第8話 仮面とドレス
エリオスはグラディオスと共に館へ戻った。
帰り道に聞いた父の想いがまだ胸に残っている。過去が変わるわけでも、父と過ごす時間が戻るわけでもない。それでも、厳しかった父の姿だけでは捉えきれなかったものに触れ、長く抱えてきた重さがほんの少し形を変えたように感じていた。
館へ戻ると、玄関ホールにスカーレットとカーリーが待っていた。二人の表情から、留守の間に何か重要なことがあったと分かる。
「たった今、停戦となったようです」
スカーレットの知らせにエリオスは一瞬目を見開いた。
やがてほかの使用人たちもホールへ集まり始めた。調理場から出てきた者も、掃除の手を休めてきた者も互いの顔を見合わせている。
「停戦……」
誰かが呟いた。それをきっかけに、集まった人々の間で言葉が交わされ始める。
「これで少し良くなりますね」
「今回の戦争は長かったから、まだ油断はできないけれど」
「ええ。でも、軍も撤退するでしょう」
長く続いた戦争の後で、すぐに不安を拭い去ることはできない。それでもようやく終わりが見えてきた。慎重な言葉を選びながらも、互いに応じる声には明るさが戻りつつあった。
エリオスはその様子を見守っていたが、やがて彼の表情も和らいだ。
「それは何よりだね」
グラディオスがスカーレットと目を合わせた。長年共に仕えてきた二人には、その短いやり取りで伝わるものがあったらしい。スカーレットは顔の前で両手を合わせ、嬉しそうに笑った。
エリオスは少し不思議そうに二人を見たが、改めて背筋を伸ばした。自分の口からここにいる皆へ伝えたかった。
「みんなに報告があるんだ」
使用人たちの会話が途切れ、エリオスへ顔が向く。
「ぼくは爵位を継ぐ決心をしたよ」
一瞬、誰も声を発しなかったが、やがてその言葉が行き渡ると、ホールに明るい声が響いた。
「本当ですか!」
「おめでとうございます!」
「よかった……!」
笑顔を見交わす者もいれば、安堵を隠さず声にする者もいる。停戦に続いてこの家を継ぐ当主が決まった。思いがけず重なった二つの知らせに、ブラックウッドの館は久しぶりの喜びに包まれた。
その日の夕食後、ダイニングルームには普段より多くの人が集まっていた。
メイドや庭師、警備を担当する者たちまで、館を支える全員が揃っている。あちこちで会話が交わされる中、スカーレットが立ち上がり銀のフォークでワイングラスを軽く叩いた。
澄んだ音に会話がやみ、皆が彼女へ顔を向けた。
「改めまして、エリオス様がこの度、伯爵位を継承なさることとなりました」
エリオスに笑顔が集まる。スカーレットもその喜びを分かち合うように微笑んでから、話を続けた。
「そこで家政婦長のわたくしから、代々続く爵位継承の儀についてのお話をさせていただきます。ブラックウッドでは代々、爵位継承の折には、この館に国中の権威ある方々をお招きして、新しい伯爵様を披露する盛大なパーティを催してきました」
エリオスは少し驚いてスカーレットを見た。この館で育ちながらそんな伝統があるとは知らなかった。爵位を継ぐと決めたことで、自分の家について初めて聞かされることがまだいくつもありそうだ。
「もちろん、皆さんもわたくしも初めてのことです」
スカーレットは皆の顔を見渡し、柔らかな笑みを浮かべた。
「ですが、ブラックウッド伯爵家の披露パーティは歴史的にも大変盛大かつ伝統あるものです。その最も大きな特徴は――」
そこで言葉を切ると、続きを待つ人々へ告げた。
「仮面舞踏会、ということです」
「まぁ……!」
「仮面舞踏会!?」
女性たちの間からどよめきが起こった。
華やかな衣装をまとい、音楽に耳を傾け、大勢で集まって笑い合う。長い戦争の間、そんな夜を思い描く余裕は誰にもなかった。仮面舞踏会という言葉が、遠ざかっていた平穏な暮らしの楽しみを呼び戻したようだ。
