「童貞を卒業して意気揚々としてたらその日の内にフラれたみたいな顔してるよ」


「そんな奴に会ったことあるのかよ……」だけどあながち間違ってもいない気がして、俺は内心ドキリとする。本当にそういう顔があるのかもしれないとさえ思ってしまう。「……別に平気だよ。ありがと」


「なんでフラれたの?」


「フラれてないっての!」現実にちょっとカスっている冗談は一番タチが悪い。「有木が臭い臭い言うから凹んでんの」


「嘘つけ。臭みを消す努力もしないで、凹むも何もないよ」


 俺は肩をすくめる。有木や姫ちゃんの鼻が感知する俺の匂いは俺自身でコントロールできないのだ。いい加減わかれ。「……なあ、有木は誰かと付き合ったこととかある?」


「はあ? なんで?」


「いや、童貞がどうのこうの言うからさ」


「なんでそこからそういう発想になんの? なんかヤラシイよね、丹羽って」有木は不愉快そうに目を細める。「丹羽はどうなの? 付き合ったことある? ないよね」


「ないよねじゃないよ。ないけど……」


「顔見たらわかるよ」


「メッチャ失礼……」悔しくて「キスならしたことあるもん」と言ってしまう。


「お母さんとのキスはキスじゃないから。キモだから」


「お母さんとキスなんかするか。普通に、女の子とだよ」


「いやでも付き合ったことないのにキスだけしたことあるってどうなの? 無理矢理したんじゃないだろうな、あんた」


「…………」それを言われるとマジで悲しくなる。誓って無理矢理ではないはずなんだけど、分類上はそれに近い位置に来てしまうのかもしれない。「……ち、ちゃんと相手の子も喜んでた」


「嘘くさ。犯罪はやめてね?」


「……俺は有木に質問したんだけどな。なんで俺が答える側になってるんだろう」


「あたしは誰とも付き合ったことないしキスもしたことないよ。キモいだろ?」


「別にキモかないよ」しかし、ふうん……付き合ったことないのか。意外。「綺麗なのに」


「だからやめろって」と有木は照れる。「あんた、わざと言ってるでしょ?それ」


「うん」と俺は認める。「でも綺麗だと思ってるのは本当。学年で五本の指には入らなくても、十本の指ぐらいになら入れるんじゃない?」


「バーカ」とすぐ言われる。「あたしのことそういう目で見てる?」


「見てない」マジで。「有木は口が悪すぎる」


「でもこうして遊んでくれるんだね?」


「友達だからじゃない?」と俺は雑に言う。「有木こそ、よく俺の傍にいるよな。臭くない?」


「臭いよ。でもあんたといっしょだと楽しい」と有木は笑う。「悪臭結界の範囲を探るのが楽しい。お、今日は半径三メートルもある!?とかね」


「そこかよ……」


「喋ってても楽しいよ」有木は笑みを引っ込める。「でも、今日で寄り道は最後だね。学校祭が終わったら色塗り作業も当然なくなるし。そしたらお別れだね」


「別に、ついでとかなくても普通に約束して遊べばいいんじゃないの?」


「口悪いのに?」


「俺も有木といっしょにいると楽しいよ」


「へえ~、そうなんだ」有木はまた笑顔を持ち出してきて、茶化すように言う。「へえ~。楽しいんだ? 丹羽の台詞は相変わらず臭いな」


「有木もさっき言ってただろ」


「ふうん。じゃあ友達なんだ?あたしら」


「こんなふうにしてて友達じゃありませんってのもおかしいでしょ」


「まあね。そうなのかな」


「うん」


「わかったよ」有木は安心したように笑う。安心したように? たぶん。そう見えた。「じゃあ遊びたくなったら連絡する」


「俺もそうする」


「あたしばっかり連絡してたらあたしが可哀想だから、あんたからたくさんしてよ」


「はいはい。適当に誘うよ」


 ちびちび飲んでいたアイスコーヒーを空っぽにし、デザートを注文する。


 有木が訊いてくる。「ねえ、あんたが無理矢理キスした子って今どうなってるの? 連絡取ったりしてる?」


「今は連絡取れてないよ」と俺は答える。嘘はついていない。というか、相手がクラスメイトの姫ちゃんだなんて言えるはずない。「あと、無理矢理じゃないから」


「おんなじようなもんだよ」


 ふと思いついて尋ねる。「有木さ、キスしたことないんだろ?」


「なに?その強気イケメンみたいな訊き方。ムカつくんだけど」


「や、最後まで聞いて。例えばなんだけど、初チュウのときに相手が舌を入れてきたら、ちゃんと対応できる? 絡めたり吸ったりできる?」


「ねえー、クソキモいんだけど!」と有木は嫌悪感バリバリのしかめっ面をする。「何が知りたいの? 肋骨を蛇が縫うように通ってったみたいな寒気がしたんだけど」


「いや……」

 あのとき、姫ちゃんにキスをしたら姫ちゃんもきちんと対応してきたような記憶がおぼろげながらに俺の中にあり、それって初めてでも可能なものなんだろうか?と気になったのだ。実は昂りすぎていて詳細な記憶があまりない。


 有木は怪訝そうに俺を眺めていたが、やがて舌を少しだけ出し「試してみたらいいんじゃない?」と言う。「あたしがちゃんと対応できるかどうか。あんたはキス上手いんでしょ?」


「上手くないよ」そもそも上手いとか下手とかなんてあるんだろうか?というレベルなので、そういう奴は下手に違いない。「俺がキスできる距離まで近づいたら有木、耐えられる?」


「いや……マジな話、顔と顔が密着するぐらいまで近づかれたらあたし、たぶん気絶するよ。臭すぎて。臭さを認識する前に意識失いそう。あと、あんたは口臭も尋常じゃなく臭そうだよね。あんたのヨダレのことなんてあたし、テーブル拭いた雑巾をしぼったときに出る汁だと思ってるから」


「じゃあ試せないじゃん」


「その気にならないでくれる? 試すわけないでしょ」


「わかってるよ、んなこと。試すわけないだろ」


「まあよくわからないけど」有木が話を戻す。「あんたはキモい。初チュウで上手くやれるかどうかなんて、人それぞれだし、状況次第でもあるでしょ。緊張してたらなんにもできないかもしれないし、逆にいいムードだったら積極的になれて意外と様になるかもよ? 知らないけど」


「たしかに」単純には考えられない問題なのもしれない。「……有木はムードをよくしてあげると積極的になる、か」


「あたしの話じゃないから。例えだし。バカ」


「ははは」


「こいつなんかと友達にならない方がよかったかな」


「や、そんなことないよ」

 喋っていたら元気が出る。少なくとも、元気がないということを忘れていられる。そういう友達ってあんまりいなくて、俺に友達が少ないだけなのかもしれないけども、この、最近友達になったばかりの、有木だけなのだ。だから、今まさに愛想を尽かされてしまいそうなんだけど、でも、ありがとうと密かに思う。口にはしない。

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