第6話 執事長グラディオス
ブラックウッド伯爵家の巨大な館を長年にわたって守り続けてきた男がいる。
執事長のグラディオスだ。
主人が病に伏せていた間も、その死後も、彼はこの場所を離れなかった。
朝の仕事は館内を見て回ることから始まる。照明や暖炉の状態を点検し、その日の使用人たちの配置を確かめる。修繕が必要な箇所があれば手配をし、庭園の手入れにも目を配る。
一つひとつは目立たない仕事でも、どれかを怠れば館の暮らしに支障が出る。そうした日々の細部を整えることで、グラディオスはこの館の秩序を支えてきた。
戦争によって領地の状況も人々の暮らしも変わり、ブラックウッド家もその影響を免れなかった。かつて大勢の使用人が働いていた館は、今では必要最低限の人数で維持されている。広大な建物には使われない部屋が増え、日々の手入れも以前のようにはいかない。
それでもグラディオスが仕事の基準を変えることはなかった。
人の通らない廊下にも埃を残さず、閉ざした部屋にも定期的に風を通す。銀食器は曇りのないよう磨き上げ、暖炉には火を入れる。
主人がいつ帰ってきても変わらぬ館で迎えられるように。そのための仕事を彼は一日も欠かさず続けていた。
先代伯爵が亡くなってしばらく経ったある朝のことだった。
玄関ホールを歩いていたグラディオスの前に窓から光が差し込んでいた。床まで伸びる光の筋を細かな埃が漂い、束の間きらめいては見えなくなる。
広いホールに響くのは自分の足音ばかりだ。
かつてはここに先代伯爵の声が響き、幼いエリオスが足音を弾ませていた。日々の仕事の傍らにあった家族の営みは、今ではその多くが失われている。館をどれほど整えても、あの頃の賑わいまで取り戻せるわけではない。
歴代当主の肖像画が並ぶ壁の前でグラディオスは足を止めた。
先代伯爵もまた額縁の中から真っ直ぐ前を見据えている。厳しい表情は生前を思わせるが、絵を見るだけではその奥にあった不器用な優しさまでは伝わらないだろう。長く傍らに仕えてきたグラディオスには、どちらもよく知る主人の姿だった。
誰もいないホールでグラディオスは肖像画に向かって頭を下げた。
グラディオスには、主人と最後に交わした約束があった。
病に伏せてからというもの、伯爵は一日の大半をベッドの上で過ごしていた。かつての威厳ある姿を思えば、その衰えは傍らに仕えるグラディオスにも痛ましい。それでも目に宿る強さだけは変わらなかった。長年ブラックウッド家を守ってきた主人がそこにいた。
「どうしても息子に伝えなくてはならないことがあるのだ」
声は弱っていても、言葉には確かな意志がこもっている。グラディオスはベッドの傍らに立ち、主人の訴えを聞いていた。
「なんとしても連れ戻さなくては」
その願いに、返す言葉を迷うことはなかった。
「なんとしてもお連れします」
伯爵の表情がわずかに和らぐ。グラディオスには、自分の返答がいくらか主人を安堵させたように思えた。
「セインのことも頼んだぞ」
息子のことだけではない。ブラックウッド家に残る者たちも、この家が守り受け継いでいかなければならないものも、先代伯爵は最後まで案じていた。
ある日の深夜、グラディオスはホールを抜けて大階段へ向かった。
歩きながら無意識に懐へ手を入れ、そこに収めた黒い封筒に触れる。長い間誰にも触れさせず、肌身離さず持ち歩いてきたものだ。中に入っているのは手紙ではない。先代伯爵から託されたものが、今も確かにそこにある。
指先でその感触を確かめると、グラディオスは階段を上がった。
三階へ向かう間、館に響くのは自分の足音だけだった。この先の区画には現在、彼以外の誰も足を踏み入れることを許されていない。
廊下を進んだ先で、グラディオスは一つの扉の前に立ち止まる。年月を経た黒塗りの扉はとりわけ重厚で、幾重にも施された装飾の隅まで丹念に磨かれていた。閉ざされたままでも手入れの行き届いたその姿は、いつか誰かが戻るのを待っているように見える。
懐から黒い封筒を抜き取り、中の鍵を取り出した。
淡い光を帯びた鍵を見つめてから扉へと手を伸ばす。
しかし、鍵穴に差し入れる前にその手が止まった。
開けることも、すぐに立ち去ることも出来ず、グラディオスはしばらく扉の前に立っていた。やがて伸ばしていた手を引き、鍵を封筒へ戻す。
それを再び懐に収めると、扉を閉ざしたまま、元来た廊下を引き返した。
*
館へ戻ったエリオスは、グラディオスの手を借りて自室の前まで来ていた。
長い年月を隔てても部屋は記憶にある場所にある。まだ何も知らない少年だった頃、この扉の向こうで眠り、朝を迎えた。あの頃は当たり前だった日々が、扉を前にすると身近に蘇る。