スカーレットはその反応を受け止めてから説明を続けた。
「エリオス様は現在、まだ療養中の御身です」
皆の目が再びエリオスへ向くと、彼は困ったように笑った。当主になると決めたもののすぐに何でもこなせる身体ではない。集まった人々の期待に応えるにも、まずは傷を癒やさなければならないのだ。
「それに、ブラックウッド伯爵家は王国内でも屈指の名家です。爵位継承の噂が広まれば、あっという間に領外へ伝わるでしょう」
停戦の知らせを受け、貴族社会もまた動き始めるだろう。誰が新たな当主となり、どの家と繋がるのか。その人物はどのような考えを持っているのか。
王家とも繋がりが深く、長い歴史を持つブラックウッド伯爵家の動向となれば、関心を寄せる者は領内だけには留まらない。
「ですから、爵位継承の儀まで、ここにいる者は誰一人としてこの件を城外で話すことを禁じます」
声は穏やかなままでも、最後の言葉ははっきりとしていた。
一同はスカーレットを見て頷いた。新たな当主を迎えたこの家を守るために、今は知らせを胸に収めておく。その約束を交わすような頷きだった。
「それに、そのような盛大な舞踏会を催すには、大変な準備と時間が必要です」
スカーレットの表情が和らいだのを見て、エリオスはかえって嫌な予感がした。こういう時の彼女は手際がよく、誰が何をするべきかもすでに考えている。口を挟もうとしてもその隙はまず与えられない。
「エリオス様はお身体が癒える間、伯爵領の領地管理について学びながらお過ごしください」
「……うん」
返事はしたものの、不安は顔に出ていた。
領地管理と聞いても、何から学べばよいのかすぐには思い浮かばない。爵位を継ぐという決意が、具体的な務めとなって早くも目の前に置かれていた。
「我々伯爵家に仕えるものは、明日から舞踏会開催に向けて準備を始めます!」
スカーレットは笑顔で宣言した。
「やることは山積みです!」
集まった人々は笑顔で互いに顔を見合わせた。
長く閉ざされていた場所が再び動き始めようとしていた。
翌朝からブラックウッドの館は別の顔を見せ始めた。
廊下を行き交う足音が増え、仕事の段取りを確かめ合う声が聞こえてくる。当主の不在と戦争のために沈んでいた館に、人を迎えるための活気が戻りつつあった。
その一方で、エリオスは机の前で別の戦いに向き合っていた。
「こちらが今年度の領地報告書です」
グラディオスが机に資料を置いた。エリオスが表紙を開くと、項目ごとにまとめられた数字や報告が続いている。
「人口、収穫量、各地域の状況。そして領民からの要望です」
エリオスは一つずつ内容を確かめていった。数字を読むだけでは足りない。それがどのような状況を示し、寄せられた要望とどう関わるのか。前のページへ戻って確かめながら、領地の現状を理解しようと努めた。
ピアニストだった頃は、一音一音に耳を澄ませ、それらを積み重ねて一つの曲を形にしていた。今目の前にあるのは現実にそこに暮らす人々の生活だ。
「……父さんは、これをずっとやっていたんだね」
エリオスは開いた報告書を前に息を吐いた。後継者としての責任を説かれた頃には、その言葉が日々のどのような仕事に結びつくのかまで考えたことがなかった。
先代の傍らでその務めを見続けてきたグラディオスは、現実を受け止めようと努力するエリオスの姿を見つめながら頷いた。
一方、カーリーにも思いがけない役目が回ってきた。
「カーリー、こちらをお願いできますか?」
「……はい?」
呼び止められたカーリーが返事をするうちに、スカーレットは頼みたい仕事を説明し始めていた。
彼女は客人であり、本来なら準備を手伝う必要はない。だが、山積みの仕事を前にした家政婦長にはその手を遊ばせておく余裕もないらしい。
「人手が足りませんので」
