第六話 白銀の不死鳥
地下資料室を支配する煤の匂いの中、
羊皮紙をなぞるマティアスの指先が、削り落とされた文字の跡でかすかに引っかかった。
『帝国特殊任務記録』
『任務名:王都地下聖堂救出作戦』
『任務結果:失敗』
『参加兵力:第三特殊部隊』
『指揮官:マティアス・アッシュ』
『救出対象:────』
削り痕の深さを、指腹でたどる。
刃の走り方、押し潰された紙の繊維。かつてそこに何が刻まれていたのかを、彼の指先は記憶している。
「……今さら、手を入れたか」
吐息のような呟きを残し、マティアスは羊皮紙を元あった棚の隙間へ滑り込ませた。
今確認すべきは証拠の隠匿ではない。誰がこの十七年前の痕跡を掘り返し始めたのかだ。
暗がりへ背を向け、出入り口の影に佇むレイナルドの横を通り抜ける。
視線すら合わせぬまま、低い声を落とした。
「……レイナルド殿。この資料室には、普段どなたが出入りを?」
出入り口の影に佇むレイナルドが、静かに眉をひそめた。
「基本的には私と、限られた近衛のみです……何か?」
「足痕と、棚の埃の落ち方が不自然だ。直前に、誰かが入っている」
「削られた記録を探している者が、城内にいるようだ」
レイナルドは一瞬沈黙し、深く息を吐いた。
「……承知しました。警備を見直します」
一拍の間を置き、レイナルドは去りかけるマティアスの背中に言葉を継いだ。
「ですが、灰狼殿。この城で警戒すべきものは、外から来るものだけでしょうか」
マティアスが足を止め、振り返る。
その灰色の瞳を、レイナルドは真っ直ぐに見返した。
「……近衛として、申し上げただけです」
マティアスは何も返さず、そのまま階段を上り、地下から地上へと足を向けた。
◇
地上へ抜け出た瞬間、夜の冷気と湿った風がマティアスの頬を打つ。
アステリア王城の正門前広場。仰ぎ見れば、夜空に翻るのは王国旗だった。漆黒の夜に浮かび上がる白銀の不死鳥──炎の中から蘇る王国の象徴を、マティアスは静かに見上げた。
かつて自分が奪ったもの。
そして今度こそ、命を懸けて守るべきもの。
指先が、無意識に左胸の傷痕へ触れる。
あの日、アルヴェイン・アストレア王の胸を貫いた時の、重い手応え。絶命の寸前、血を吐きながら王が握りしめてきた手。そして掠れた声。
『……頼む……』
手元に残るその感覚を振り払うように、マティアスは踵を返した。
監視の近衛が立つ回廊へ足を踏み入れた、その瞬間。
頭上の空気が、わずかに歪んだ。
(……くっ!)
判断より速く、直感が身体を半歩滑らせる。
だが、不可視的高圧衝撃波はすべてを避け切れず、容赦なくマティアスの肩を捉えた。
重い打撃音──着ていた厚手の外套が引き裂かれ、黒い布切れが舞った。
衝撃が肩の骨まで鋭く響く。あと半歩遅ければ、心臓を貫かれていた。生々しい死の気配に、背筋へ冷たい汗が伝った。
間髪入れず、暗がりから放たれる第二波。マティアスは痛みを殺し、集束点だけを読んだ。
抜刀は半寸。白刃が空気を撫でる。金属音すら鳴らない。衝撃波は刃の腹で角度を変えられ、そのまま背後の石壁へと逸れ、音もなく斜めに裂ける。
「何事だ!?」
遠くから足音が響く。
剣を抜いたレイナルドが駆けつけてくる気配に、刺客は一瞬で夜の闇へと霧散していった。
「追います!」
マティアスは引き裂かれた外套を無造作に脱ぎ捨て、平坦な声で制した。
「……追う必要は、ありません」
「躊躇がない。目的は、私を消すことのようです」
「では、陛下へ報告しマティアス殿の周囲の護衛を……」
「……陛下への報告は不要です」
「万一、私の為に陛下の護衛が割かれるような事は、あってはならない」
レイナルドは一瞬だけ目を細めた。
そして深く、静かに息を吐き出す。
「……承知しました」
マティアスは背を向け、ラウラの寝室へと続く扉の前に佇んだ。
隙間から漏れ出る、僅かな燭台の明かり。
──なぜ、私の父を殺したのですか?