それでも今湧き上がるのは懐かしさだけではなかった。かつて自分の居場所だったはずの部屋に、今は少しだけよそよそしさも感じていた。
扉を開けると、馴染みのある空気がエリオスを迎えた。
長く使われていなかったとは思えないほど室内は隅々まで整えられている。大きな窓にかかる厚手のカーテンも、落ち着いた色合いの家具も、ここで過ごした記憶に重なった。
壁際の古い本棚には昔のままの本が並んでいた。見覚えのある背表紙を目で辿るうちに、少しずつ部屋の様子が記憶と結びついていく。
机の上にも余計なものはなく、必要な品だけが整然と置かれている。その配置にまで手入れする者の心配りがうかがえた。
華美に飾り立てることなく、実用に適うものを美しく整える。そうしたブラックウッド家らしい品のよさがこの部屋にも保たれていた。
エリオスは室内へ足を踏み入れた。
床に響く靴音まで昔と同じように感じられるのに、その音を立てている自分はもうあの頃とは違う。
鏡に映った姿が目に留まった。戦場から戻った身体には包帯が巻かれ、血の気の乏しい顔に疲労がにじんでいる。音楽家として舞台に立っていた頃の面影を探しても、今の姿には容易に重ならなかった。
ベッド脇にはグラディオスが用意した着替えが置かれていた。暗い色を基調とした仕立てのよい夜着で、手に触れる布地は柔らかく、戦場で着続けた軍服とはまるで感触が違う。
グラディオスの手を借りて着替えると、身体を包む軽さに不思議な心地がした。硬い軍服に装備の重みが加わり、いつでも動けるよう気を張っていた日々がまだ身体に染みついている。今はそれを脱ぎ、慣れ親しんだ部屋で夜着を身につけている。
服を変えるだけで兵士からブラックウッド家の後継者へと戻されていくようだった。
着替えを助けるグラディオスの手は、エリオスの動きに合わせて無理なく身体を支えた。歩き方や姿勢、痛みをこらえた時のわずかな表情の変化も、幼い頃から仕えてきた彼には見逃せない。本人が隠そうとしてもその様子から分かることがある。
その手に身を任せながら、エリオスは帰館してから気になっていたことを尋ねた。
「館の人間は……随分減ったんだね」
グラディオスの手が一瞬止まった。
「はい」
戦争と経済状況の悪化に、先代伯爵の死、主人の不在が重なった。手入れの行き届いた部屋だけを見れば昔のままでも、それを維持する館の事情は変わっている。
エリオスは整えられた室内を見渡した。
「それでも、よく維持したね」
「これが私の役目ですから」
グラディオスは落ち着いた声で答え、夜着の襟元を整えた。長く館を守ってきた仕事も、今こうして主人の身支度を手伝うことも、彼にとってはひと続きの務めなのだろう。
同じ頃、カーリーはスカーレットに客室へ案内されていた。
通された部屋は一般的な宿の一室とは比べものにならないほど広い。高い天井と大きな窓、落ち着いた色調の壁紙が空間にゆとりを与えている。木製のアンティーク家具には細かな装飾が施され、大きなベッドには柔らかそうな寝具が整えられていた。
けれど、カーリーがまず意識したのは豪華さよりも静けさだった。
戦場では銃声や怒号、車両の音に人の叫びが絶えず重なっていた。ここで聞こえるのは、時計が時を刻む音と窓の外を渡る風の音だけ。ほかの音にかき消されることなく、その一つひとつが耳に届く。
「こちらのお部屋をお使いください」
緋色の長い髪を整えたスカーレットの佇まいには、この館に通じる落ち着きがあった。
「必要なものがございましたら、遠慮なくお申し付けください」
カーリーは室内を見回した。
「……充分です」
遠慮から出た言葉ではなかった。屋根があり、安全に眠れる場所がある。それだけで今の彼女には有り難いことだった。
スカーレットは返答を受けても、なおカーリーの様子を見ていた。戦場を離れ、長い逃亡生活を経てきた客人だ。差し迫った危険のない場所へ着いても自分のことは後回しにしてしまう。その癖をスカーレットは早くも見て取っていた。
「カーリー様」
「その呼び方はやめてください」
カーリーは即座に返した。
「私はそんな大層な人間ではありません」
きっぱりとした申し出に、スカーレットの目元が和らぐ。
「では、カーリー」
「はい」
「身支度をしていただきます」
今度は返事が続かなかった。
敵軍基地から脱出した時も、戦場を歩いた時も、カーリーは冷静に状況を見極めてきた。それなのに、自分の身支度を整えるという申し出にどう応じればよいのか分からない。この館へ来て初めて、彼女はまごついていた。
しばらくして、カーリーが客室から姿を現した。
