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第2話 戦火のピアニスト

中央大陸の二大国、ラヴェンディア王国と隣国ソルヴァリア王国は、千年以上にわたり国境を巡って争ってきた。停戦を挟んでは再び戦い、終戦を迎えても、やがてまた新たな戦争が始まる。


その一方で、中央大陸には美しい歴史的建造物や貴族社会を現代まで受け継ぐ王国が連なっている。ここラヴェンディアもまた、戦争と復興を繰り返す中で、古い時代の面影と近未来を思わせる風景とが共存する国になっていた。


*

今回の戦争が始まる前、エリオス・ブラックウッドは全く違う人生を歩んでいた。

美しい容姿と卓越した才能に恵まれ、人を惹きつける穏やかな人柄を備えた若きピアニスト。その名は大陸中に知られ、演奏会のチケットはいつも売り切れた。


舞台に一音目が響けば、観客はもう彼の音楽に惹き込まれている。

白と黒の鍵盤の上を踊る指先から、繊細でありながら力強い音が生まれる。囁くような響きが重なり、やがて力を増した旋律がホールを満たしていく。



その一方で、エリオスは由緒あるブラックウッド伯爵家の後継者でもあった。いずれ爵位を継ぎ、家を担うことを約束された身である。


だが、若い彼が望んだのは爵位ではなく音楽家として生きる道だった。父との衝突を経て、十六歳の時にブラックウッドの館を離れた。


家を出た後も父からの便りは何度となく届いた。しかしエリオスはそれを開くことなく破棄し、一度も返事を書かなかった。その頃の彼には、自分が選んだ道しか見えていなかった。


演奏を終えて会場を出ると、いつもそこには彼を一目見ようと待つ大勢の人々が待ち構えていた。女性たちが周囲を取り囲み、熱い視線を向ける。カメラの閃光が幾度も瞬く。

社交界は彼を歓迎し、権力者たちはその才能にも名門の家柄にも関心を寄せた。


「貴公子」


人々は彼をそう呼んだ。

行く先々で注目を浴び、華やかな世界の中心に立つ。それが戦争前のエリオスだった。



だが、戦争の拡大がその華やかな日々に終わりをもたらした。


国境沿いの多くの都市が爆撃を受け、混乱は各地へ広がっていく。平穏な日常が崩れるなか、エリオスの演奏旅行も中止となり、音楽を届ける舞台は失われていった。

そして、健康な男性たちは次々と徴兵された。


ブラックウッド伯爵家の唯一の跡取りであるエリオスには、後方勤務が予定されていた。だが、貴族であることを理由に自分だけが安全な場所に留まるのを彼は受け入れようとしなかった。

「身分は関係ない」

そう告げて選んだのは、前線に近い部隊だった。

エリオスは戦地へ向かった。伯爵家の後継者ではなく、一人の軍人として。



土埃と銃声が日々を埋めた。

前線では、ほんの一瞬判断が遅れるだけで命を失う。かつて旋律を響かせた舞台から遠く離れたこの場所で、エリオスは大佐として兵士たちと行動を共にしていた。


しかし兵士たちと同じ場所に立ち、同じ戦況に向き合っていても、彼らとの隔たりが完全に埋まることはない。

軍服に身を包んでも生まれ持った気品は隠せない。泥にまみれ疲弊した兵士たちのなかで、整いすぎた容姿も伯爵家の跡取りという身分も彼を浮かせていた。兵士たちの目に映るエリオスは、同じ部隊の軍人である前に高貴な家に生まれた青年だった。

ここでは身分など関係ない。誰もが頭では分かっている。それでも、長く染みついた意識までは変わるものではなかった。


エリオスもそうした周囲の視線には気づいていた。だが、なぜここへ来たのか、何を考えているのかを語って、理解を求めようとはしなかった。

自分に与えられた役割を果たし、その日を生き抜く。彼はただそれを繰り返していた。


*

ある日、任務の合間に一通の手紙が届いた。

差出人は、ブラックウッド伯爵家の執事長グラディオス。封を開くと、父である先代伯爵アドリアンの訃報が記されていた。

エリオスはその文面を見つめたまましばらく動かなかった。

父が亡くなった。

自分はブラックウッド伯爵家を継ぐ立場となった。


しかし、涙を流しても不思議ではない知らせを前にしてもエリオスの表情は変わらない。長く離れて暮らした父との距離は、結局最後まで埋まらないままだった。胸の奥に残るものがあっても、それが表に出ることはなかった。

