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姫川家

 夏休みになってしまう。今まで生きてきて、夏休みがこんなに憂鬱だったことはない。今年はいっそ不要なぐらいに夏休みが口惜しい。姫ちゃんに会えない。応援係が創作した歌やダンスの練習を俺達一般生徒もやらなくちゃいけなくて、そのときに顔を見ることぐらいならできるんだけど、常に応援メンバーが誰かしら姫ちゃんにくっついていて俺は姫ちゃんとの時間を作ることができない。姫ちゃんが応援係を継続してやれているのは俺としても喜ばしいことなんだけれど、それゆえに夏休みも忙しそうで、なんだか複雑だった。


 櫓係の色塗りもごくたまに計画的に実施されている。新学期に入ってからでも時間があるし、一応完成の見通しはついているのだが、希望者のみ、夏休み中にも塗ることができる。俺はまあ別に行きたくもないんだが、有木が来れる日だけは申し合わせて参加している。帰りに二人でハンバーガー屋やらファミレス、コーヒーショップなどに寄って帰る。俺が汗を掻きすぎて体臭の威力と射程距離が伸びてしまったときは一人で帰らされる。


 有木といっしょだと楽しいんだけど少し物足りない、そろそろ寂しい……というお盆前に姫ちゃんから連絡があり、驚愕すべきことに、姫川家で遊ぶ予定が立つ。マジで? マジでいいのか?と何度も神様に訊いてしまうが、俺と姫ちゃんが外で遊んでいたら不自然で、六海皐月に見つかって誤解を招くおそれがあることから、会うならどちらかの自宅ぐらいしかありえないだろう。けれど、まさか姫ちゃんの家に行けてしまうなんて。


 姫ちゃんの家は西招福駅と鷹座駅の間の奥まった集落にあり、アクセスが悪すぎてびっくりしてしまった。そんな場所から芳日高校へ通うのはさぞかし面倒臭いだろうと思ったが、よくよく考えるとどこに通うんであろうと面倒だった。


 ともあれ、姫ちゃんはいつ来てくれてもいいと言うので、俺は早くも九時過ぎ辺りにお訪ねできるようスケジュール調整をした。昼は近くの小さな蕎麦屋でいっしょに食べようと姫ちゃんは言ってくれた。


 当日、西招福駅で降りると姫ちゃんが出迎えてくれ、そこから俺が姫ちゃんの乗ってきた自転車に乗り、姫ちゃんを後ろに乗せ、道順を覚えながら姫川家を目指す。知らない場所というのもあって、ひどく時間がかかった気がする。汗もメチャクチャ掻いてしまい、やばいと焦るが、そういえば姫ちゃんなら問題ないんだったと思い出す。有木の場合、この発汗量だと帰れと言われてしまうけれど、姫ちゃんの場合は平気なんだった。両極端すぎて俺の汗への認識がイカれそうになる。


 姫川家はかなり大きく、お邪魔するとすぐに姫ちゃん同様の綺麗なお母さんに見つかり「あ、こんにちは。皐月くんじゃないんだね」と言われる。『皐月くんじゃないんだね』はいろいろ余計なんだけど、俺は「友達です。こんにちは」と頭を下げる。


「お母さん、部屋入ってこないでね」と姫ちゃんは言い、俺を連れて二階へ行く。


 姫川家はそもそもが古い木造住宅なので、姫ちゃんの部屋も暖かい雰囲気の床や壁で、タンスや机なんかもその色合いに寄せたものが配置されていた。匂いはあんまりしない。姫ちゃんの匂いをよく知っているのでそれを想像していたんだけど、部屋自体は無臭に近かった。六海皐月もここへ来ているんだろう。ふうん……。