理由は明快だった。そのひと言で、カーリーも舞踏会の準備を担う一人となった。
清掃業者への連絡を終えれば、次は料理関係者との打ち合わせが待っている。警備の手配まで任され、カーリーはスカーレットの指示を受けながら一つずつ仕事を片づけていった。確認の必要なことは確かめ、済んだことを報告する。黙々とこなすうちに、次は何をすればよいのか自分から尋ねるようになっていた。
これは遂行すべき任務でも、従わなければならない命令でもない。当然、報酬があるわけでもない。
ただ誰かのために自分から働き、それが喜ばれる。そのことに新鮮さを感じずにはいられなかった。
舞踏会の日程が決まると、エリオスの執務室の机には大量の便箋と封筒が積まれた。
「これは……」
「招待状です」
スカーレットは当然のように答えた。
「正式な招待状は、エリオス様ご自身でお書きにならなくてはいけません」
エリオスは机に並ぶ紙の束を見た。一通ずつ書くのだと考えながら量を確かめると、終えるまでにかかる時間の見当がつかなくなった。
「これ、全部?」
「はい」
エリオスはしばらく大量の便箋を見つめていた。書き終わる頃には指が何本か使い物にならなくなっていそうだ。
そこへやってきたカーリーが、横から机を覗き込んだ。
「大変そうですね」
「舞台より緊張するかもしれない。一文字でも間違えたらやり直しだ」
エリオスは苦笑し、一枚目の便箋を手前へ引き寄せた。まだ何も書いていない白い紙を前に、書き出しから気を遣っている。その様子にカーリーの口元が緩んだ。
「それは大袈裟です」
「そうかな」
「少なくとも、砲撃は来ません」
エリオスは一瞬黙った後、笑い出した。
「確かに」
やがてカーリーは封筒に記す招待客の名簿を確認し始めた。並ぶ名前を辿っていた目が、ある箇所で止まる。
「……国王」
声に出してから、エリオスを見た。
「国王がここに来るんですか?」
エリオスは書きかけの便箋から顔を上げ、少し疲れた声で答えた。
「来るかは分からないけれど、招待状は出さなくちゃね。何せブラックウッドは王家と結びつきが最も深い家門の一つだから」
自分で口にしながら、その家門を継ぐことになった身を持て余すように笑う。
「ここにいた時は後継者教育を真剣に受けていなかったし、興味もなかったけれど……」
そう言いながらもエリオスは次の便箋に向かった。紙の位置を整え、一文字ずつ書き進めていく。
カーリーはその横顔を見ていた。エリオスは慣れない務めに戸惑いながらも、以前なら逃げていたものを今は自分で受け入れようとしているのだ。
日が経つにつれ、館へ出入りする人は少しずつ増えていった。
玄関ホールには業者が訪れ、舞踏室では配置の確認が進む。調理場では当日の料理について話し合われ、庭園でも訪問客を迎えるための整備が行われていた。広大な館が大勢の人を迎える場所へと整っていく。
意外にも、その中心で最も忙しく動いていたのはカーリーだった。
「カーリー、こちらの確認をお願いできますか?」
「……分かりました」
最初は少し手伝うだけのつもりだった。だが、仕事を任せるうちにスカーレットは彼女の能力を見抜いていた。物事を整理し、状況を観察して、何が必要かを素早く判断する。その力は舞踏会の準備でも大いに役立った。
「こちらの業者は時間通りに来ます」
「警備の配置は、この方が効率的です」
「厨房側の動線は少し変更した方がいいと思います」
カーリーの意見を聞くたびに、スカーレットは感心したように頷いた。
「本当に助かります」
カーリーは返事を探したが、すぐには言葉が出てこなかった。必要だと思ったことを伝えただけなのに、スカーレットは自分へ笑顔を向けている。
助かる。そんなふうに言われたのは生まれて初めてのことだ。
