第7話 ブラックウッドの館
目を覚ましたカーリーは、しばらく天井を見つめていた。
こんなに熟睡したのはいつぶりだろうか。目覚めてもすぐに何かに呼び戻されることがなく、そのまま横になっていられる。自分を包む静けさに馴染むまで少し時間がかかった。
戦場近くの野戦病院では、負傷者の叫び声に医師や看護師の慌ただしい足音が重なり、遠くからは砲撃音が響いていた。いつしか眠りは身体を休める時間というより、意識が短く途切れるだけのものになっていた。
今耳に届くのは、窓の外で木々を揺らす風の音だけだ。
カーリーは身体を起こして窓へ歩み寄った。
外には広大な森が広がっている。風に揺れる梢を眺めているうちに、知らず詰めていた息がほどけた。ここでは目覚めてすぐ何かに備える必要もないらしい。
やがて窓を離れ、身支度に取りかかった。
鏡の前で伸ばした黒髪を整えると、いつもと変わらない顔が映る。何を思っているのか表情からは読み取れない。長年、生き残るために感情を表へ出さずにきた。その顔は、今では意識しなくても保たれている。
だが、この館ではそうして自分を守る必要がないような気がした。
少なくとも昨日会った人々からは、こちらを探ろうとする気配を感じなかった。とりわけエリオスは自分が何者なのかを問い詰めようともしなかった。
彼からすれば、カーリーは危険な人間かもしれない。話したことに嘘があるかもしれない。それでも彼は言った。
――君はぼくの命の恩人だ。
カーリーは目を伏せ、その言葉を胸の内で繰り返した。素性も知れない人間を迎え入れる理由として、彼にはそれで充分だったのだろうか。
「……変わった人」
鏡に向かって呟いても、答えは返ってこない。
カーリーは身支度を終えると、部屋を出た。
朝食を終えると、カーリーはスカーレットと共に玄関ホールへ向かった。車椅子で過ごしているエリオスは、今は自室で休んでいるという。
「今日は館の中をご案内いたします。広いですから、最初は迷われると思います」
「……迷うほど?」
「はい。初めて来られた方は皆さんそうおっしゃいます」
カーリーは改めて周囲を見渡した。
ホールの天井は遥か頭上にあり、大階段の先には左右へ延びる回廊が見える。その奥にも廊下が続いていて、ここからでは館全体の広さなど見当もつかない。
「……広すぎますね」
思わず漏れた率直な感想にも、スカーレットは慣れているようだった。
「そうですね。ですが、ブラックウッドにとって館はただ住む場所ではありません」
「では、何ですか?」
スカーレットは少し考えた。長年親しんだ場所を初めて訪れた相手に伝える言葉を選び、答える。
「家族が帰る場所です」
カーリーはその言葉を受けて、もう一度ホールを見上げた。
歴史ある一族が暮らす、これほど巨大な館だ。権力や格式を示すためのものだと言われればすぐに納得できただろう。けれどスカーレットの声には、ただ大切な場所について語る親しみがあった。
案内に従って歩くうちに、建物の大きさにばかり向いていたカーリーの目にも細かなものが映るようになった。
磨かれた階段の手すりには長い年月についたわずかな傷が残っている。窓辺にはさりげなく花が置かれ、今朝も誰かがそこを整えたことがうかがえた。古いものを守るだけでなく、日々使い、手をかけている人がいる。
ここで誰かが笑い、食卓を囲み、また翌日を迎える。そんな暮らしが長い年月続いてきたのだ。カーリーは手すりの傷や窓辺の花を目で追いながら、この大きな建物にも人の日常が息づいていることを、少し不思議な気持ちで受け止めていた。
いくつかの場所を回った後、スカーレットは二階の扉の前で足を止めた。
「こちらが音楽室です」
開かれた扉の向こうには、中央に一台のグランドピアノが置かれていた。壁際にはもう一台、年代を感じさせるヴィンテージのピアノがある。窓から差し込む光を受け、黒い表面に淡い艶が浮かんでいた。
「エリオス様は幼い頃からここで演奏されていました」
スカーレットの声がそれまでの案内よりも柔らかくなる。
カーリーは中央のピアノを見つめ、戦場で耳にした話を思い出した。ブラックウッド伯爵家の後継者で、有名なピアニスト。貴公子と呼ばれた青年。
目の前のピアノに彼が向かう姿を思い描こうとしても、浮かぶのは包帯を巻いた今のエリオスだった。戦争で傷つき、多くを失ったことを感じさせる目をしている。それでも人に接する時には優しさを失わない。カーリーが知る彼の姿は、噂に聞く華やかな貴公子の印象とはまだ結びつかなかった。
「以前は毎日のように弾いていらっしゃいました」
ピアノの前にたたずむカーリーの傍らでスカーレットが続けた。
「この館で、一番楽しそうにされていた場所かもしれません」
その言葉に野戦病院で聞いたエリオスの声がよみがえる。
「もう弾かないかもな」
