第九話 黒き焔の記憶
女王になった日から、ラウラは一つの疑問を胸の奥に封じることができずにいた。
──なぜこの国は、これほど多くの謎で覆われているのか。
王城最上階にある女王の私室。
誰も訪れることのない夜の静寂の中で、ラウラは一人、窓辺に立っていた。
冷たい月明かりが、細い銀の髪を静かに照らし出している。
即位の儀の日。
平伏する貴族たちが伏せた視線の奥にあったものを、ラウラは今も忘れていない。
期待ではない。不安でもない。
──無力な王への、あからさまな失望だった。
「戦えない女王」
「攻撃魔法の適性すら持たぬ、先代の血を継いだだけの王」
そんな陰で囁かれる蔑みを、ラウラは聞こえないふりをして耐え続けてきた。
眼下に広がる静まり返った王都の灯火。
かつて炎に包まれ、多くの命が失われた街は、今では何事もなかったかのように平和な夜を迎えている。
しかし、その光景を見つめるたび、ラウラの胸には消えることのない違和感が蘇っていた。
(あの十七年前の炎によって、多くのものが失われた……魔法大国の王都に燃え広がった炎は、本当に事故だったのか──それとも、炎の中に隠された真実があるのだろうか)
ラウラは頭の髪飾りに嵌入された、白耀石へと静かにその指先で触れた。
月光が灰青に濁る中、銀光に照らされたその魔石だけが、微かな澄んだ光を宿している。
父王から遺された、唯一の母の形見。
そして、記憶を失った侍女セレスが、マティアスと対面した際に見せたあの不自然な眼差し。
「顔が浮かぶ」「知っている気がする」というセレスの言葉に、偽りはなかった。
(セレス……あなたは一体、あの日の炎の中で何を見たというの)
真相を追い求めるならば、ただ裁くべき仇として牢に繋いだ男──マティアス・アッシュを問いただすだけでは足りない。
彼が背負う過去の暗雲を、自らの意思で暴き出さねばならなかった。
ラウラは瞳に決意の宿った冷たい光を湛えると、机の上に置かれた呼び鈴へ静かに手を伸ばした。
数分後、扉の外から控えめな声が響く。
「……陛下。お呼びでしょうか」
一歩も引かない眼差しで、ラウラは扉に向かい告げた。
「レイナルド。これから、十七年前の事件を調べに資料室へ行きます」
◇
地下へ降りるほど、空気は紙の匂いに沈んでいく。
王城深く、固く閉ざされた地下資料室の石壁は冷たく、灯りは揺れず、時間だけが薄く積もっていた。
王妃の死。
幼いセレスが事件後に記憶を失ったこと。
そして、灰狼マティアス・アッシュの言葉。
公に残された記録だけでは、あまりにも不自然な空白が多かった。
「まずは……王家に関する記録棚から調べましょう」
明るさはあるのに、暗さが消えない部屋の中、レイナルドが静かに頷く。
「承知しました、陛下。歴代国王の治世記録、外交文書、戦役記録などは、この辺りに十七年前の関連資料があるはずです」
ラウラは壁一面に並ぶ重厚な書架を見渡した。
棚の影は揺れず、空気は動かず、時間だけがゆっくり沈んでいた。
『王家年代記』
『歴代君主記録』
『王国外交記録』
『帝国戦争史』
『魔法技術発展記録』
『貴族家系図』
『王都災害記録』
膨大な数の羊皮紙や製本された記録が、幾重にも整然と並んでいる。
その中で、一番奥の段に置かれた『王都災害記録』 を手に取り、具に確認する。
しかし──。
「……それらしい記述は、見当たりませんね」
ラウラは棚の前で足を止め、小さく呟いた。
十七年前の事件に直接触れる資料だけが、奇妙なほど少ない。
王都が焼かれ、王妃が命を落とした大事件だというのに、残されているのは表面的な損害報告と形式的な事後処理の記録ばかりだった。
ラウラは手にした記録を静かに棚へ戻した。
だが、その瞳に焦りはなかった。 むしろ、落胆を通り越して疑問が確信へと変わっていく。
これだけ探して見つからないなら、存在しないのではない。
「王家の歴史」から意図的に外され、別の分類の影に追いやられているのだ。
ラウラは再び、暗がりの続く資料室の奥へと歩みを進める。
『王族教育記録』
『王宮建築記録』
『古代魔法研究資料』
『王家祭儀記録』
『失伝魔法記録』
『白耀石管理記録』
普段なら王位継承者が目を通すこともない資料群だった。
長い年月を経て、棚の端には薄く埃が積もり、触れれば指先に静かに崩れそうだった。
そこは資料室の最奥──。
分類名すら古く、今の記録体系ではほとんど使われなくなった区画。
『王家伝承・未整理資料』
傾いた札が、沈黙の中でかすかに揺れている。
「……未整理、なのですね」
ラウラの声は、驚きではなく、長く胸に沈めてきた疑念に触れたときの、かすかな痛みを含んでいた。
追いついたレイナルドが、棚を見渡しながら低く息を呑む。
「王宮資料室に、こんな区画が残っていたとは……ずっと、誰の目にも触れずに」
書籍背表紙の隙間に、一冊だけ周囲の黄ばんだ羊皮紙とは異なり、白く淡い光沢を湛えた本があった。
タイトルはなく、表紙には掠れて判別しづらくなった古代文字がひとつだけ刻まれている。
室内の照明、光魔法が紙肌を薄く照らす中、古い文字の縁だけがわずかに浮く。
光は暖かくも冷たくもなく、ただ静かに真実の影を照らしていた。
その瞬間──。
ラウラの髪飾りに嵌め込まれた王家の魔石、白耀石が、かすかに光を揺らした。
まるで、十七年前の炎の底に沈んだ真実が、「ここにある」と静かに告げるように。
