第3話 カーリー
叫び声が重なっても、カーリーの手は止まらなかった。
負傷兵の傷に当てたガーゼを押さえ、顔色と呼吸を確かめる。白い布に血が滲んでいく間にも、周囲では足音が行き交い、別の場所から助けを求める声が上がっていた。それらに手元を乱されることなく彼女は処置を進めた。
爆撃で傷ついた大地に急造された野戦病院には、次々と負傷兵が運び込まれてくる。医療班が声を張り上げて指示を交わし、一人手当てを終えるとそのまま次の患者のもとへ向かう。休む間はない。処置が少しでも遅れれば助けられるはずの命を失う。その切迫感が病院全体を覆っていた。
何を確かめ、何から処置するか。
カーリーは目の前の負傷兵の状態から優先すべきことを見極め、判断がつくと迷わず手を動かした。次々に運ばれてくる患者を目の前にしても、今、この手で行うべきことは変わらない。
周囲の声に焦りが募るほど、黒髪の看護師の冷静さはかえって異様に映った。
重傷を負ったエリオスが運び込まれると、病院の空気が変わった。
その名が伝わるにつれ、看護師たちの間に動揺が広がっていく。ブラックウッド伯爵家の後継者であり、美しい容姿で知られたピアニスト。その青年が、前線では大佐として戦い、今は傷ついて横たわっている。
病院の責任者からは彼の治療を最優先にするよう指示が出た。傍らで顔を見つめる者もいれば、名前を聞いただけで色めき立つ者もいる。
だが、カーリーの対応は変わらなかった。彼女が見ていたのは、目の前の患者がどんな状態にあり、何を必要としているかだけ。爵位も整った顔立ちも、その判断には関わらない。
周囲の動揺をよそに、彼女の手はいつもと同じ確かさで処置を続けていた。
*
数日後、エリオスは意識を取り戻した。
目を開いても周囲はまだぼやけている。その中で、痛みだけがはっきりと感じられた。足と肩。身体を動かそうとすると傷の深いところから痛みが広がり、思うように身じろぎもできない。
それでも、彼が最初に口にしたのは自分の傷についてではなかった。
ほかの兵士を優先してほしい、と彼は求めた。
その言葉にカーリーは手元から目を上げた。
ここでは、痛みを訴え、少しでも楽になりたいと願う者がほとんどだ。立場を利用して先に治療してもらおうとする者もいる。目の前の青年にはそれが出来る身分があった。
それなのに、ようやく目を覚ました彼が気にかけているのは、ほかの兵士のことだった。まだ自分の身体さえ自由にならず、その顔にも苦痛が残っているというのに。
カーリーはしばらくその顔を見つめていた。
カーリーの冷静さは、この病院で身についたものではない。彼女は幼い頃からそうあることを叩き込まれていた。
孤児だった彼女が育ったのは、今いるラヴェンディアの敵国、ソルヴァリア王国の諜報員特別育成施設だった。そこには孤児の中でもとりわけ能力に秀でていると判断された子供たちが集められていた。
そこで求められたのは優秀な頭脳と冷静な判断力。そして、命じられた任務を忠実に遂行する力。
自分が何を感じ、何を望むのかは何の意味も持たず、感情も夢も任務には必要がない。そうしたものを胸に抱くこと自体が禁じられ、子供たちは自分の思いを判断に差し挟まないよう育てられていく。
カーリーもまたその中で育った一人だった。冷静に考え、命令に従って行動することを身につけ、少女の頃にはすでに諜報員として任務に就いていた。
命令を受ければ動き、人を傷つけ、誰かの人生を奪う。一つの任務を終えてもすぐに次の任務が待っていた。
幼い頃は疑問を抱くより先に従った。それ以外に生きていく術を知らなかったからだ。
だが、成長するにつれ任務を終えても消えない疲れが心に積もっていった。
この先も同じことを続けるのだろうか。
かつては考えもしなかった問いが、任務を終えても残るようになった。日々を重ねるほどその疑問は大きくなっていく。
今回の戦争でもカーリーは諜報員として任務に就いていたが、そんなある時、潜伏していた建物が激しい爆撃に遭った。
彼女はその混乱に紛れて脱走した。
逃げ出す計画を立てていたわけではない。爆撃によって周囲が混乱したその時、咄嗟に選んだ行動だった。
その後、カーリーは髪を伸ばし身分も国籍も偽った。そして看護師としてこの野戦病院に紛れ込んだのだ。
今、カーリーがその手で看ているのは、かつて敵だった国の負傷兵たちだ。
なかでも、生死をさまようほどの重傷を負ったエリオスには昼夜を問わず看護が必要だった。ところがほかの看護師たちでは彼の容姿や立場を意識するあまりまともに仕事が出来ない。そのため、何事にも動じず必要な処置を続けられるカーリーが担当に選ばれた。
日々の看護を通して、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
カーリーも彼の名は知っていた。伯爵家の一人息子で、有名なピアニストだったことも。ただその演奏を聴いたことは一度もない。彼女にとってのエリオスは、ベッドの上で傷の回復を待つ一人の青年だった。
ある日、カーリーが包帯を巻き直しているとエリオスが礼を言った。