あの時は短い言葉のまま聞いていた。今、彼が幼い頃から過ごしてきた音楽室に立つと、その一言が違った重みを持って胸に残る。
何を思ってそう告げたのか、彼の心の内までは分からない。けれど、戦争によって彼が失ったものの中に音楽があることだけはカーリーにも分かった。
舞踏室や談話室を回り、館内で最後に案内されたのは地下の大図書館だった。
重厚な二枚扉が開くと、カーリーは入口で足を止めた。
書架が天井近くまでそびえ、奥へも左右へも連なっている。見上げた先にも、視線を戻した先にも本がある。その一冊一冊を確かめようとすればどれほどの時間がかかるだろう。
幼い頃から、歴史や医学、複数の言語、軍事に至るまで、大量の情報を叩き込まれてきた。いずれも任務のために必要な知識だったが、学ぶことそのものは好きだった。知らなかったことが分かる喜びまで、義務に変わっていたわけではない。
「ここはブラックウッド家の大図書館です。代々の当主が記録を残してきた場所でもあります」
スカーレットの説明を聞きながらも、カーリーの関心は並んだ背表紙へと向かっていた。今すぐどれか一冊を手に取って中を確かめてみたい。圧倒されて立ち尽くしていたはずが、いつの間にか書架へ近づきたい気持ちの方が強くなっていた。
地下から戻ると、二人は館の外へ出た。
「建物の西側からしばらく歩いた先には湖や墓地があります」
スカーレットが指し示す方向へカーリーも目を向けた。湖畔にはボートハウスもあるという。
館内をひと巡りしたばかりなのに、敷地にはまだ見ていない場所がいくつもある。周囲に広がる森を眺めながらカーリーは思わず口にした。
「……ここを管理するのは、大変そうですね」
これだけ広い土地に多くの施設がある。戦争中で人手も限られる中、維持するだけでも容易ではないはずだ。それにしては今日見かけた使用人の数は少なかった。手入れの行き届いた館内を思い返すほど、いったい何人でこれを支えているのか気にかかる。
スカーレットは微笑んだ。
「この屋敷の使用人が最小限であることは、元々亡くなった伯爵様のご意向なのです。もちろん戦争前は今よりは多かったのですが」
カーリーはもう一度館を振り返った。
エリオスの父は、どのような考えでこの大きな館に置く人数を定めたのだろう。その人がどんな人物だったのか、カーリーはまだよく知らなかった。
夕方、太陽が森の向こうへ沈み始める頃、エリオスはグラディオスと共に墓地へ向かっていた。
車椅子に座り、膝の上に抱えた白い花束を両腕で支えている。グラディオスが車椅子を押し、森の外れへ続く道を進む間エリオスは何も話さなかった。傾いた陽の光が木々の間から差し込み、花の白さを照らしては通り過ぎていく。
やがて森の先にブラックウッド家の墓地が見えてきた。
中央には大きな石造りの納骨堂が建ち、その周囲には歴代のブラックウッド伯爵たちが眠っている。
墓地の一角に父と母の墓標があった。
エリオスは抱えていた白い花束を供えたが、そのまま何も言えずにいた。墓標を見つめていると、家を出た日のことや父との最後の会話がよみがえってくる。それよりも遠い、幼い頃の母の笑顔も、この館で過ごした日々も、父が笑っていた時の顔さえも。
グラディオスは隣に立ち、声をかけずに待っていた。
木々の間を風が抜け、遠くで鳥が鳴いている。そのほかにエリオスの思いを遮るものはなかった。
母はいつも優しかった。
ピアノを弾くと、誰よりも嬉しそうに聴いてくれた。音を間違えても笑ったりせず、何度でも弾き直すように言ってくれた。うまく弾けなかった時の記憶にも母の温かさは残っている。
父を思い出す時は、そう単純ではない。
厳しい言葉を投げかけられ、後継者としての責任やブラックウッド家を背負う覚悟を説かれた。当時のエリオスにはその全てが自分の自由を奪うものにしか思えなかった。だから家を出た。自分の夢を追いかけるために。
父は何を恐れ、なぜあれほど必死だったのだろう。
今になって生まれる問いを、もう本人に向けることはできない。
エリオスは目を閉じた。
胸の奥に残る後悔は、戦場で負った傷とは違う痛みだった。身体の傷には治療を施せても、失われた命は戻らない。伝えられなかった言葉も、分かり合えないまま過ぎた時間も、どれほど願ったところで取り戻せなかった。
しばらくして、傍らからグラディオスの声が届いた。
「家を出られたあと、伯爵様はひどく後悔なさっていました」
エリオスは顔を上げた。父が後悔していたという言葉をすぐにはのみ込めなかった。家を離れた後の父を知らないまま、記憶にある厳しい姿だけを思い浮かべていたことに気づく。
グラディオスは墓標に目を向けたまま、穏やかな声で続けた。
「エリオス様を説得できなかったからではありません。愛する息子の心が、自分からもブラックウッドからも離れてしまったとお思いになったからです」
エリオスは何も言わず、その先を待った。