諜報員としての仕事では、能力を評価されることはあっても感謝されることはまずない。任務を成功させれば次へ進み、失敗すれば終わりだ。
しかしここでは些細な働きにも誰かが笑顔を返してくれる。そのたびに戸惑いながら、カーリーはこれまで知らなかった人との関わり方に触れていた。
エリオスの傷が徐々に癒え、ようやく自力で立って歩けるようになった頃、館へ仕立て屋がやってきた。
王室御用達でもある王都屈指の高級オートクチュールだ。
衣装選びはエリオスが想像していた以上に長くかかった。
「こちらも試していただけますか」
「先ほどのものとは違う生地になります」
「仮面との組み合わせを考えると……」
一つ生地を試すと、次の候補が待っている。仕立て屋とスカーレットに促されるままエリオスは何度も鏡の前に立った。
ピアニストだった頃も舞台衣装には慣れていた。上質でも装いはシンプルで、何より演奏しやすいことが大切だった。
今度は仮面舞踏会の主役として人々の前に立つ。凝った意匠や華やかさが求められる一方で、装飾を重ねすぎれば品を損なう。大勢の客の中に埋もれず、それでいて華美過ぎない。その兼ね合いを二人は一切妥協するつもりがないらしい。
「本当にどの生地もお似合いになりますね!」
仕立て屋の男性は目を輝かせ、エリオスの姿にうっとり見入っている。
「ええ。だからこそ最もエリオス様が輝くものを選ばねばなりません」
スカーレットも熱心に応じ、二人の相談はさらに続いた。
エリオスは求められるままに立っては鏡の前に立ち、着せ替え人形のようになされるがままになっていた。
ようやく仕立て屋が帰ると、エリオスは応接室のソファへ身体を沈めた。背もたれに深く身を預けたまましばらくは動く気にもなれなかった。
「お疲れ様でした。なかなか大変でしたね」
カーリーに声をかけられ、エリオスは苦笑した。
「戦場より大変だったかもしれない」
「それは言い過ぎです」
「そうかな」
「はい」
エリオスは真顔で答えるカーリーを見て笑った。しかしその笑いが収まると、カーリーへ向ける表情から冗談めかした気配が消えた。
「カーリー、ぼくはちゃんとやれるかな……」
カーリーは彼の顔を見た。
いつもの余裕のある笑顔の下に、一人の青年としての不安があった。爵位を継ぎ、この家を背負い、父の代わりを務める。決心したからといってすぐに自信まで持てるものではないのだろう。
どう答えるべきか考えながらカーリーはしばらく彼を見つめていた。大丈夫だと請け合えるほど伯爵の務めを知っているわけではないし、励ます、ということを彼女はまだ知らなかった。
「もう後には引けませんよ。あなたも、私も」
普段と変わらない淡々とした声だったが、その声の響きに厳しさはなかった。
エリオスはふっと笑いをこぼした。
「……そうだね」
ついに爵位継承を祝う舞踏会の夜が訪れた。
ブラックウッドの館はかつてないほど明るく照らされている。
長く外部に閉ざされていた森の巨大な鉄門が開かれ、高級車が次々と通り抜けていく。館正面の車寄せに停まるたび、白い手袋をした運転手が後部座席の扉を恭しく開いた。
降り立つのは王国内の主要貴族や著名人たちだ。煌びやかな衣装に仮面をつけ、招待客たちは館へと入っていく。
玄関ホールではグラスシャンデリアが輝き、迎え入れた客の衣装や仮面の細工をキラキラと輝かせた。人々の声と足音が重なり、長い歴史を持つ館は再び社交の場として賑わいを取り戻していく。
招待客が到着するたびに、大きな扉の前に控えているグラディオスが深く頭を下げる。
「ようこそブラックウッドへ」
新しい伯爵を祝福する仮面舞踏会が幕を開けた。
挿絵付き小説アプリ『BLACKWOOD』では、第100話まで挿絵付きで公開中です。
小説家になろうでは、挿絵なしの本文版を週1回更新する予定です。