 ここまで来る間にも知らない道を延々走っていたので、俺はようやく一息つける。「はあ、よかった。姫ちゃん、久々に会えた」


「久々って、この前も顔見たじゃない」


「え、それ別の人」六海皐月。


「じゃなくって、応援の練習で」


「ああ……あんなの、顔見ただけだよ、マジで」


「顔見ただけだね」と姫ちゃんも笑う。「話すのは久しぶり」


「久しぶり」大袈裟でなく切望していた。「今日は呼んでくれてありがとう」


「ううん」


「会いたかった」


 俺が思いのままに告げると、姫ちゃんははにかみ、しばらく目を泳がせてから「私も」と言ってくれる。


「本当?」


「本当」


「ふふふふ」と俺は気持ち悪い。


「飲み物持ってくるね? 喉渇いたよね」


 姫ちゃんが言い、たしかにと俺は思う。だけど姫ちゃんの部屋に感動してしまっていて何もかもが気にならない。人生の大きな目標をひとつ達成してしまった気さえする。


 姫ちゃんがいろいろ持ってきてくれた中からお茶をいただき、飲み、俺は気力を回復させる。それから「何して遊ぶ?」と訊く。


 姫ちゃんが反対に「何したい?」と訊いてくる。


 とはいっても、ゲーム機があるわけでもないし、漫画がたくさん置いてあるわけでもない。姫ちゃんの本棚は雑誌が多い。加えてテレビもない。「なんか話する?」と俺は言う。「応援係、一致団結してよかったね」


「ホントだよ」と姫ちゃんは切実そうに頷く。「私達二年生側は、全面的に三年生に合わせようって決めて、あんまり意見しないことにしたの。なんだかんだ言っても三年生メインのイベントだしね。二年生は主張すべきじゃないんだよ」


「そうかもね」


「そうしたらすんなり行ったよ。二年生の応援係は面白くなさそうにしてたけど、仕方ないよね。来年もあるし」


「うん。姫ちゃんは来年も応援係かな?」


「自分からは手なんて絶対上げないから」疲れたように苦笑する姫ちゃん。


「来年……来年の今頃って言ったら、三年生で、受験のことも考えてないといけないんだよな」もしかしたら現段階でもみんな、考えているのかもしれないけれど。俺ぐらいかもしれない。特に何も考えていないのは。「姫ちゃん、どこ受けるとかってもうある?」


「国立大学かなあ」と姫ちゃんは漠然とつぶやく。「自分のレベルに合わせていろいろ探してみるよ」


「そっかあ……」

 俺も一応国立狙いだけど、たいして勉強なんてできないし、なかなか難しそうだ。鳥山大学は家から近くていいんだけど、私立だし、中堅だし、姫ちゃんはそんな大学には絶対入らないだろうからなあ。間違っても同じ大学には通えなさそうだ。


「将来のことなんて全然考えられないよね」と姫ちゃん。「今の、目の前のことすらちゃんと判断できないのに」


「まあね」それはそう。「今を生きてくだけで精一杯だよ」


「丹羽くんも?」姫ちゃんは笑っていて、俺を窺うように見ている。「今、精一杯?」


「いっぱいいっぱい」

 正直、姫ちゃんのことでいっぱいいっぱいだ。もっというと、今日は姫川家に来ているから余計に余裕がない。


「後悔のないようにしようね」


「そうだなあ」

 できること・やりたいことを探して、やれるときにやるしかない。時間は待ってくれない。


 なんとなく気を引き締めていると、「丹羽くん」と呼ばれる。


「あ、うん」


「お預けされてて辛いです」


「ん?」何のことかと思ったら、匂いか。夏休みに入ってからはハンカチも更新できていないし、今日も興奮しすぎていてハンカチなんて持ってこなかった。そもそもチャージすらしていない。「ごめん。今日はお土産がないんだ」


