第八話 灰狼を知る者たち
グランヘイムの黒雲を突く断崖の頂、帝国皇城。
その最上階にある巨大なアーチ窓の傍らから、一人の男が眼下を見下ろしていた。
夜の闇を溶かし込んだような漆黒の織地に、無駄な装飾を削ぎ落とした燻んだ金の箔打ち。
皇帝の身でありながら、豪華絢爛な礼装ではなく、かつて自ら血煙の渦に立った者だけが纏う実戦仕立ての軍服を選んでいる。
深く刻まれた眉間の皺と、鉄のごとき鋼色の髪。
帝国皇帝──ヴィルヘルム・フォン・グランツェ。
その身に刻まれたのは、玉座の年月ではない。かつて最前線で国境を守った、一人の軍人としての時間だった。
広場に聳える高塔には、漆黒の地に両翼を広げた巨鷲を描く帝国旗が寒風を受けて羽ばたいている。
その正門をくぐる一台の黒塗りの馬車を、皇帝は静かな眼光で見届けていた。
◇
馬車を降りたカイウス・ヴェルナーを迎えたのは、石畳を踏み鳴らす重厚な足音だった。
「……あの男は、生きていたのか」
声をかけたのは、帝国近衛総隊長ヴァルター・エルンスト。
一九〇センチに及ぶ大柄な体躯。白髪交じりの短髪に、幾多の死線の傷痕。豪奢な飾りを排した実戦用の鎧を纏う、帝国最高峰の武人。
カイウスは整った動作で細い眼鏡のフチを静かに押し上げ、感情を削ぎ落とした声で応じた。
「健在でした」
「……そうか」
ヴァルターはそれ以上問わず、無駄のない足取りで並んで歩き出した。
ただその足取りは、戦場と同じ重心を保っていた。
◇
帝国最高決定機関──『黒鷲の間』。
重厚な黒檀の円卓を囲むのは、わずか五人。
アステリアより全権使節として帰還したカイウスの報告が終わり、室内に重い沈黙が降り立った。
アステリアはマティアス・アッシュの引き渡しを拒否した。
最初に口を開いたのは、帝国宰相アルベルト・グランディス。
白髪混じりの黒髪に簡素な黒衣。銀の指輪が光る指先で書類を手に取り目を通すと、静かに紅茶の杯を置いた。
「若い女王だ……だからこそ、国家の利害ではなく人を選んだか。国家の判断として見れば危うい選択だが、民はそういう王を二度と忘れない」
ヴァルターが分厚い拳を机上で強く握りしめながら、間を置かずに切り出した。
「第三、第五軍を即刻国境へ進発させるべきでは。陛下のご判断を仰ぎたく存じます」
「奴が敵陣にいるというだけで、戦場の常識がすべて覆る。兵士は恐怖を忘れ、指揮官は迷うことなく死地を踏む……戦場におけるあの男の価値を、数字や兵力差で測るような真似は命取りになる」
「ですが、灰狼一人を理由に国境軍を動かすのは危険ではありませんか」
帝国情報局長リディア・ヴァレンティアが資料から目を上げた。
黒いドレスコートに身を包み、手元の暗号資料に静かに視線を走らせている。
「現在、帝国とアステリアの戦力差は単純な魔力量では測れません」
ヴァルターが鼻で笑うが、リディアは冷徹な眼差しでヴァルターを見返した。
「魔法だけで戦争が決まるなら、百年前に帝国は滅んでいる」
「ええ。帝国軍が百年かけて理解したのは、大魔法を受け止める術ではありません。補給線を断ち、観測役を狙い……魔法が成立する『前提』そのものを破壊する術です。百人の魔導士がいても、魔法を撃てる状況を作らせなければ意味はない」
カイウスが静かに眼鏡のフチを上げる。
「完成する前に潰す……それが帝国の対魔戦術ですね」
「ええ。ただし……システムを解体する前に魔導士の暴威を許せば、こちらの陣形は一瞬で崩壊する。少数の精鋭による短期決戦に依存せざるを得ないのが、帝国軍の限界でもあります」
リディアは資料を指先で軽く叩いた。
「そして灰狼マティアスは、帝国軍が百年かけて築き上げたその対魔戦術を、最前線で完成させ、進化させた張本人です」
室内の空気に、一段と深い緊張が走る。
「どの瞬間に帝国軍が攻勢へ移り、どの部隊を潰せば我々の戦線が崩壊するのか……彼はその戦術の強さも、崩すための一点の綻びも知り尽くしているのです」
最奥の座から、かすかな衣擦れの音が響いた。
皇帝ヴィルヘルムは腕を組んだまま微動だにせず、ただ鋼色の眼光だけで室内を平伏させている。
彼が一切の口を挟まないこと──その重々しい沈黙こそが、会議の緊迫感を何よりも物語っていた。
「続けろ」
短く落とされた皇帝の一言を受け、リディアは深く一礼して言葉を継いだ。
「我が情報局が真に恐れているのは、アステリアに伝わる『真偽眼』の真の能力についての仮説です」
アルベルト宰相が静かに視線を向けた。
「仮説だと?」
「我が局がそう結論づけた理由は、一つしかありません」
リディアは黒いファイルを開いた。
「先代アステリア王妃が殺害された理由を考えるならば……十七年前よりさらに前。幼き王女の『誘拐作戦』に行き着きます」
