第1話 ブラックウッド伯爵家
深い霧の奥で、その館は夜明けを迎えようとしていた。
黒い森を背に、巨大な石造りの建物が冷えた空気の中に沈んでいる。白い霧は前庭を這い、温室も遠くの天文台も輪郭を曖昧にしていた。湖面にはかすかな波が揺れ、先祖たちの眠る墓地にはまだ朝の光が届いていない。
幾世代もの時を重ねてきた一族の名をこの場所は今も宿している。
ブラックウッドの館。
その朝、館の使用人たちは太陽が姿を見せる前から動き始めていた。
長く閉ざされていた部屋の窓が次々と開けられ、新しい空気が流れ込む。磨き上げられた床には灯りが映り、廊下を行き交う足音はそれぞれの持ち場へ散っていった。
今日、この館へ帰ってくる人物を迎えるために。
玄関ホールの大時計の前で、緋色の長い髪を整えた女性が時刻を確かめていた。ブラックウッド家の家政婦長、スカーレットだ。
文字盤から目を離すと、磨かれた床と飾られた花を順に確かめ、最後に正面の扉へ目を向ける。
足りないものはない。主人を迎える準備は整っている。
それでも彼女は気づけばまた時計を見上げていた。
若き後継者の帰還を家政婦長として迎える。その日をどれほど待ち望んできただろう。
森の入口で巨大な鉄門が開き、一台の車が霧の中へ滑り込んでいく。
私道の両側には深い森が続き、窓の外を流れる木々に遮られて、館の姿はまだ見えない。
エリオスは無言でその景色を眺めていた。やがて木々の間隔が広がり、白い霧の向こうから石壁が姿を現す。見慣れた館の輪郭が少しずつ視界を満たしていった。
ああ、ここだ。
かつてここを離れた時にはまだ見ぬ未来を思うだけで胸が弾んだ。目の前に延びる道は自分の望む場所へ続いている。そう信じて館を後にした。
そして今、その道を戻ってきた。
景色は懐かしい。それなのに帰ってきたという喜びは湧いてこない。
窓の向こうを見つめる今の自分と、希望を抱いてこの館を離れた頃の自分。その間には戦場で過ごした時間が重く横たわっていた。
車が玄関前で止まり、ドアが開く。
エリオスが体を起こしてゆっくり外へ降りると、地面に足をついた瞬間、戦場で負った傷が鈍く疼いた。帰ってきても体に残ったものまで消えるわけではない。
顔を上げると、見上げ慣れた石壁と、かつて何度も出入りした玄関がそこにあった。
帰ってきたのだ。
そう思ってもすぐには足が前へ出ない。長い不在は終わった。だが、ここへ戻ったからこそ向き合わなければならないものがある。
スカーレットは館を見上げるエリオスを見つめていた。やがて深々と頭を下げ、待ち続けた言葉を口にした。
「お帰りなさいませ、エリオス様」
懐かしい聞き慣れた声だった。それでも、エリオスがその言葉を受け止めるまでには少し時間がかかった。彼女の向こうにある扉へ目を向け、ようやく足を踏み出す。
扉の先には大きな吹き抜けのホールが広がっていた。階段も、磨き上げられた床も、壁に並ぶ歴代当主たちの肖像画も、以前と変わらずそこにあった。
館の中は静かだった。
エリオスは周囲を見渡しながら、石壁や階段に自分の知らずにいた一族の年月が染み込んでいるように感じた。幼い頃には意識もしなかったその重みの中に、家族と過ごした時間も確かに残っている。
もう戻ることのできない日々が蘇る。
*
庭園を駆け回っていた幼い頃、館にはいつも優しい使用人たちの姿があった。
伯爵家の後継者として生まれ、何不自由なく育った。けれど幼いエリオスを夢中にさせたのは、爵位でも家柄でもなく、音楽――ピアノだった。
鍵盤に触れると指の下から音が生まれた。一音に次の音を重ねれば、それが旋律になって部屋を満たしていく。自分の小さな手でそんなことが出来るのが嬉しかった。
音楽室の大きな窓から差し込む光の中で、エリオスは夢中で鍵盤を追った。母はいつもそのそばで聴いていた。
弾きながら顔を上げると母が嬉しそうに微笑んでくれた。その顔を見るとまた次の音を奏でたくなる。鍵盤へ目を戻したエリオスは音を重ねる喜びの中へ戻っていった。
あの部屋には、いつも穏やかな時間が流れていた。
だが、幼い心に影を落とす出来事が起きた。
ある日エリオスは、普段は立ち入りを禁じられている場所へ足を踏み入れた。
三階の薄暗い廊下。見慣れない石壁の先にはいくつもの部屋が続いている。
何があるのだろう。
好奇心に押されるまま少年は奥へ進んだ。一つ部屋を見ればその先も知りたくなった。次の部屋へ、さらに廊下の奥へと歩くうち、禁じられた場所にいることもしばらく頭から消えていた。
その時、暗がりで小さな影が動いた。
ネズミだった。
驚いて上げた声が静かな廊下に響き渡る。その声を聞きつけた父が現れると、先ほどまで夢中になっていた気持ちは一瞬で冷えた。
父の厳しい目が後継者である自分に向けられる。
その日、白い肌に残った赤い跡。そしてそれを見た母の涙。