「丹羽くんしかない?」


「俺しかない」


「いいよ」姫ちゃんはちょこちょこと寄ってきて、俺の隣に座るとおもむろに匂いを嗅ぎだす。「はあー……これも久しぶり」


「けっこう間が空いたね。大丈夫だった?」


「定期的に嗅がないと私がおかしくなるみたいな言い方だね」姫ちゃんは自虐的に笑う。「大丈夫だよって言っておかないと、私が変人みたいになっちゃう」


 俺は肩をすくめる。「大丈夫じゃなくても俺は一向に構わないけど」


「ダメだよ。こんなことのために毎度毎度丹羽くんを呼び出せないよ」


 今日も、何はともあれ匂いを嗅ぎたかったんだろうなと俺は察する。「呼んでくれたら全然行くから。出張するよ」


「ダメだよ」と姫ちゃんは苦笑しつつ繰り返す。


 俺は強いて明るくする。「ま、今日はもう来ちゃったんだし、お預けされてた分も吸っていいよ。思う存分。俺、姫川家が迷惑して帰れって言い出すまではここにいれるから」


「うん」姫ちゃんも嬉しそうにしてくれる。「……来るときに汗いっぱい掻いたね。計画通りだよ」


「あ、だから家に呼んだのか」俺の家に姫ちゃんが来る案もあったのだ。ウチは芳日高校の近くだし、絲草駅を降りてからのルートもわかりやすい。にも関わらず姫川家を推した姫ちゃんにはそういう意図があったのだ。汗を余分に掻かせるため。「策略家だな」


「もうひとつ理由があるんだけど」


「なに?」


「ううん。お昼からね?」


「お昼から? なに?」


「まだ言わない」姫ちゃんは大胆にも俺の腋辺りを嗅ぎながら、しかし教えてくれない。「丹羽くん、私のお願い、聞いてくれるかなあ」


「なんでも聞くよ」


「即答」と姫ちゃんはむしろあきれる。「ダメだよ。内容を確認する前からそんなこと言っちゃ。丹羽くんも、ちゃんと自分で考えて、私のお願いを聞くか聞かないか判断してね?」


「もちろんそうするよ。わかってる」


「私の言うこと、なんでも聞いたらダメだからね?」


「うん」って言いながらなんでも聞いてしまうんだろう。惚れた弱味だし、可愛いから致し方ない。


 匂いを嗅がれながら雑談していると午前中が終わってしまい、一度姫川家を出て蕎麦屋で腹ごしらえをしてから再び姫ちゃんの部屋に戻る。姫ちゃんは歯磨きをして、俺にもしたいかどうかを尋ねてきたが、いきなり姫川家の洗面台を使うわけにもいかず遠慮させてもらった。え、歯磨き?


「丹羽くん」と姫ちゃんが改まる。「さて、私は丹羽くんに何をしてもらいたいんでしょうか?」


 クイズが始まる。「え、キス?」


「なな、なんで!?」といきなり真っ赤にさせてしまう。


「え、正解?」


「違うよ!」


 違った。「いや、歯磨きしたから」


「違うよ。ぶっぶー。あと二回しか答えられないよ」


「マジか。そんなルールなの?」答えられなかったらどうなるんだろう。「……匂いに関することでしょ?たぶん。なんだろう……?」


「答えて。答えて」


「姫ちゃん、自分で言いなよ。わかんないよ俺」


「や、恥ずかしいから無理」


「えー?」俺が答えないと始まらないってことか。「姫川家に俺を呼んだことに意味があるんだろう? 俺が姫ちゃんだったらどうするかな。何をしたいかな」


 まあ俺がしたいことと姫ちゃんがしたいことには大きな隔たりがありそうだけど。俺は姫ちゃんが毎日寝起きしているベッドを見遣る。俺だったらあそこに姫ちゃんと倒れ込みたいけれども……あ。