「ひどく寂しがっておられました。しかし、ご自身で突き放した手前、何もできないと……」
父が自分を寂しがっていた。その事実がエリオスの胸に刺さった。
怒っていたのでも、諦めていたのでもなく、ただ息子にどう言葉を届ければよいのか分からずにいたのかもしれない。自分には厳しさとしか映らなかった父の姿に、初めてその寂しさが重なった。
墓地からの帰り道。木々の間から差し込む夕暮れの光が二人の影を長く伸ばしている。
「グラディオス」
「はい」
「ぼくはずっと逃げていたんだ」
グラディオスは言葉を挟まず、車椅子を押す歩調を保っていた。
「息子はぼくしかいない。ぼくがやるしかない」
幼い頃から繰り返し聞かされ、自分でもそう思わなければならないと信じていた。
「そう言い聞かせられて育った」
けれど、その責任を受け入れるよりも先に好きになったものがあった。
「ピアノが大好きだった」
音楽のことに触れると、エリオスの声がわずかに柔らかくなった。
「ただ、ピアノを弾いていたかった」
家を離れたことを逃げと呼んでも、音楽そのものが逃避だったわけではない。エリオスにとって、音楽は自分自身でいられる唯一のものだった。
「沢山の人がぼくのピアノを聴いてくれたよ」
「存じておりますとも」
背後から届くグラディオスの声には優しさがにじんでいた。
「エリオス様が幼少期の頃、誰よりもファンだったのは母上でした。もちろん、私もです」
エリオスの口元も緩んだ。大勢の前で演奏するようになるよりずっと前から自分のピアノを喜んでくれた人たちがいた。
「しかし……先代伯爵様も、実はエリオス様のコンサートへ何度も足を運んでおられました」
「……父さんが?」
「はい」
エリオスは返答に詰まった。そんなことは一度も知らされていない。父はピアニストになることを最後まで認めなかったはずだ。その父が、自分の演奏を聴くために会場へ来ていたという。
「お父上は許しておられました。エリオス様のお気持ちを受け入れようと努力されていたのです。セインを世話し、最終的に養子に迎えたのもそのためでした」
父について知っているつもりでいたことが、また一つ揺らいだ。自分が覚えているのは家を出るまでの父の姿だ。それが全てであるかのように考えていた間にも、父は父なりに息子を受け入れようとしていた。
エリオスは息を吐いた。聞かされたことを受け止めようとするほど、知らずに過ごした年月の長さが身に迫る。
「知らなかったことばかりだ。知ろうとしなかった、という方が正しいのかな」
夕暮れの森へ目を向けた。父の話を聞きながら、自分が選んできた道についても考えていた。館を出た時のことだけではない。自ら前線へ向かった時にも、父に背を向けた記憶は心の底に残っていたのではないか。
「今、気がついたけれど……」
続けようとすると、声がわずかに震えた。
「敢えて前線に行ったのは、十代の頃の自分の幼さを後悔していたからだ」
地位に執着していないことを示すだけならほかにも道はあったはずだ。それでも前線を選んだのは、父と向き合わずに去った自分をどこかで償おうとしていたからなのだろう。
「もっとちゃんと父さんと話せばよかったのに」
言い終えた時、一筋の涙が頬を伝った。
戦場で仲間を失った時にも流れなかった涙。今さら父に会って確かめたい、伝えたいと思っても、それはもう決して叶わない。
グラディオスは車椅子を止めて傍らに立ち、何も言わずに付き添っていた。
しばらく二人はそのままでいたが、やがてエリオスは前を向いた。
「グラディオス」
「はい」
「ぼくは爵位を継ぐよ」
グラディオスが顔を上げた。
「伯爵位に興味がないことは、今も変わってない」
エリオスは苦笑しながらも、グラディオスから目を逸らさなかった。
「でも……ここはやっぱりぼくの家だ。父さんの後悔は、ぼくの後悔でもある」
グラディオスは車椅子の前へ回り、深く頭を下げた。
「よく決心なさいました」
頭を下げたまま告げる声には、長い間待ち続けた者の安堵がにじんでいた。
その夜、カーリーはスカーレットと別れ、大図書館で本を開いていた。
ページをめくっていると、持ってきたラジオから突然、声が流れた。
「停戦の合意がなされたと、たった今情報が入ってきました!」
カーリーの手が止まった。めくりかけのページを指先に挟んだままラジオの声に耳を澄ます。
「停戦です!」
確かにそう聞こえたのに、その言葉と、自分が過ごしてきた戦場とがすぐには結びつかなかった。
薄暗い大図書館に、古時計が淡々と時を刻む音と、ラジオから流れる声が響いている。
カーリーは開いた本からゆっくりと顔を上げた。
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小説家になろうでは、挿絵なしの本文版を週1回更新する予定です。




