第4話 逃走
車体が跳ねた。
後部座席のエリオスは足と肩に走った痛みをこらえ、浅く息を継いだ。座席に身を預けていても、路面から伝わる衝撃を逃すことはできない。
舗装は爆撃であちこちが崩れ、大小の瓦礫が道を塞いでいた。医師がそれを避けてハンドルを切るたび、傷んだ車体が軋み激しく揺れる。
遠くで砲撃の光が空を染め、遅れて低い爆音が届いた。
道沿いには壁の崩れた住宅が続き、放棄された車両が道端に残されている。逃げる人々の間を軍用車両が進み、その周囲にも人の流れが絶えなかった。
人々が日常を営んでいた街の姿は、もうどこにも見えない。
三人を乗せたセダンは、その混乱の中を走り続けていた。
ハンドルを握る医師もまた、危険な場所から避難しなければならない一人のはずだ。その彼が今、後部座席にエリオスとカーリーを乗せ荒れた道を走っている。
エリオスは背もたれに身体を預けて浅い呼吸を繰り返していた。意識を取り戻してから幾らか時間は経っていても、この揺れに耐えられるほどには回復していない。
車体が沈み、また跳ねる。その度に傷の奥へ痛みが響き、座席の縁を握る指に力がこもった。額には汗が滲んでいたが彼は何も訴えなかった。
隣のカーリーは窓の外を見ていた。
道路の先から建物の陰へ、さらに兵士の動きや車両の流れへと注意を移していく。一か所を見つめることなく周囲の動きを絶えず確かめていた。
そのまなざしには病院で包帯を巻いていた時とは違う鋭さがあった。今彼女が頼りにしているのは、かつて諜報員として生きてきた中で身につけた、危険を見極める感覚だった。
医師は前方から目を離さずに言った。
「輸送車両は不足しています。隣のシティまで行かなければ移動手段はありません」
エリオスは目を閉じた。
病院を離れれば済むわけではない。まだ、この身体で戦場を進まなければならないのだ。
「……分かった」
カーリーは窓の外から彼へ目を向けた。無理をしていることはその顔を見れば分かる。それでも返ってきたのは短い了承だけで、弱音も、自分のために何かを変えてほしいという要求もなかった。
これまで見てきた貴族とは違う。
苦痛に耐えながら、なぜ何も求めないのだろう。カーリーにはそれが不思議だった。彼の横顔を見ても理由は分からない。
答えの出ない問いを残したまま、彼女は再び窓の外へ注意を戻した。
しばらくの間三人は追跡を逃れていた。
遠くで銃声が響く度にカーリーはその方角を確かめた。医師は道の状態に合わせて速度を調整し、車を進めていく。
一秒でも早く安全な場所へ。
だが、瓦礫の散らばる道では思うように速度を上げられない。
その時、エンジン音が不意に弱まった。
医師がアクセルを踏むが反応がない。焦りを顔に浮かべもう一度強く踏み込んでも、車は応えなかった。
速度が落ちていく。
「……まずい」
声が漏れた直後、セダンは止まった。燃料が尽きていた。
エンジンの振動が消えた車内に外の物音が急にはっきりと届く。戦闘はまだ続いている。
医師はすぐに車を降り後部座席のドアを開けた。
「立てますか?」
エリオスは身体を起こし、足を地面に下ろした。だが、立ち上がろうとしても片方の足に力が入らない。傷に加えてここまでの移動が身体を消耗させていた。
もう一度試みたが、自分の重さを支えきれなかった。
それを見た医師は、ためらわずにエリオスを背負った。
「先生……」
「患者を置いていく医者はいません」
エリオスにはそれ以上の言葉が出なかった。
この人は自分を救うために危険な場所へ戻り、今もこうして背負ってくれている。一人ならもっと速く逃げられるはずなのに。
医師はエリオスの身体を支え直すと、歩き出した。
銃声の中を三人は進んだ。
医師の呼吸が次第に荒くなっていく。その背にいるエリオスには、すぐ耳元で苦しげな息遣いが聞こえた。足が止まりかけても、医師は身体を前へ傾け次の一歩を踏み出す。
しかし、その一歩が不意に途切れた。
医師の身体が傾き地面に膝をついた。足を負傷していた。
「……大丈夫です」
そう言って立ち上がろうとしたが、身体は上がらなかった。
周囲には敵兵がいる。銃声も少しずつ近づいていた。医師は荒い呼吸を整えようとしながら二人を見た。