「わかった?」


「わかったかも! 姫ちゃんのベッドに俺の匂いを付けてほしいとか?」


「あ、あ、惜しい……!」


「え、違った」違うのか。俺はベッドから少し視線を動かす。「枕元にあるあのぬいぐるみに俺の匂いを付けてほしい?」


「え? あ、ああ……違う」


「え、なんだ? やっぱりわからない」


「もう、丹羽くん、あきらめないで答えてよ」


「わかんないよ。枕に匂いを付ければいい?」


「違う。遠ざかってる」


「えぇ……じゃあ、あのぬいぐるみに」


「ぬいぐるみじゃない」


「ぬいぐるみじゃない? じゃあ姫ちゃんに俺の匂いを付ける?」


「んん……近いような遠いような」


「なんだよ」と俺は困り果てる。


「頑張って」


「姫ちゃんとキスする」


「それは違うって」


「わかんない」俺は降参する。「姫ちゃんとキスするぐらいしか思い浮かばないよ」


「もっと他にあるよ……」姫ちゃんはあきらめたようで、立ち上がり、ベッドに腰かける。「丹羽くん」


「はい……」


「添い寝したい」


「はい……マジで!?」俺は一気に昂る。「いいよ全然。早くしよう」


 姫ちゃんは赤くなってうつむく。「丹羽くんは私に背中を向けて寝てね。そんな感じで、お願いしてもいい……?」


「わかった」

 なるほどなあ。添い寝。たしかにそれだとベッドに俺の匂いもつくし、二つ目の回答が限りなく惜しかったんだとわかる。


 姫ちゃんがベッドの奥へ移動したので、俺は手前の方に上がらせてもらう。普通のベッドだ……などといちいち感想を思わなければならないくらい、俺はさりげなく動揺している。当たり前だ。姫ちゃんのベッドにお邪魔しようとしているんだから。


「丹羽くん、そっち向いてね」


「うん。……あの、ホントに寝転がっても大丈夫?」


「うん」姫ちゃんも重々しく頷く。「大丈夫だよ」


「わかった」

 しかし、姫ちゃんのベッドということを抜きにしても、他人のベッドというのはなんだか横になりがたい。やすやすと寝ていいものじゃないみたいな、そんな抵抗感がある。


「丹羽くん、平気?」と心配されてしまう。「嫌だったら断ってね?」


「いや、なんか寝るの申し訳ないなと思っただけだよ」


「……何に?」


「ん? 姫ちゃんに? それか、姫ちゃんのベッドに対して?」


「大丈夫だよ」姫ちゃんは笑い、俺の肩を押すようにする。「はい、おやすみ。丹羽くん」


「おやすみ」と言い、ようやく俺は横になる。姫ちゃんに背を向けて、部屋の中央を眺めながら横たわる。


「私も寝るね」


 俺はそっぽを向いたまま「うん」と頷く。


 姫ちゃんが横になったような物音と敷き布団の沈み込みを感じて、感じるや否や、真後ろに暖かいものが出現する。姫ちゃんが俺の背中にくっついてきている。こんなに近づくのか……と思うけど、これくらい近づかないと匂いは鼻に届かない。


「これをずっとやってみたかったんだ」と姫ちゃんは達成感のあるトーンでつぶやく。「丹羽くんの香りに包まれながらお昼寝。絶対気持ちいいだろうなーって思いながら、そう簡単には実現できないだろうしなあ、って……」


「夢が叶ってよかった」


「うん、よかった」姫ちゃんは早くも眠たそうな声色だ。「丹羽くん、眠れそう?」


「いや、こんなの目が冴えちゃうよ」姫ちゃんの鼻先が当たっているし、姫ちゃんの手にも触れられているし、姫ちゃんの膝でちょっと押されてもいる。「眠れなさそう」


「私はすぐ寝ちゃいそう……」


「ホントに?」


「ホントに。気持ちいいもん……」


「マジかあ」

 無防備すぎる。信頼してくれているのは嬉しいけど、もう少し警戒してくれても全然いい。警戒してくれた方がいいとすら思える。だって俺には普通に下心がある。それは姫ちゃんもわかっていると思うんだが……。


「はあ……最高。雲に乗って漂ってるみたいに、軽いし、どっか行っちゃいそう。……ごめんね? 一人で寝ちゃって」


「ううん。ゆっくりおやすみ」


「おやすみ。ありがとう」

 スヤァって聞こえてきそうなくらい、すっと姫ちゃんが眠りに落ちたのが見なくてもわかった。本当に素早い。俺はこの状態だと一生眠れなさそうだから、とにかく姫ちゃんの安眠を妨害しないようじっとしてよう。


