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第5話 帰還

崩れた建物の脇を軍用車両が行き交っている。その合間を走り抜ける艶やかな黒の高級車は、戦争の傷跡が残る街ではひどく場違いに見えた。

ハンドルを握るのはグラディオス。後部座席にはエリオスとカーリーが並んでいる。


しばらく誰も口を開かず、カーリーは車窓に移り変わる景色を眺めていた。

街を抜けるにつれて崩れた建物が減り、人々の暮らす家並みや田園が広がり始める。遠くには山々も見えた。どうやら国境から遠ざかっているらしい。戦場の緊張も少しずつ後ろへ離れていく。


運転席のグラディオスには、ようやくエリオスを見つけて迎えに来られた安堵があった。長年ブラックウッド伯爵家に仕えてきた彼にとって、後部座席にその姿があることは何よりも大きい。だが、無事に会えたからといって全てが終わったわけではない。

「エリオス様。少しお話しておく必要があります」

エリオスは窓の外を見たまま答えた。

「何の話?」

「野戦病院でのことです」

グラディオスはこれまでの経緯を語り始めた。


エリオスが野戦病院で治療を受けていることは、国からの報告で知っていた。戦況を確認しながら迎えに向かう準備を進めていたところ、予想より早く病院が包囲されたという。

「私が到着した時にはすでに病院は襲撃を受けた後でした」

急いで向かっても間に合わなかった。その悔しさが落ち着いた声の奥に滲んでいた。


長年仕えてきた主人のたった一人の息子を、グラディオスは幼い頃から見守ってきた。必ず無事に連れ戻すと決めていたのに、その身に危険が迫った時、自分の手で助けることが出来なかったのだ。

「指定された次の避難先にもエリオス様のお姿はありませんでした。そこで私は別の可能性を考えました。敵軍基地へ捕虜として連行された可能性です」

エリオスが耳を傾ける中、話はその後の調査へと移った。

ラヴェンディア政府を通じた捕虜解放交渉と、ソルヴァリアの基地への確認。しかし、そこにもブラックウッド伯爵家の後継者はいなかった。

ただ、一つだけ手がかりになる報告があった。


『プラチナブロンドの男性と、黒髪の女性が軍用車両を奪って逃走した』


グラディオスはその情報を頼りに行方を追った。奪われた車両はラヴェンディア側の避難先の街近くで発見され、検問所を通過した二人の存在も確認できたという。

「……有名人というのも、皮肉なものだね」

エリオスは気を失っていて知らなかったが、検問所でのことは後からカーリーに聞いていた。警備員が彼を知っていたおかげで越境できたのだ。

多くの人々に名を知られることは、かつて誇りであり、舞台に立つ理由の一つでもあった。だが、戦場では目立つことも素性を知られることも危険を招く。その知名度が今回は命を救ったのだから、何が幸いするか分からない。


「このままブラックウッドへ向かいます」

グラディオスの言葉にエリオスは答えなかった。

再び会話が途切れた車内で、しばらく窓の外を眺めてから口を開いた。

「父の訃報は届いている」

ハンドルを握るグラディオスの指に力が入った。

エリオスは感情のこもらない声で続けた。

「僕には爵位を継ぐ資格がない。名前も地位も捨てて……どこか静かな場所で暮らしたい」



カーリーは二人の会話に耳を傾けていた。

エリオスは伯爵家の後継者としてではなく、一人の人間として自分の生き方を考えている。同時に、その名から逃れようともしている。彼女は口を挟まず、グラディオスの返事を待った。


車は街の喧騒を離れ、広い田園地帯へ入っていく。畑や牧草地の向こうには小さな集落があり、遠くで働く人々の姿も見えた。この土地にはまだ人々の暮らしが残っている。ブラックウッド領に近づくほど、窓の外にはのどかな景色が広がっていった。

