第9話 仮面舞踏会
館の巨大な玄関ホールにはすでに大勢の招待客が集まっていた。
ボーイたちがシャンパンやワインを載せたトレイを手に人々の間を行き交っている。
季節の花々が飾られたホールを頭上のグラスシャンデリアが照らしていた。幾重にも反射する光は、この家が長い年月をかけて築いてきた格式を映すようでもあった。
玄関ホールに隣接する大宴会室、その奥に続く舞踏室の扉も今夜は大きく開かれている。普段は使われない空間を、ビュッフェに並ぶ料理やデザート、奥から響く音楽が満たしていた。
仮面をつけた客たちが行き交うたびに衣装の装飾が光を受けてきらめく。あちこちで笑い声が上がり、誰もが日常を離れた夜を楽しんでいた。
その中心に、白を基調とした夜会服の美しい青年がいた。
スリーピースには細かな装飾が施され、身体の向きを変えると繊細な輝きが浮かぶ。肩からはマントが流れ、顔の一部を覆う仮面は衣装に比べてシンプルなものだ。
エリオス・ブラックウッド。
今夜、正式に新たな伯爵として招待客を迎える青年だ。かつて舞台で歓声を浴びた時には演奏によって人々に応えていた。今はこの家の当主として一人ひとりと言葉を交わしている。
「伯爵様、この度は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます」
エリオスは相手へ向き直り、丁寧に挨拶を返した。
戦争で負傷した身体にはまだ充分な体力が戻っていない。次々と客を迎え続けることも楽ではなかったが、その疲れを相手に感じさせることはなかった。誰に対しても笑顔を保ち、祝福を受け止めている。
少し離れたところからは彼を眺める人々の囁きが聞こえた。
「あの方が新しいブラックウッド伯爵……」
「噂以上ですね」
「まるで貴公子そのものだ」
多くの招待客がエリオスの姿から目を離せずにいる。エリオスは聞こえなかったふりをして、新たに声をかけてきた客へ応じる。
「またピアノをお弾きになるのですか?」
「ぜひ一度、聴かせていただきたいですわ」
彼を覚えている者は多かった。
戦前、各国で注目を集めた若きピアニスト。美しい容姿と卓越した才能を持ち、「貴公子」と呼ばれていた頃の記憶は今も社交界に残っている。仮面越しに向けられる期待にも、新たな当主への挨拶とは違う熱があった。
エリオスは相手の期待を受け止めるように微笑んだ。
「今日は、あくまでもブラックウッドの伯爵として皆様にご挨拶したくて。ぼくのささやかな特技のことなど忘れてください」
言い添えて見せた笑顔に相手は続く言葉を失う。
演奏を願ったはずなのに、断られた不満よりも目の前の青年に心を奪われている。もう少し話していたいと思わせながら、エリオス自身はその反応に頓着する様子もなく次の招待客へと向かっていくのだった。
そこへ、小柄な人物がエリオスの背後から近づいてきた。
ブロンドのカツラを被り、大きな仮面で顔の大半を隠している。立ち姿の硬さにはこの場に馴染めずにいる緊張が表れていた。カーリーだった。
「エリオ……」
呼びかけてから周囲の客に気づき、言い直す。
「……伯爵様」
挨拶の合間に振り返ったエリオスは、普段と変わらない調子で応じた。
「ああ、君か」
カーリーは居並ぶ人々を見回した。煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちが音楽の流れる広間で談笑している。準備にはあれほど関わったのに、その中に自分が立っていることにはまだ違和感があった。
そして、どうしても確かめておきたいことが一つある。
「なんで舞踏室がダンスクラブになってるんですか」
無表情のまま尋ねた先では人気バンドがロックを歌っている。舞踏会と聞いて思い描くようなオーケストラの調べはなく、力強いビートが広間を満たしている。
エリオスは答えに困り、声を落とした。
「そんなの、ぼくも知らないよ……」
舞踏室へ目を向けても理由は分からず、準備を取り仕切っていた人物の顔が浮かんだ。
「スカーレットの趣味じゃないかな」
「わたくしの趣味ではありません」
すぐ後ろから返ってきた声に二人は振り向いた。
そこに立っていたスカーレットはいつもの落ち着いた笑顔だったが、今の推測には少々呆れているようだ。
「国王陛下のご趣味に合わせましたのよ」
「国王の?」
カーリーは聞き返した。舞踏室から響く音楽と、その人物とがすぐには結びつかなかった。
「ええ。なんでも国王陛下は……」
説明の途中で玄関前にいたグラディオスが近づいてきた。招待客の応対を離れ、耳元の無線イヤフォンを調整している。周囲の人々へ注意を払いながら彼は声を抑えて告げた。
「国王陛下がご到着されるようです」
館の車寄せへ、ひときわ目を引く車両が入ってきた。
真っ黒な公用車の前後を騎馬兵士が固めている。まだ扉も開かないうちから周囲の視線はその一台へ集まっていた。
車から降り立ったのは国王だった。
奇抜な色の煌びやかな衣装をまとい、仮面も人目を引くものを選んでいる。その後に続いて王妃が姿を現した。
招待客たちは話を中断し、国王へと向き直った。隣の相手に言いかけた言葉もそのまま忘れられている。誰かに促されるまでもなく、そこにいる全員の関心が王家へ向かっていた。