「自分はなんとかするので、お逃げください!」
エリオスはその顔から目を離せなかった。
自分を助けここまで背負ってきてくれた人を、この場所に残していくのか。
ここに留まれば三人とも捕まる。それは分かっている。それでも、医師の言葉に従ってすぐに離れることはできなかった。
カーリーは周囲の様子を確かめた。敵は近い。もう迷っていられる時間はない。
エリオスへ目を向けると、限界に近い身体でまだ医師を見つめている。今も動けずにいるのは疲労のためだけでなく、その人を置いていくことへの抵抗からだろう。
今の彼に、自分から立ち去る決断を求めるのは酷だ。
「行きましょう」
カーリーの声は淡々としていた。
彼が何をためらっているのか、分からないわけではない。だがここで止まれば、自分たちを逃がそうとしている医師の決断まで無駄にしてしまう。
エリオスは最後にもう一度医師を見た。
そして二人は、彼を残してその場を離れた。
二人で歩き出してからも、エリオスの足は思うように動かなかった。一歩進むたびにカーリーの肩へ身体の重みがかかる。彼女はその重さを受け止め、足を踏ん張って、また前へ進んだ。
これまで困難な状況で判断を迫られたことは幾度もあった。そのたびに感情を切り離し、生き残るために必要なことを選んできた。
今肩にかかっている重みは、逃げる上では明らかな負担だ。彼を支えている限り、思うように足を速めることはできない。
それでも手を離せなかった。
なぜ自分はこの男を助けようとしているのだろう。
カーリーにもその理由は分からなかった。分からないまま、エリオスの身体が傾けば支え直している。どうするべきかを考えるより先に身体が動いていた。
やがて、二人の前に敵兵が現れた。
周囲に逃げ込める場所はない。エリオスはもちろん、彼を支えているカーリーも戦える状態ではなかった。兵士たちの目が二人を捉えた。
幸いその兵士たちにはまだカーリーの正体も捕縛の命令も伝わっていなかった。それを知っていれば扱いは違っていただろう。
二人はほかの捕虜と同じように、ソルヴァリア軍の移送トラックへ乗せられた。
基地に到着すると二人は引き離された。
エリオスは傷ついた身体のまま男性の収容区画へ、カーリーは女性の収容区画へと連れていかれる。
それまで肩にかかっていた重みがなくなると、カーリーは歩きながら周囲を注意深く観察した。看守がどこに立ち、その目がどこまで届いているのか。通路はどの方向へ延び、出入口はどこにあるのか。
収監室へ連れていかれるまでに、目に入るものを一つずつ記憶していく。こうした状況は初めてではなかった。
深夜、収容所が静まり返ると、カーリーは隠し持っていたヘアピンを取り出した。細い金属を指先で扱い、音を立てないようドアの鍵を開ける。
通路へ出ると足音を忍ばせ、看守の視線を避けて進んだ。連れてこられた時に記憶した通路を頭の中で繋いでいく。
途中、一人の女性看守と遭遇した。
もみ合いは長く続かなかった。カーリーは後ろから忍び寄り相手の気を失わせると、制服と身分証、鍵を奪った。
看守服に着替え、乱れた襟元を整える。再び通路へ出た時には、外見だけならこの場所で働く人間と変わらなくなっていた。
男性収容区画の薄暗い廊下へ進み、身分証を提示する。
不自然な動きを一度でも見せればそこで終わる。カーリーは身分証をしまい、収監室の並ぶエリアへ入った。余計なものに気を取られずエリオスの姿を探す。
やがて、一室の奥に彼を見つけた。
エリオスは壁にもたれ、目を閉じていた。捕虜となったことへの焦りはその顔には見えない。だが、青ざめた顔色と浅い呼吸は身体が限界に近づいていることを物語っていた。
カーリーは女性看守から奪った鍵で扉を開けた。
その音にエリオスが目を開く。一瞬目に警戒が浮かび、次いで、その顔を認めると驚きに変わった。
「……カーリー!」
なぜここにいるのか。なぜ危険を冒してまで自分のところへ来たのか。
問いが言葉になるより先に、カーリーが告げた。
「行きますよ」
説明している時間はなかった。
カーリーはエリオスを支え、廊下へ出た。
