第10話 新しい住人
日付が変わってずいぶん経った頃、最後の客がようやくブラックウッドの館をあとにした。
玄関ホールではシャンデリアがまだ淡く輝いている。数時間前まで館を満たしていた音楽も笑い声も途絶え、広い空間には夜の静けさが戻っていた。
舞踏会は成功した。
思いがけず伯爵という立場を背負い、体調も万全ではない中、エリオスは最後まで笑顔で客を迎えた。爵位継承を披露する大きな役目を無事に果たしたのだ。
ダイニングルームには正装を脱いでシャワーを済ませたエリオスたち四人が集まっていた。華やかな衣装も仮面もなく、ようやく普段の姿に戻っている。人々の注目を集めていた時の緊張が解け、皆くつろいだ様子だった。
スカーレットがエリオスへ笑いかけた。
「本当にお疲れ様でした。伯爵様」
改まった呼び方に、エリオスは少し照れたように笑った。
「君こそだよ、スカーレット」
準備から招待客への対応まで、彼女がどれほど心を砕いてくれたか知っている。自分が今夜の役目を終えられたのも、その働きがあってこそだった。
エリオスは改めて皆に向き直った。
「爵位は継いだけれど、みんなはぼくの家族だ」
グラディオスとスカーレットが彼の言葉に耳を傾けている。エリオスは二人へ続けた。
「君たちはこれからも、どうかエリオスと呼んでくれないか」
二人の目元が和らいだ。
幼い頃から自分を知り、一度は家を出た自分を再び迎えてくれた人たちだ。当主になったからといって彼らとの間に距離ができることを望んではいない。
これからも、彼らと同じ場所にいたかった。
「それにしても……」
エリオスは椅子の背にもたれた。
「国王があんな、なんていうか……パリピだとは思わなかったよ」
舞踏会の間、国王は知人の女性を見つけるたびに顔を近づけ、親しげに声をかけていた。王妃の目も気にならないらしい。その王妃は早々に帰宅し、国王も途中から若い女性を伴ってサービスルームへ消えたという。
スカーレットは苦笑した。
「国王陛下が女性関係に緩く、パーティ好きであることは有名です」
「そうなんだ」
「今の王妃様は三人目の奥様ですよ。お二人目など、結婚生活は半年足らずだったとか」
エリオスは呆れたように笑った。派手な登場にもあの気安さにも納得はいくが、思い描いていた王の姿とはずいぶん違う。
そこでふと、握手を交わした時のことがよみがえった。耳元へ寄せられた、周囲には聞こえない声。
――期待しているよ。
「そういえば。国王に挨拶した時、耳打ちされたんだ。期待しているよって」
改めて口にしてみても、その意図は分からない。
「ブラックウッドは昔から王家と関係が深い由緒ある家門ではあるけど……実際に深く関わるような関係があったのは、何代も前の話だろう?」
エリオスは首を傾げた。王家との古い繋がりを考えても、国王が今の自分に何を望むのか思い当たらなかった。
「こんな田舎伯爵に何を期待しているんだろう」
その時、グラディオスとスカーレットが目を合わせた。
ごく短いやり取りだったが、二人の表情からはそれまでのくつろいだ気配が消えていた。考え込んでいるエリオスは気づかなかったものの、カーリーはその変化を見逃さなかった。
「エリオス様」
グラディオスの声はいつもと同じく穏やかだった。ただ、親しい席で名を呼ぶだけではない、長く抱えてきた務めに向き合う覚悟が感じられた。
「爵位継承とともに、お父上の遺言についてお伝えする時が来ました」
エリオスは眉をひそめた。
「遺言……?」
カーリーもグラディオスの話に耳を傾けた。
遺産相続に関する手続きなら、正式な遺言に基づいてすでに済んでいる。だが、帰館した時に聞かされたことをエリオスは思い出していた。先代伯爵からまだ伝えられていないことがある。正式に爵位を継ぐまでは明かせないと、グラディオスは言っていたのだ。
「ブラックウッド家に仕える者として、先代伯爵様より私は遺言をお預かりしております。爵位を継承した者にお渡しするように、との言付けでございます」
エリオスは相手を見つめたまま、話を受け止めていた。爵位を継ぐと決めたことで、父の残した言葉をようやく聞ける。それが何なのか、今はグラディオスの説明を聞くほかない。
「エリオス様は正式に爵位を継承なさいましたので、私にはその遺言をお伝えする義務がございます」
グラディオスは椅子から立ち上がった。
「お疲れのところ申し訳ございませんが、ついてきていただけますか。エリオス様」
エリオスはしばらくその顔を見ていたが、やがて表情を変えずに椅子を引いた。
「分かった」
立ち上がった胸の内では、不安と期待が入り混じっていた。
父が残したもの、自分に伝えたかったこと。それは何なのだろう。もう直接尋ねることのできない相手の言葉が、これから明かされる。
エリオスはグラディオスと共に、ダイニングルームを出ていった。