「あの作戦は最高機密でした。幼い王女を奪い、降伏を迫る。それだけが目的だった……ですが実行直後、まるで、我々がまだ選択していない行動すら、すでに把握していたかのように何者かが王女を助けた」
ヴァルターが不審そうに眉をひそめる。
「内通者がいたのでは?」
「当時、我が軍の諜報員が潜入しておりましたが、作戦書を閲覧できたのは極一部のみ。漏洩の形跡は皆無です……だからこそ、当時の帝国軍部は一つの仮説を立てました」
「王妃は、我々の作戦を知っていたのではない。我々がいずれ選ぶ『未来』を、先に見ていたのではないか、と」
「そして……」
「十七年前、王妃は我々帝国に殺されたのではありません。しかし……帝国の内部にいた誰かが、彼女の力を利用し、結果として死へ追いやった可能性は否定できません」
アルベルト宰相が静かに杯を弄びながら深く息を吐き出し、遠い目をした。
「未来を読む者に対して、従来の戦術は通用しない……か」
「……思えば、あの男は若い頃から奇妙なことを言っていた」
「奇妙なこと?」
「敵国と戦いながら、いつか両国が刃を置く日が来る、と。いつか両国が剣を置くための『協定』を結ぶべきだ、とね」
ヴァルターが吐き捨てるように鼻で笑った。
「敵国との協定など、敗北者の言い訳だ。戦場で剣を振るいながら言う台詞ではない」
「当時の私も戯言だと思っていました。ですが……今なら分かる。灰狼は、戦争に勝つ方法ではなく、戦争そのものを終わらせる方法を考えていた」
話の隙間を見計らい、リディアが静かにカイウスへ視線を移した。
「だからこそ……十七年前の件、そして消息を絶ったオスカー・ベルクマンについて追う必要があります。アステリアの地で何か痕跡を掴めましたか」
カイウスは指一つ動かさず答えた。
「いいえ。公式記録からは痕跡ごと抹消されていました……ですが、地下深くの秘匿資料室に遺された書状の余白には、意図的に削り落とされた不自然な痕跡が存在しました」
「十七年前の事件で不可解だったのは、火災そのものではありません」
リディアは静かに資料を閉じた。
「王都地下施設の火災は事故として処理されていますが、避難経路は閉鎖され、重要資料だけが焼却され、研究員たちは『自分の意思で選んだ』と証言しています」
円卓の全員がリディアを見る。
「我々が正義の歴史として残した十七年前の真実そのものが、誰かによって作られた可能性があります。そして、その可能性に最初に触れた存在こそ……先代王妃だった」
沈黙が室内を深く支配する。会話が途切れ、全員の視線が自然と最奥の玉座へと吸い寄せられていく。
これまで静観していた帝国皇帝ヴィルヘルムが、ゆっくりと身を起こした。
その身から放たれる圧倒的な威圧感が、一瞬で室内の空気を塗り替える。
「カイウス」
「……あの男は、何を選んだ」
「……帝国ではありません。ですが、アステリアのために我々に刃を向けるわけでもありません」
沈黙の後──皇帝の厳めしい口元が、微かに歪んだ。
「……帝国は奴という最強の刃を育てた。だが、その刃が何を斬るべきかを教えなかった」
ヴィルヘルムは重々しく立ち上がり、黒いマントを静かに翻した。
「ヴァルター、リディア」
「我が推論が正しく、アステリアの新女王が王妃と同じ眼を継いでいるなら──未来に存在する『たった一つの突破口』を選び取ってくる」
皇帝の鋼色の眼光が、冷徹に光る。
「ならば、その突破口すらも罠に変えろ。敵に突破口を選ばせ、進ませろ。未来を視る者を想定した包囲陣を構築せよ。未来を読まれた上で……なお敗北する未来しか存在しない戦場を作れ」
「……御意」
「全軍に通達せよ。国境の警戒レベルを一段引き上げ、全師団に再編命令を出せ……覚悟なき国家から順に潰れる」
円卓の重鎮全員が深々と頭を下げ、その決定を黙諾した。
◇
会議が果て、重鎮たちがそれぞれの執務へと立ち去っていった後も、カイウスだけが静まり返った『黒鷲の間』に留まっていた。
窓の外では夕闇が迫り、赤黒く染まる帝都の街並みの向こう、遥か南のアステリアの空が薄暗い影に包まれている。
カイウスは胸元の内ポケットに手を入れ、角がすり減り、刻印も薄れかけた一枚の金属片を取り出した──「帝国軍認識票」。
表面には自身の識別番号と、その隣に、かつて同じ特殊部隊で背中を預け合った男の識別番号が刻まれている。
(……マティアス。お前は昔から、誰も選ばない一番茨の道ばかりを歩く)
カイウスは指先で金属の冷たさを噛みしめるように確かめ、静かに瞼を伏せた。
(……だから、分かる。お前が帝国を捨てて裏切ったのではない……ただ、己の選んだ道を歩いているだけだ)
認識票を胸の奥深くへと静かに収め直す。
城塞の窓の外では、寒冷な風を受け、漆黒の鷲を描いた帝国旗が重々しい音を立ててたなびいていた。
(第一章 完)