「ありがとう」
カーリーは手元に目を向けたまま、重ねた白い布の皺を指でならしていた。エリオスは俯いているその顔を覗き込むようにして続けた。
「君はいつも顔を隠しているけど、目を見せてくれないかな。恩人の顔を覚えておきたい」
「大丈夫です。他の方でも同じようにするでしょうから」
顔を上げないままの返事に会話はそこで途切れた。包帯を整える間、二人の間には何かもう一言必要なような気まずさが残った。
やがてカーリーの方から話を持ち出した。
「ピアニストだったんですよね」
すぐには答えが返らなかった。
「……そうだね」
ようやく聞こえた声には覇気がない。かつて大勢の人々を惹きつけた音楽家が自分のことを語っているとは思えないほどだった。
「戦争が終わったらまた弾くんでしょう。他の看護師たちが浮き足だっていて仕事が手についていません」
語尾には、仕事を妨げられていることへの非難が滲んだ。エリオスはそれを受け流すように目を逸らした。
「どうだろう。もう弾かないかもな」
カーリーは思わず顔を上げた。戦争が終わればまた演奏するのだろうと考えていた。弾かないという答えは予想していなかったが、その理由までは尋ねなかった。
それからも二人の間には看護の合間に短いやり取りが続いた。
カーリーが彼の容姿を揶揄すると、エリオスは笑って受け流す。長く話し込むことも、言葉を探して何かを打ち明けることもない。それでも、初めの頃のように気まずくなることはなくなっていた。
ほんの短いやり取りの後に残る笑みが次の言葉を交わしやすくする。看護のために共に過ごす時間には、戦場では得がたい穏やかさが混じるようになった。
友情と呼ぶにはまだささやかなものだ。
だが、二人はもう出会った時と同じ関係ではなかった。
だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。
ある日野戦病院に緊迫した知らせが届いた。周辺地域の戦況が悪化し、この場所にも危険が迫っているという。
職員たちは患者の移送に取りかかり、必要な物資をまとめ始めた。負傷兵を乗せた担架や医療用具を詰めた箱が次々と運び出されていく。限られた時間の中で、職員たちは互いに声をかけながら慌ただしく往復を繰り返していた。
エリオスも救急車両の到着を待っていた。傷はまだ癒えておらず、自力でここを離れることは出来ない。周囲で移送の準備が進む間も、彼はベッドに横たわったまま迎えを待つほかなかった。
しかしその夜、救急車両より先に病院へ到達したのはソルヴァリア軍だった。
外で大勢の足音が響き、荒々しい怒鳴り声が重なる。その中から一つの声がはっきりと聞こえた。
「ここに黒髪で小柄な女看護師がいるはずだ!」
「真っ先にその女を探せ!」
エリオスは目を開いた。
黒髪で小柄な看護師。ここでその特徴に当てはまるのはカーリーしかいない。
なぜソルヴァリア軍が彼女を探しているのか。事情は分からなかったが、何かを隠してこの場所にいるのだと瞬時に悟った。外から聞こえる怒鳴り声は、その身に危険が迫っていることを告げていた。
テントの幕が勢いよく開き、男性医師が飛び込んできた。その顔には混乱が浮かんでいる。
「ブラックウッド大佐!私の車で救急車両までお運びします!」
医師はエリオスの背に腕を回しベッドから起こそうとした。だが、傷の癒えていない身体は思うように動かず、自分の足で立つこともできない。
どうにか支えようとしていた医師が、テントの中にいるもう一人に気づいた。
黒い髪に、小柄な身体。
カーリーだった。
医師の動きが止まった。外で叫ばれていた特徴と目の前の看護師の姿が結びついたのが、その表情から分かった。
一瞬、誰も口を開かなかった。
彼女はこの病院で患者を看てきた看護師だ。傷ついた者たちのために働く姿を医師も見ている。だが今、外の敵兵が真っ先に探せと命じているのもその彼女だった。
医師の顔に迷いが浮かんだ。テントの外ではなおも怒鳴り声が続いている。
エリオスは医師を見据えて言った。
「彼女も一緒に行く」
助けを乞う声ではない。すでに決めている、という意思が感じられる強い声だった。
医師がエリオスを見返した。その顔には恐怖もためらいも残っていたが、エリオスは目を逸らさなかった。
やがて医師はカーリーに向かって声を絞り出した。
「……来い!」
三人は医師が用意した車へ向かった。
周囲では叫び声と走り回る足音が入り乱れ、混乱が続いている。エリオスは医師に身体を支えられながら進み、カーリーもその傍らを離れなかった。
目指す先には、車体の塗装も剥げかけた古いセダンが停まっていた。ようやくそこまで辿り着き、三人は車に乗り込んだ。
エンジンがかかり、セダンが動き出す。
背後で発砲音が響いた。銃弾が空を切るなか、二人を救うことを選んだ医師がハンドルを握っている。
傷ついたエリオスと、素性を隠していたカーリーを乗せた車は、銃声を背に野戦病院を離れていった。
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