二人が出ていくと、スカーレットは肩の力を抜いて息をついた。客を迎え、送り出すまで気を張っていた疲れがようやく表に出たようだった。
「私たちはもう休みましょう。カーリー。もう疲れたでしょう」
カーリーは首を横に振った。
「いえ、私はほとんど休んでおりましたので。スカーレットこそ、休んでください」
その気遣いにスカーレットは笑ったが、ふと二人の去った扉へ目をやった。口元に笑みを残したまま表情には心配の色がかすめる。
「そうね。クタクタだわ」
扉から目を戻すと、いつもの柔らかな笑顔でカーリーに告げた。
「明日からは片付けね。休みましょう。おやすみ。良い夢を」
スカーレットは自室へ向かった。
その足音が廊下へ遠ざかっても、カーリーはダイニングルームの席を立たなかった。一人になった部屋で、何を考えているとも読み取れない顔のまましばらく座っていた。
一方、グラディオスとエリオスは館の三階へ上がる階段を登っていた。
幼い頃から暮らしていても、この館には知らない場所が多かった。後継者として教育を受けながら、父の許しがなければ足を踏み入れられない区画がいくつもあったのだ。
帰館してからもしばらくは車椅子や松葉杖に頼っていたため、普段人の立ち入らない三階まで見て回る機会はなかった。
階段を上りきり、グラディオスの進む先を見て、エリオスは行き先に気づいた。
父から立ち入りを固く禁じられていた廊下だ。
薄暗い廊下を先導するグラディオスは、足を止めずに奥へ進んでいく。かつては近づくことさえ許されなかった場所へ、今は当主として案内されている。その後に続きながら、エリオスは不思議な感覚を味わっていた。
やがて、重厚な黒い扉の前で二人は立ち止まった。
扉には立派な装飾が施されている。グラディオスはポケットから黒い封筒を取り出し、中に収めていた鍵を手に取った。
「この部屋は、先代伯爵様の……」
そこでいったん言葉を切り、言い直す。
「いえ、代々伯爵家当主様とその忠実な家臣だけが使用する特別な書斎でございます」
鍵を回す音が廊下に響いた。
グラディオスが古い扉を押し開くと、長く人の出入りのなかった部屋の空気が流れてきた。館のほかの部屋とは、どこか違う。先代伯爵が最後に使った時から、ここだけは時が進んでいないようだった。
エリオスは敷居を越えた。
窓から差す月明かりが、薄暗い室内に家具の輪郭を浮かび上がらせている。
「ここが……」
子供の頃、父が三階で何をしているのか気になっていた。なぜこの区画だけが特別なのかも分からず、自分に何かを隠しているように感じたものだ。
今、その扉の内側に自分が立っている。エリオスは一つずつ部屋の様子を確かめた。
グラディオスは奥にある古いキャビネットの鍵を開け、さらに内部の金庫を開錠した。取り出したのは、表に伯爵家の家紋が押された黒い封筒だった。
「エリオス様。こちらが、先代伯爵様の遺言でございます」
差し出された封筒を受け取り、エリオスは封を開けた。中の紙を取り出し、折り目に沿って広げる。
読み進めるうちに眉が寄った。今読んだ文章の意味がつかめず、初めに戻ってもう一度辿る。そこに書かれているのは、単なる爵位継承の話ではなかった。
『ブラックウッド家の爵位を継ぐ者は、伯爵として自身の領地、居城の管理を行うと同時に、王命のもと国家の保安における特別任務を遂行する秘密警察組織の指揮官としての役割を持つ』
「これは一体、どういうことだ……」
エリオスはさらに読み進めた。
『伯爵家が担うのは、国王直轄の警察に帰属する特に難易度の高い任務に限る』
『組織の存在、任務内容、遂行結果については組織全員に秘匿義務がある』
『尚、伯爵にその王命を拒否する権限は無い』
最後まで読み終えても、エリオスは紙から目を離せずにいた。何度読み直しても書かれた内容は変わらない。
「……秘密警察?」
ようやく声にした問いは、自分でも驚くほど小さかった。
「はい」
グラディオスが頷くのを見て、幼い頃の記憶が次々と別の意味を持ち始めた。
父から受けさせられた剣術や武術、柔術、それに護身術の訓練。専門の教師がつくことも、幼い頃は当たり前に受け入れていた。
成長するにつれ、伯爵家の後継者にこれほどの訓練が必要なのかと疑問を抱くようになった。稽古に時間を取られ、ピアノを弾ける時間が減るのも不満だった。それでも「戦が絶えない時代だから」と言われ、訓練は続いた。
あれは、この役目を担わせるためのものだったのだ。
エリオスは遺言を手にしたまま息を吐いた。
爵位を継ぐとは、領地を守り、家を守ることだと思っていた。その責任を引き受けると決めたはずだった。
けれど、自分が受け継いだものは、想像していたよりもはるかに大きかった。
「エリオス様」
遺言書を手に立ち尽くすエリオスへ、グラディオスが呼びかけた。