戦場で身につけていた服に代わり、館で用意された落ち着いた色合いのワンピースを着ている。華美な装飾のない簡素な服だが、上質な布地は肌に柔らかく馴染み、歩いても動きを妨げない。
銃弾が飛び交い、泥や血の匂いが染みついた日々から離れて、日常を過ごすための服に袖を通す。そのことにカーリーはまだ戸惑っていた。着替えを終えて鏡を見た時も、そこに映る姿が自分のものとは思えなかった。服が変わっただけのはずなのに、見慣れた自分との隔たりは大きい。
「……似合っていますよ」
スカーレットは笑みを浮かべてその姿を迎えた。カーリーは少し視線を逸らす。
「こういう服は慣れていません」
「そうでしょうね。ですが、少しずつ慣れていただければと思います」
カーリーはこれからこの服に馴染んでいく自分がまだ想像出来なかった。それでも、服の感触やスカーレットの言葉は不思議と身に馴染むような気がした。
夕食の時刻には、ダイニングルームに柔らかな明かりが灯っていた。
長い木製のテーブルに真っ白なクロスがかけられ、磨き上げられた銀食器が照明を映している。壁には風景画が飾られ、大きな花瓶に生けられた花が部屋に彩りを添えていた。
かつてはこの広い部屋にも大勢の声が響いていたのだろう。今、席につく人数は少ない。それでも、主人と客人を迎えた食卓には久しぶりに人の温もりが戻っていた。
湯気の立つスープが運ばれ、焼きたてのパンや丁寧に調理された肉料理が続いた。どれも派手な料理ではないが、戦場での生活が続いていたエリオスには特別な食事だった。
スープを口に運ぶと、その温かさが喉を通って身体に広がっていく。銃声に耳をそばだてることもなく、落ち着いて次のひと口を味わえる。そんな時間の中で、自分が元いた世界へ戻ってきたことを実感していた。
一方のカーリーには、食卓を囲むひとときそのものが別世界の出来事のように思えた。
温かな料理も、落ち着いた広い部屋も、肌に馴染む衣服も、任務のために与えられたものではない。ただ自分が心地よく過ごせるように用意されている。そんなふうに迎えられることは、彼女にとって初めての経験だった。
食事を終えると、エリオスはグラディオスを呼んだ。
「グラディオス」
「はい」
「父は……最後まで、この家を守ろうとしていたのか?」
暖炉の薪がぱちりとはぜた。
グラディオスは手にしていた紅茶のカップを下ろし、エリオスに向き直った。
「はい」
返答に迷いはなかった。
「旦那様は厳格な方でしたが、ブラックウッド家を誰よりも大切にしておられました」
エリオスは父と過ごした最後の日々を思い返した。
後継者として多くを求められ、理解し合えないまま、自ら離れることを選んだ。あの日々の苦さは今も記憶から消えてはいない。
それでもグラディオスの言葉を聞くうちに、自分が見てきた父の姿に別の側面があるように思えてきた。この家を守ろうとする思いが、あの不器用な厳しさに繋がっていたのかもしれない。
グラディオスが姿勢を正した。
「エリオス様」
「うん」
「私は、長年先代伯爵様に仕えてまいりました。そして今は、あなた様に仕える身です」
帰ってきたばかりのエリオスにも、それが執事としての形式的な挨拶ではないことは分かった。主人を失ってなお館を守り続けた年月が、その言葉を支えている。
「あなた様がどのような道を選ばれるとしても、私はお側におります」
エリオスはその言葉を受け止めたまま、答えを返せずにいた。
爵位を継ぐのか、それとも別の道を選ぶのか。今すぐには決められない。
ただ、館へ戻って初めて分かりかけていることがあった。
整えられた部屋にも、今夜の食卓にも、ここで暮らす者たちの仕事がある。自分が遠く離れていた間も、彼らはそれぞれの役目を果たしながらこの家で日々を重ねてきた。
ブラックウッド伯爵の名を継ぐとは、爵位だけを受け取ることではない。そこに生きる人々の人生や想いも含めて受け止めることなのだと、自分の目で館の営みを見た今、ようやく実感し始めていた。
その夜、エリオスは自室のベッドから窓の外を眺めていた。
月が森の向こうへ沈んでいく。遠くでは風に揺れる木々が音を立てていた。
彼がここで生まれた頃と変わらず、館は今夜もそこにある。
けれど、エリオスはまだ知らない。
馴染みのあるこの館に、自分が触れたことのない過去が残されていることを。そして、これから向き合うことになるブラックウッド家の本当の歴史を。
挿絵付き小説アプリ『BLACKWOOD』では、第100話まで挿絵付きで公開中です。
小説家になろうでは、挿絵なしの本文版を週1回更新する予定です。