玄関前で出迎えたエリオスへ国王は笑顔で近づいてきた。
「伯爵。この度は爵位継承おめでとう」
親しげに差し出された手をエリオスは取った。白を基調とした彼の夜会服と国王の奇抜で煌びやかな衣装は、並ぶといっそう対照的に見える。
「ありがとうございます、陛下」
握手を交わしたところで国王がエリオスへ顔を寄せた。続く言葉はエリオスにしか聞こえないほどの声だった。
「停戦のタイミングはバッチリだったようだな?貴公子様」
エリオスは笑みを浮かべたまま返す言葉を失った。国王はその反応を待たずに続ける。
「これから期待しているよ?」
何を期待しているというのだろう。停戦の時期に触れた意図も今のエリオスには分からず、一瞬表情が固まる。
それでも客を迎える当主として挨拶を続けなければならない。戸惑いが顔に残らないよう、エリオスは改めて国王に笑みを向けた。
「この度は私のような者の元へお越しいただき、感謝申し上げます」
丁寧に頭を下げ、言葉を添える。
「ありがたいお言葉、痛み入ります」
国王はその応対に満足したように笑った。
挨拶を終えた国王と王妃はそのまま舞踏室へ向かっていった。
エリオスはその場に立ったまま二人の後ろ姿を見送っていた。握手を交わした時の声がまだ耳に残っているが、今は国王の派手な後ろ姿から目が離せない。
「わたくしの言った通りでしょう?」
隣から声をかけられ、エリオスはスカーレットへ顔を向けた。
「何が?」
「国王陛下のことでございます」
スカーレットが言っているのは奇抜な衣装のことだ。
「華やかなことがお好きな方なのです」
カーリーもその後ろ姿を眺めていた。公用車の前後を固めていた騎馬兵に、本人の奇抜で煌びやかな衣装。到着した時から誰がこの国の王なのかを見せつけるような登場だった。
「なんとも派手な……」
「ええ……」
グラディオスも短く応じ、国王が舞踏室へ向かうのを見送った。
舞踏会はさらに熱を増していた。
音楽に合わせて仮面の男女が踊り、笑い声の合間にグラスの触れ合う音が響く。アルコールの効果もあり、招待客たちは各々がパーティを楽しみ始めた。
挨拶に訪れる客がようやく少なくなった頃、エリオスは舞踏室を抜け、館の一角にある談話室へ向かった。
今夜はエリオスたちの休憩用に立ち入りを制限している部屋だ。
談話室の扉の前に控えていた警備はエリオスの姿を認めると、頭を下げて中へ通した。
大きな暖炉を囲むようにソファが置かれ、壁の本棚には書籍やオブジェが並んでいる。背後で扉が閉まると、音楽も人々の声も遠のいた。
暖炉の前のソファにはカーリーが座っていた。大きな仮面はテーブルに置かれている。彼女は読んでいた本を閉じ、入ってきたエリオスを見上げた。
「君も休んでいるのかい」
エリオスも仮面を外しソファへ身体を沈めた。客を迎えている間は気にならなかった疲れが、腰を下ろすと一度に感じられる。
「そういえば」
ふとカーリーの姿に目を留めた。
「今日の君の衣装は素敵だね。もう言ったかな」
カーリーは一瞬目を瞬かせた。褒め言葉をどう受け取ればよいのか迷った末に顔をそらし、先ほどの問いに答えた。
「お手伝いはしましたし、スカーレットの目がありますから顔も出しましたけど。私は本来身を隠さなくてはならない身ですから、あちらに長く留まる理由はありませんので」
エリオスはソファに身を預けたまま彼女の言葉を聞いていた。
敵国の諜報員だった過去も、逃亡者である身の上も、衣装や仮面で姿を変えれば消えるものではない。大勢の中にいる間もカーリーはそのことを忘れずにいたのだろう。
「ぼくが君に助けてもらった以上、君はぼくの恩人だ」
カーリーが顔を上げた。
「いたければ、これからもここにいていい。ぼくは君を突き出したりしない」
エリオスの声は彼女に届く柔らかさだった。
「だから安心していいよ」
それだけ告げると、背もたれに頭を預けて目を閉じた。彼にとってはわざわざ理由を重ねて説明するまでもないことのようだった。
カーリーは閉じた本を膝に置いたまま、休んでいるエリオスの顔を見ていた。
不思議な人だ。
自分が何者なのかを知れば、普通は恐れたり、疑ったりするだろう。利用しようとする者がいてもおかしくない。けれど、彼が見ているのは過去に何をしてきたかよりも、今ここにいる自分なのだと、そんな気がした。
カーリーは暖炉の火へ目を向けた。
自分が追われる身であることは変わらない。諜報員として自国を裏切り、爆撃に紛れて逃げ出した。身代わりの遺体があったわけではなく、死を偽装する時間もなかった。
このまま完全に自由になれるとは思えない。いつか過去が追いついてくるかもしれない。
それでも今だけは、この穏やかな部屋にいたかった。
深夜、館に設けられた貴賓用のサービスルームでは、国王が一人の女性と戯れていた。
王妃はかなり早い時間に帰宅している。女性は国王に腕を絡め、親しげに身を寄せていた。彼もそれを楽しみ、王としての威厳とは異なる気安く享楽的な顔を見せている。
そんな最中、国王はふと天井を見上げた。
口元に、にやりと笑みが浮かぶ。何かを知っているのか、それとも何かを期待しているのか。
その笑みの意味を知る者は、まだ誰もいない。
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