「先代伯爵様は、このことを直接お話しになりたかったのです」
エリオスは紙から顔を上げた。
「遺言で知ることになれば、当然混乱してしまうでしょうから。何度もエリオス様と会わなければ、と仰っておられました。しかしそれが叶う前に、お亡くなりになった。直接お伝え出来なかった以上、この件は爵位を継承した方しか知ることは許されません。エリオス様へお伝えする順序として、私が非常に難しい立場であったことはご理解ください」
グラディオスを責めることはできない。彼もまた、父から託された役目に従ってきたのだ。
事情は分かる。けれど、それで目の前の事実を受け入れられるわけではなかった。
「混乱?ちょっと待ってくれ。考えていたより、ずっと厄介じゃないか!」
書斎に響いた自分の声に、エリオス自身が驚いた。
舞台でも戦場でも、そして今夜の舞踏会でも、冷静であることを求められてきた。緊張や不安を抱えていても、人前では笑顔を作ることができた。
だが今は、父が残した大きな責任を突きつけられ、途方に暮れている一人の息子だった。
「ご不安になるのは当然でございます」
グラディオスはエリオスの動揺を受け止めるように答えた。
「私とスカーレットは、先代伯爵様にお仕えしていたと同時に、秘密警察組織の一員でした」
エリオスの注意が、遺言書から目の前の執事長へ向いた。
「君たちも……?」
「はい。この館に最低限の人員しか置いていないことも、今回のパーティが仮面舞踏会であったことも、すべてこの役割に起因しております」
エリオスは改めて書斎を見渡した。
広大な館に置かれたわずかな人員も、長い歴史の中で続いてきた王家との繋がりも、この役割と無関係ではなかった。幼い頃には理解できなかった父の行動まで、少しずつ結びついていく。
「……だから父さんは、あれほど厳しかったのか」
父は自分の知らない未来に備えさせようとしていたのだ。
「ですが、エリオス様がすぐにすべてを理解される必要はございません。この役割は、長い年月このブラックウッド家に受け継がれてきたものです。先代伯爵様も、エリオス様に突然すべてを背負わせるおつもりではなかったでしょう」
父が生きていて、直接この話を聞けていたなら受け止め方も違ったかもしれない。
けれど、もう尋ねる相手はいない。残されたものを自分が受け止めるほかなかった。
「それに」
グラディオスは表情を和らげた。
「ブラックウッドの人間は、全力でエリオス様をお守りし、サポートいたします。エリオス様は指揮官として、徐々にそのお仕事に慣れていただければよいのです」
エリオスを宥めるように頭を下げる。
「ご安心ください」
そう告げたグラディオスには、まだ伝えることが残っていた。
「それから、誠に勝手ながら、既に一名、新たに秘密警察の一員として優秀な人材を呼び寄せております」
「……え?」
エリオスは聞き返した。今の話には、自分の理解を追い越している部分がある。
「国営機関の人間です」
グラディオスは説明を足したが、エリオスが引っかかったのは所属の話ではなかった。
「……グラディオス」
「はい」
「今、なんて言った?」
「優秀な人材を呼び寄せております、と」
「そこじゃない」
エリオスは額に手を当てた。少しずつ仕事に慣れればよいと言われたばかりなのに、こちらが役割を知る前から準備は進んでいたらしい。
「もう呼んだの?」
「はい」
エリオスはそのまま、しばらく返す言葉を探した。
重大な任務に優秀な人材が必要なのは分かる。だが、自分にとっては組織の存在も、その指揮を執るという話も、全て今初めて聞かされたことなのだ。
非難を込めて見つめても、グラディオスはいつもの穏やかな表情を崩さなかった。
エリオスとの話を終え、グラディオスは夜更けの館内を一人で歩いていた。
各部屋の明かりを一つずつ消して回り、最後に玄関ホールに飾られた先代伯爵の肖像画の前で足を止める。
長年仕えてきた主人の顔を見上げた。
託された息子が、今夜その役目を引き継いだ。責任は重い。それでも、幼い頃から見守ってきたエリオスを何としても支える覚悟は変わらなかった。
その時、玄関のベルが鳴った。
普通なら誰かが訪ねてくる時刻ではない。
グラディオスが玄関へ向かい、重い扉を開く。そこには眼鏡をかけた一人の青年が立っていた。
眼鏡越しに少し上目遣いでこちらを見て、どこかお調子者のような笑顔を浮かべている。
「夜分にすみません」
青年は軽く頭を下げた。
「パーティは流石にもう終わってますよね」
困ったように笑い、遅れた事情を付け加える。
「恐ろしく道が混んでて」
グラディオスはその青年を見て微笑んだ。
〈第一章END 第二章へ続く〉
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