読み終えた後、エリオスはその手紙を畳んで机の脇へ置いた。返事は書かなかった。



戦況が一時的に落ち着いた夜。エリオスの部隊の兵士たちは廃校になった建物で休息を取っていた。

古びた机や椅子が残る教室には、壁にも長い年月の跡が刻まれている。かつて子供たちの声が響いていた場所に、今は疲れた兵士たちが身を寄せていた。


その片隅に一台のピアノがあった。打ち捨てられながらもどうにか形を留めている。

「大佐、弾いてくださいよ」

誰かが冗談半分に声をかけると、それをきっかけにほかの兵士たちからも演奏をせがむ声が上がった。

ほんの少しでいいから聴かせてほしい。彼らはエリオスとピアノを交互に見ながら、返事を待っている。

銃声ではない音を聴き、戦況も命令も忘れて過ごす。戦場へ来てから遠ざかっていたそんな時間を、ほんのひとときでも求めているようだった。


兵士たちの頼みに応じ、エリオスはピアノの前に腰を下ろした。

鍵盤に積もった埃を払い、傷んだ表面に指先を滑らせる。そして、両手を鍵盤に置いた。



エリオスが鍵盤を押すと、思い描いたものとは違う音が響いた。

調律はひどく狂い、鍵盤も傷んでいる。演奏会場で弾いてきた楽器とは比べようもなかった。それでも不揃いな響きは重なり合い、旋律となって古い建物の中へ広がっていく。


いつの間にか兵士たちの話し声が途絶えていた。銃を握っていた手を休め、目を閉じて聴き入る者もいる。

弾きながら彼らの顔を見ると、つい先ほどまで疲労で張り詰めていた表情が少しずつ和らいでいた。

古びた机も、傷んだ壁も、手元の銃も、何一つ変わってはいない。だが、音楽に耳を傾けている間だけは、彼らの心が戦場を離れていくように思えた。

故郷を思い出す者もいれば、戦争が始まる前の穏やかな日々に帰る者もいるのだろう。一人ひとりに、思い浮かべる景色や時間があるはずだ。

音楽には、人を救う力があるのかもしれない。

演奏を続けながら、エリオスはそう思った。失われたものをほんの一瞬でも取り戻す力が。

自分の手から生まれた音が、今、この場所で誰かに届いている。完璧な響きにはほど遠くても、兵士たちはただ一心に聴いていた。



しかし現実は無情だった。


翌日、その建物は砲撃を受けた。

爆音とともに足元の地面が揺れ、エリオスは咄嗟に身を伏せると目の前のピアノの下へ潜り込んだ。

次の瞬間、爆風が建物を呑み込む。壁が崩れ、破片が飛び散り、昨夜は旋律に満たされていた空間が轟音に押し潰されていった。


ピアノも無惨に破壊されたが、その脚の間でエリオスはかろうじて生きていた。

砲撃がやみ、身体を動かした途端鋭い痛みが走ったが、それでも仲間の姿を探した。

昨夜この場所で演奏を聴いていた者たち。ピアノの音に耳を傾け、穏やかな顔を見せていた彼らの多くが今はもう息をしていない。

つい昨夜まで笑っていた顔に呼びかけても、何の反応も返ってこなかった。

それでも助けようとするエリオスの思いに、傷ついた身体は次第についてこなくなる。爆炎が迫るなか、目の前の光景が少しずつ暗くなっていった。


意識を失う直前、耳の奥で二つの音が重なった。

昨日自分が奏でた旋律と、それを覆うように戦場に響く砲撃音。

どちらも消えないまま、エリオスの意識は途切れた。



重傷を負ったエリオスは野戦病院へ運び込まれた。

慌ただしく人が行き交うなか、医師の一人が彼の身分証を確認している。その背後に白衣姿の看護師が現れた。

カーリー。

周囲が慌ただしく動き続けるなか、彼女は冷静なまなざしを傷ついたエリオスに向けていた。

二人が出会ったのは、そんな場所だった。

挿絵付き小説アプリ『BLACKWOOD』では、第100話まで挿絵付きで公開中です。

小説家になろうでは、挿絵なしの本文版を週1回更新する予定です。

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