 しかし、普段の、姫ちゃんからただただ匂いを嗅がれているような場合だったら俺の方からも何かアクションできるが、この添い寝は一切動けないのでなかなかしんどい。姫ちゃんの寝顔を拝めるわけでもないし、姫ちゃんに触ることもできない。俺に背中を向けさせるってのは、やっぱりそういうことなんだろう。


「んん……」と姫ちゃんが唸り、俺の体に腕を回してくる。片足も、俺に引っ掛けるようにしてくる。「はあ……うう」


 口しか使えないのでとりあえず「姫ちゃん」と呼んでみる。


「んん……」と返事ともつかない唸りが聞こえてくるばかりだ。


「可愛いよ」


「…………」また深い眠りに落ちてしまった。


 俺はずーっと横になったまま無言で姫ちゃんが目覚めるのを待つ。ときどき、廊下を姫川家の誰かが歩行する音が聞こえてきて、そのたびに今この部屋のドアを開けられたらまずい……と一人で緊迫していた。だから姫ちゃんはお母さんに『部屋に入ってこないで』と言ったのか。姫ちゃんのお母さんは六海皐月とも顔見知りっぽかったので、この状況を見られると少しの弁明が必要になりそうだ。


 部屋の掛け時計がこの位置から見えるのもむしろ辛かった。一時間が経ち、二時間が経ち、今日はお昼寝でお開きかなと思っていると、姫ちゃんが久方ぶりに「んん……」と唸り、抱き枕の要領で俺をぎゅっとする。姫ちゃんの力のかけ方に逆らわず合わせていると、俺の体が自然と姫ちゃんの方を向く。あ、起きたときに怒られそう、という気持ちと、やったあ!という気持ちの両方が同時に湧き、当然ながらやったあ!が勝つ。俺は姫ちゃんの寝顔をとうとう拝ませていただける。ちゃんと口を閉じて眠っていて、無防備でも美しさは損なわれていない。俺は姫ちゃんの腰に手を置く。そして、今ならやりたい放題なのだということに気付く。いや、起きてしまう可能性があるからやりたい放題とまではいかない。でもお尻やお胸をちょっと触るくらいならバレないだろうし、キスもそっとなら起こさず遂行できるかもしれない。姫ちゃんがスカートだったらもっとよかったのだが、最初からお昼寝を想定していたからか、生地の柔らかいズボンを穿いている。上も簡素なシャツだ。


 うーん、せっかく遊びに来たんだからせめて何かを残して帰りたいと短絡的に思う一方で、信頼を裏切るわけにはいかないし姫ちゃんの方を向いてしまっていることすらルール違反で申し訳ないとも思ってしまう。難儀。


 姫ちゃんの天使のような寝顔を眺めながら懊悩していると、薄っすらと姫ちゃんの目が開く。開いてしまう。あーあ。あーーあ、と思う。寝ぼけ眼の姫ちゃんと視線が合う。


 姫ちゃんは熱い息を吐き出し、「皐月くん……?」と大ボケをかます。


 俺はさすがに、さすがにちょっとムッとしてしまい、嫉妬心をもバネに「悪いけど丹羽だよ」と言う。


 しかし姫ちゃんが「丹羽くんだあ」と蕩け零れるような笑顔を見せてくれたので、もうどうでもよくなる。ベッドの上で寝転がったまま姫ちゃんを抱きしめる。


「姫ちゃん……」


 まだ目覚めていないふうな姫ちゃんは「丹羽くん、気持ちいい……」とモニョモニョしている。


「…………」

 俺は姫ちゃんを抱いて、足も絡めたまま、顔をも近づける。おでこ同士をコツンとぶつけると、姫ちゃんがちょっと笑って、口をパクパクと小さく動かすので吸い込まれるようにキスをする。