ラウラはその光を見つめ、息をひとつだけ整えた。
「……レイナルド」
「はい」
「これを調べます。もう……知らないふりはできません」
ラウラは迷いのない手で白い本へと指を伸ばした。
そこに記されていたのは、王家に代々伝わるとされながら、今では失われた古き魔法についての、断片的な記録だった。
『王家の秘術は、一つの血にのみ宿るものではない』
『二つの系譜、その重なりによってのみ真なる形を成す』
『片翼のみでは、その力は眠り続ける』
『二つの系譜が重なる時、失われた秘術は再び目覚める』
『最後の完全発現より百二十七年──以後、継承記録なし』
ラウラはゆっくりと本を閉じかけ、その手を止めた。
「……王家の魔法は、正しく伝えられていない」
静かな声が、地下資料室の石壁に淡く落ちた。
歴代の記録をいくら読んでも、真偽眼は「偽りを見抜く眼」としか記されていない。
だが、この古い記録は、その前提を根底から覆していた。
"二つの系譜"
"片翼"
"失われた秘術"
現在の王家史には、一度も現れたことのない言葉ばかりだった。
胸の奥で、長く押し殺してきた思いがわずかに揺れた。
即位してから何度も突きつけられてきた現実──
自分には国を守る力が足りないのではないかという、静かな恐怖。
(もし……この秘術こそが、本来の王家の姿なのだとしたら)
(私にも、まだ知らない役目があるのだろうか)
ラウラは、切実な期待を押し隠すように息を整え、次の頁を開いた。
だが、指先が不自然な感触をとらえる。
ページの途中から先が、鋭利な刃物で削ぐように切り取られていた。
数枚ではない。魔法の核心に触れているであろう最も重要な部分だけが、意図的に失われている。
「……誰かが」
ラウラは小さく呟いた。
「消した……」
火で焼かれた痕跡もなく、風化でもない。
必要な箇所だけを明確な意図で切り落とした、あまりにも不自然な欠落。
そして、破り取られたページの端に、かろうじて残された最後の一文だけが判別できた。
『完全なる発現には、継承者自身の存在を懸ける』
ラウラは固く眉を寄せた。
「……存在を、懸ける……?」
触れても、その言葉の意味を確かめる術はどこにもない。
残された記述は、そこで途切れていた。
◇
この魔法は、ただ時の流れで失われたのではない。
誰かが隠したのだ。力の危険性ではなく、その力を継ぐ者が払う代償を恐れて。
「……ですが、陛下」
沈黙を割るように、レイナルドが慎重に口を開いた。
「この記録を隠した者が……帝国側とは限りません」
ラウラはゆっくり顔を上げる。
光魔法の灰白光が、彼女の瞳で揺れた。
「どういう意味ですか」
「王家の者である可能性もあります。あるいは──十七年前を知る誰かが……守るべき理由があって封じたのかもしれません」
ラウラは破り取られた頁へ静かに視線を戻した。
敵だけではない。
味方の中にも、真実を封じた者がいた。
父も母も、この秘密を自分へ伝えなかった理由は何なのか。
その答えは、まだどこにも見えない。
「……続きを、探してみましょう」
ラウラは本を閉じると、資料室のさらに奥へ歩き出した。
事件記録の棚。
戦時報告。
王宮警備日誌。
避難民名簿。
地下施設管理記録。
一冊、また一冊と目を通す。
どれも事実だけが並び、肝心な部分だけが抜け落ちている。
それは、古びた軍事記録だった──。
ラウラの足が止まる。
装丁は他と変わらない。だが、開いた瞬間、紙質が途中からわずかに変わっていた。
製本も、不自然に厚く、誰かが後から補修したような痕跡。
慎重にページをめくると、綴じ糸の内側へ折り込まれるように、一枚の古い羊皮紙が挟まれていた。
「これは……」
その光が触れた途端、資料室の空気がわずかに沈む。
二人は言葉を発することもできず、ただ紙面に刻まれた記録を見つめた。
『帝国特殊任務記録』
『任務名:王都地下施設救出作戦』
『任務結果:失敗』
『参加兵力:第三特殊部隊』
『指揮官:マティアス・アッシュ』
『救出対象:────』
最後の一行だけが、紙ごと深く削り取られていた。
刃が何度も往復した痕が残り、削れた文字の周囲には黒い魔力の残滓が
焦げ付いたように薄くこびりついている。
ラウラは指先を止めた。
そこに刻まれていたはずの“名”だけが、誰かの強い意志で世界から引き剥がされたのだと分かる。
地下資料室の空気が、ひとつ沈んだ。
ラウラは紙面から視線を離し、ゆっくりと顔を上げた。
瞳の奥には、迷いではなく、冷たい決意が宿っている。
「……レイナルド」
「マティアス・アッシュを、ここへ呼びなさい。今すぐです」
命令は静かだったが、拒む余地のない重さがあった。
「かしこまりました、陛下」
レイナルドは深く一礼し、重厚な扉へ歩み寄る。
わずかに隙間を開け、外の見張り兵へ低く告げた。
「灰狼殿を至急、地下資料室へ。遅れるな」
兵の短い返答が響き、足音が遠ざかっていく。
扉が閉じられ、沈殿した静寂が戻る。
ラウラは削り取られた一行を見つめ続けた。
黒い魔力の跡が、まるで“語ることを拒んだ名”の墓標のように沈んでいる。
「十七年前──王都で何が起きたのか、私は知らねばならない」
「そして……灰狼が、あの日の炎の中で何を見たのかも」
その言葉は、地下資料室の石壁に吸い込まれながら、
静かに、しかし確かに響いた。