「エリオス様。お父上も、同じことを望んでいた時期がございました」

エリオスは窓に向けていた顔を上げた。

「……父さんが?」

「はい。ただ、最後まで責任を手放すことはありませんでした」

父との間に長い年月をかけてできた溝は深い。理解できなかった責任も、許せなかった言葉も、何年も経った今なおエリオスの胸に残っている。



やがて道の向こうを深い緑が埋めた。

左右どちらへ目を向けても木々が途切れない。その広大な森の入口に、黒い鉄門が高くそびえている。


カーリーは窓へ顔を寄せた。門の向こうにも森が続き、どこまでがその敷地なのか見当もつかない。

「伯爵家の領地って……あの森全部ですか?」

一つの家が持つ土地として思い描いていた広さを、目の前の景色は遥かに超えていた。

グラディオスは穏やかな調子で答えた。

「ええ。ですがあの森だけではなく、今通ってきた田園地域も殆どが伯爵領です」

カーリーはもう一度窓の外を見た。先ほどまで眺めていた畑や牧草地、そこで働く人々の姿が思い浮かぶ。あの土地も、目の前に続く森も、隣に座る青年の名に繋がっている。

伯爵家という言葉を知っているだけでは計り知れない景色がそこには広がっていた。



エリオスは驚く彼女へ目を向けたが、その表情は変わらない。彼にとっては見慣れた景色だ。生まれた家も育った土地もここにあり、同時に、距離を置きたいと願ってきた場所でもある。


カーリーはその顔を見返した。

これほど大きなものを持つ人が、なぜ手放そうとするのだろう。

窓の外に広がる土地と隣の青年を見比べても、まだ分からなかった。



門の脇の警備を通り過ぎ、車は森へ入った。

道の両側には巨木が並び、鬱蒼と茂る枝葉が頭上を覆っている。空には厚い雲がかかり、森の中は昼間とは思えないほど薄暗い。

それでも枝葉の隙間からは僅かな光が差し込み、地面に淡い模様を描いていた。車はその明暗の中を奥へと進んでいく。



しばらく進むと木々が不意に途切れ、目の前に巨大な建物が現れた。


カーリーは言葉を失った。

黒灰色の石壁に高くそびえる塔。その奥にも建物が幾重に重なり、目でたどっても一度には全体を捉えきれない。


これがブラックウッドの館ーー。


森に隠されるように建つその姿には、大きさだけでは語れない重みがあった。石壁を見上げていると、館が経てきた長い年月までそこに重なって見える。この土地そのものが古い記憶を抱えているようで、カーリーは窓の向こうから目を離せなかった。



車が正面玄関前に止まると、グラディオスが先に降りて後部座席の扉を開けた。

差し出された腕に身を預け、エリオスは車から降りる。続いて降りたカーリーも肩を貸し、その身体を支えた。


三人が館の前に立つと、巨大な扉が開いた。

燃えるような緋色の髪をしたスカーレットが落ち着いた佇まいで出迎えている。その後ろには数人の使用人たちが並んでいた。



スカーレットはグラディオスと目を合わせて頷いた。長い年月を共にしてきた二人には、言葉を交わさずとも伝わるものがある。

グラディオスは穏やかな笑みを返した。

「ご子息のお帰りだ」

スカーレットが深く頭を下げる。

「お帰りなさいませ。エリオス様」

エリオスはその声を聞いてもしばらく動けなかった。

長く離れ、もう戻ることはないと思っていた家に、自分を迎える声がある。


ーー帰ってきたのだ。


顔を上げたスカーレットが彼を見つめて優しく微笑んだ。

「ご立派になられましたね。お坊ちゃま」

エリオスは眉を寄せ、ぶっきらぼうに返した。

「お坊ちゃまはやめてくれ。もうそんな歳じゃない」

それで終わりかと思うほど間を置いてから、彼は声を落とした。

「……随分と留守にしてしまってすまない」

スカーレットはその謝罪も笑みを絶やさずに受け止めた。

ようやくエリオス様が帰っていらした。


やがて彼女の目が、隣でエリオスに肩を貸す若い女性に留まった。カーリーはその身体を支えたまま立っている。

「ところで……そちらの方はどなたですか?」

挿絵付き小説アプリ『BLACKWOOD』では、第100話まで挿絵付きで公開中です。

小説家になろうでは、挿絵なしの本文版を週1回更新する予定です。

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