母は悲しみに震えていた。彼女にとってエリオスは家を継ぐためだけの子供ではない。傷つけられた、愛する息子だった。
音楽室で微笑んでいた母の顔も、その日の涙も、エリオスの中に深く残った。
時が流れ、鍵盤に置く手も大きくなった。
背が伸び少年の面影が薄れていくにつれ、美しい容姿と音楽の才能は多くの人を惹きつけるようになっていった。
しかしそれと同時に父との距離は開いていった。
「後継者として真剣に取り組め」
父が何を求めているのかは分かっていたが、エリオスは抗い続けた。二人の間で交わされる言葉は次第に減っていく。
やがて母が病に倒れると、静かな廊下を時折その咳だけが伝わってくるようになった。かつて温かだった館は、同じ姿のまま重い沈黙に包まれていった。
エリオスはその沈黙を紛らわせるようにひたすらピアノへ向かった。
鍵盤を見つめ指を動かす。次の音、その次の音を追っている間だけは父との隔たりも館に漂う重苦しさも忘れていられた。
やがて成長したエリオスは館を離れた。
家督を継ぐ道ではなく音楽の道を選んだのだ。生まれた時から決められていた人生を、自分の意思で選び直すために。
その道がやがて自分をどこへ連れていくのか。
この時のエリオスにはまだ知る由もなかった。
*
館へ帰ったその日の深夜。エリオスはベッドの上で眠れずにいた。
外では風がザワザワと木々を揺らしている。耳を澄ませても聞こえるのはその音だけだった。そこには砲撃も叫び声もない。
自分はもう、戦場にはいない。
そう分かっているのに、目を閉じるとあの光景ーー砲撃と、動かなくなった仲間たちの姿が蘇った。
エリオスはベッドから体を起こした。柔らかな夜着に包まれた身体は思うように動かない。負傷した足をかばいながら立ち上がり、壁に手を添えて部屋を出た。
昼間は使用人たちが行き交っていた廊下にも、今は誰もいない。足を引きずり、わずかに残された照明の下を音楽室へ向かって進んだ。
扉を開けるとピアノは変わらずそこにあった。
幼い頃から何度も触れてきた楽器。館を離れ世界中の舞台で演奏するようになってからも、エリオスにとって音楽の始まりはいつもこの場所にあった。
ピアノのそばへ寄ると、蓋に薄く埃が積もっているのが見えた。手でそっと払い、蓋を開けると白と黒の鍵盤が姿を現した。
どこへ指を置けばどんな音が鳴るのか。
考えるより先に身体が知っているはずだった。何千回も、何万回も繰り返してきたのだから。
エリオスは鍵盤へ手を伸ばした。
指先が震えていた。見慣れた鍵盤の上に置こうとしてもその震えは収まらない。
指が触れ、音が鳴る。
続く音は分かっていた。けれど、そこへ移ろうとする指が思うように動かない。旋律は繋がらず、途切れた音だけが広い部屋に残った。
もう一つ音を重ねてみても、響いたのは不協和音だった。かつては意識するまでもなく繋がっていたものが、指の下でばらばらに崩れていく。
エリオスは黙ってその音を聞いていた。まるで第三者のように自分の手元を傍観するもう一人の自分がいた。
幼い頃も、父と分かり合えなくなってからも、鍵盤に向かえばほかのことは忘れていられた。音を追っている間だけは苦しさから離れることが出来た。
だが今、その音が聞かせるのは自分の失ったものばかり。
大きく響いた音に驚いたのか、窓の外で蝙蝠が一斉に飛び立ち、激しい羽音が夜の静寂を乱す。
その時、館のどこかで大時計が鳴った。
低く、重い鐘の音。それが耳の奥へ響くうちに別の音へと変わっていく。
砲撃。爆発。そして、叫び声。
目の前にあるはずの鍵盤にあの日の戦場が重なる。
エリオスは目を閉じて手を止めた。
しばらく鍵盤の上に指を置いたままでいたが、やがて手を引き、蓋を閉じる。
音は、それきり生まれなかった。
同じ頃、グラディオスは三階の廊下をひとりで歩いていた。
伯爵の書斎の前で足を止める。封じられた重厚な扉は、長い間誰にも開かれていなかった。
その扉を見つめているうちに、いつもは冷静な表情がわずかに揺らいだ。
グラディオスはポケットへ手を入れた。指先が一通の封筒に触れる。
確かに、そこにある。
その存在を確かめながらしばらくの間扉の前に立っていたが、やがてポケットから手を抜くと、再び廊下を引き返す。
後には、閉ざされた扉だけが残った。
ポケットの中の封筒も、館に残された過去も、まだ何も語らない。
しかしエリオスが館へ戻ったその日、ブラックウッド家の新たな歴史は静かに動き始めていた。
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本作は第10話までまとめて公開し、第11話以降は週1回更新する予定です。
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