看守の位置と動きを確かめ、角を曲がる先や通り抜ける扉を選ぶ。連れてこられた時の記憶を頼りに進んだが、一人で通った時と同じ速さでは歩けない。
エリオスの足が止まり、身体が傾く。その度に支え直し、彼が次の一歩を踏み出すのを待って先へ進んだ。
裏口を抜けると、軍用車両の搬入口に出た。
カーリーは並んでいる車両の一台へ向かい、エリオスを助手席に乗せた。自分も運転席に収まると、その車両を奪って基地を飛び出した。
助手席ではエリオスが荒い息をしている。顔色は悪く、ここまでの移動で傷も悪化していた。カーリーは運転の合間に何度もその様子を確かめた。
「大丈夫ですか」
「……君に比べれば、まだ大丈夫だよ」
カーリーの眉が僅かに動いた。
そんな顔色をして、まだ冗談を言うのか。呆れはしたが、返ってきた声と彼の様子を確かめ、前へ向き直った。
基地を出ただけでは逃げ切ったことにはならない。車両の位置を追われればすぐに追いつかれる。
カーリーは車内の機器を確認し、追跡機器を見つけるとそれを破壊した。
基地が少しずつ遠ざかり、やがて国境が見えてきた。
「国境です」
隣でエリオスが長い息を吐いた。
「もうすぐ病院へ行けます。大丈夫ですか」
返事はなかった。
ようやく助かる。その安堵に、エリオスが張り詰めていた力がほどけていく。目の前が暗くなり、カーリーの声も遠ざかっていった。
*
目を開くと、白い天井が見えた。
エリオスはしばらくそれを眺めていた。車の揺れも、銃声もない。消毒薬の匂いがして、身体の下にはベッドがある。
助かったのだと理解するまでに少し時間がかかった。
目を動かすと、ベッドの脇の椅子にカーリーがいた。座ったまま目を閉じている。
「カーリー」
呼びかけると、彼女はすぐに目を開いた。
「具合はどうですか」
「大丈夫だ。ここは?」
「国境から離れた病院です。一度国境近くの病院へ行って救急対応してもらったのですが覚えていませんか。そのあとこちらへ移動しました」
エリオスは自分の腕を見た。点滴の細いチューブが繋がっている。痛み止めが効いているのか、意識を失う前まで身体を貫いていた痛みも今は落ち着いていた。
病院を移ったことさえ覚えていないが、その間も彼女は付き添ってくれていたのだ。
カーリーへ目を戻すと、逃げている間には聞けなかったことが改めて胸に浮かんだ。
なぜ、敵国の兵士に追われていたのか。なぜ、危険を冒してまで自分を助けに来たのか。
彼が尋ねると、カーリーはすぐには答えなかったが、やがて言葉を選ぶように少しずつ話し始めた。
孤児として、ソルヴァリアの諜報員育成施設で育てられたこと。少女の頃から諜報員として任務に就き、今回の任務を機にラヴェンディアへ亡命したこと。
エリオスは口を挟まずに聞いていた。
カーリーは話しながら彼の表情を確かめた。自分が何者かを知れば人は距離を置く。そう思っていたのに、彼の顔には怒りも恐怖も、拒絶さえも浮かばなかった。彼女を見る目も話し始める前と変わらない。
話が終わっても、エリオスはすぐには口を開かなかった。
やがて彼はカーリーを見て言った。
「……君はぼくの命の恩人だ。過去に何があったのかはぼくには関係ない。君はもう、そこには戻りたくないんだろう?」
カーリーは口をつぐんだ。
何をしてきたのかではなく、今、そこへ戻りたいのかと聞かれている。
エリオスは答えを急かさず、真っ直ぐに彼女を見ていた。
カーリーもその目を見つめたまま、何も言わなかった。
その時、病室の扉が強くノックされた。
二人は同時に扉へ顔を向けた。カーリーは反射的に身構え、エリオスの表情にも警戒が戻る。
扉がゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、屈強な体つきの男だった。口髭は整えられ、大きな身体を支える姿勢にも、病室へ踏み入る身のこなしにも、優雅な落ち着きがある。
エリオスの表情が僅かに緩んだ。
「グラディオス」
グラディオスはベッドの上のエリオスを見て、一瞬、目を見開いた。だが、すぐにその驚きを収め、深く頭を下げた。
「エリオス様。お迎えにあがりました」
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