「丹羽くん、いい匂いする……」と姫ちゃんは口付けしたまま喋るので、開かれた唇の奥へ舌も入れさせてもらう。キスはもちろん、舌を入れるだなんて行為にも俺は一切の心得などないため、適当だ。適当に舌を入れて動かすのみだ。


 姫ちゃんが俺の上腕をぐっと掴んだかと思うと、俺の舌を思いきり吸う。引っこ抜かれそうなほどの吸いつき。俺はそれだけで体中の欲望をすべて搾り取られそうになる。姫ちゃんも様子がおかしくて、掴んでいる俺の上腕をぐいっ、ぐいっ、ぐいっ、と断続的に揺すってくる。


 俺は姫ちゃんの背中をベッドに押しつけてその上にのしかかり、勢い余って「姫ちゃん、したい」と要求してしまうが、姫ちゃんは依然として意識がはっきりしておらず「丹羽くん、いつも私ばっかりでごめんね」などと謝ったりなんかしているので、さすがにできず、あきらめる。


 俺が姫ちゃんから体をどかすと、姫ちゃんも追いかけるようにして上半身を起こす。「んーーっ……」


「起きた?」

 あれ? じゃあキスも無意識?


 しかし姫ちゃんは急速に覚醒したようで「あっ!?」と遅ればせながらに口元を押さえる。「しちゃった?」


「ご、ごめん」


「うわーー」と呻いて姫ちゃんは再び寝転がり、タオルケットで体を隠す。


「ごめん」


「いいけど……」


「いいの!?」


「いや、しちゃったし。しちゃったもん、怒っても仕方ないし。怒れないし……」姫ちゃんはタオルケットに隠れたまま言う。「私、丹羽くんにたくさんお返ししないといけないし。でも、全然お返しになってない……」


「や、今までの分、全部返してもらったくらいだよ。ホントにごめん」


「私も、よかったって思っちゃってるから」タオルケットの姫ちゃんが告げてくる。「丹羽くん、お口からもいい匂いしてて、私、今、さっき、してるとき、バーン!ってなっちゃった。恥ずかしい。気付いた?丹羽くん」


「ば、バーン!って何?」俺はちょっと笑ってしまう。擬音としても雑すぎてよくわからない。「とにかくよかったって感じ……?」


「よかった……」姫ちゃんは訥々と言う。「私、また体おかしくなっちゃってる。今も気持ちよくて、ずっとふわふわしてる……」


「もっかいする?」と俺は性懲りもなく誘ってしまう。


「無理……。恥ずかしいし、ちょっと恐い」


「恐い?」


「変になりそう」


「…………」

 変になった姫ちゃんを俺はすごく見てみたいが、それを恐れる姫ちゃんの気持ちもわかる。俺も、自分があのままだったら姫ちゃんをどうしてしまっていたかわからず、自分で自分が恐い。自分自身をあんなふうにさせてしまうあの衝動も恐い。


「……でも私は怒ってもないし、嫌じゃなかったし、丹羽くん、気にしないでね」


「……じゃ、とりあえず出てきてよ」


「恥ずかしいからダメ」とタオルケットが少し揺れる。


「…………」


「……もしも私が寝ぼけたままだったら、丹羽くん、どうしてた?」


「……わかんないよ」

 襲っていたかもしれない。きっと襲っていた。わかんないよと言いながらも。


「私、バカだな」もぞもぞ動くタオルケット。「どうなってたかな?って、少しワクワクしちゃってる。バカだよね。ダメなのに」


「…………」

 いくらでも続きはするよという気持ちだけど、そんなふうに口にすることが憚られる、姫ちゃんのトーンだった。


「バカだ」


 一時間ほどタオルケットの姫ちゃんとぼんやり過ごしてから、俺は姫川家を辞する。最高の体験をしたのに心から喜べないのは、なんとも歯痒い。姫ちゃんを相手にしている限り、そういうのは続くんだろうなと、最初からぼんやりわかっていたけれど、改めてそう思う。

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