悲痛な問いが、暗闇の中で静かに響く。
マティアスは胸元に手を当て、深く、深く頭を下げた。
(……あの日、護るべきものを護れなかった)
(……二度と、同じ過ちは繰り返さない)
口に出すことのない決意を胸に秘め、灰狼は己のあてがわれた部屋へと姿を消した。
◇
静謐な謁見の間に、朝の澄んだ光が射し込んでいた。
王座の前で深々と礼を捧げるのは、帝国使節団の長カイウス。
その立ち姿には一分の隙もなく、大国の威厳と完璧な外交官としての礼節を纏っていた。帰国前の最後の謁見──だが、醸し出す雰囲気は最後通牒そのものだった。
「陛下。帝国の求めは、昨日お伝えした通りでございます」
カイウスの穏やかな声音には、煽りも嘲笑もない。だからこそ、逃げ場のない現実が押し寄せる。
ラウラは王座から静かに見下ろした。金色の瞳に力を込め、相手の真意を視通そうとする。
──真偽眼。
だが、カイウスの姿に焦点を結んだ瞬間、その輪郭が陽炎のように歪み、冷たい霧の中に霞んでいく。
真偽を見極める感覚が、手応えもなく霧散する。
ラウラは悟られないよう息を殺し、硬い声で問うた。
「カイウス殿。改めて確認いたします……帝国は真に、マティアス・アッシュの即時引き渡し『だけ』を望んでいるのですか」
カイウスは、一切表情を変えずに答えた。
「はい。我が皇帝陛下が望まれるのは、先代王殺害の実行犯たる罪人の処罰。それのみでございます」
真実か、偽りか。金色の瞳に映る輪郭が、また一つ崩れる。
見ようとしても、掴めない。そこにあるはずの答えだけが、指先から逃げていく。
王座の背もたれが、突然ひどく遠いものに感じられた。
その時、王座の斜め後ろに佇むマティアスが、静かに口を開いた。
「カイウス殿……私からも一つ問いたい」
マティアスの灰色の瞳が、カイウスを静かに射抜く。
「なぜ帝国の使者が、アステリア王国の王城内の動向や家臣の意思まで、そこまで詳細に把握しておられるのか」
カイウスは一切の動揺を見せず、洗練された動作で答えた。
「隣国の情勢を正しく把握することは、外交に携わる者として当然の嗜みにすぎません」
その返答に対しても、手応えはない。
自分の立つ場所が崩れ去っていくような感触。
だが、カイウスの輪郭は霧の中に沈んでいる。
その隣に立つ男だけは違った──。
マティアス・アッシュの姿は、金色の瞳の中で一切揺らがない。
「……陛下」
重々しい声とともに、四家老たちが前に進み出た。
今朝の謁見が最後であることを理解している彼らの表情には、切迫した色が浮かんでいる。
軍務の家老の声には国境の兵を思う重みがあった。
財務の家老は民の暮らしを案じ、外交の家老は戦を避ける道を探していた。
そして最後の老臣は、王家そのものの存続を胸に平伏している。
金色の瞳に映る彼らの姿にも、偽りの影がなかった。
全員が各自の立場から『正しい言葉』を口にしている。彼らの言葉には、国を思う真実が宿っていた。
全員の言葉が正しいからこそ、決められない。
何を捨て、何を選ぶべきなのか。ラウラの金色の瞳が、激しい葛藤に揺れた。
その時、マティアスが一歩前へ踏み出してきた。
「陛下。王とは、全てを見通す者ではありません」
低く、腹に響く声だった。
「見えないものを恐れ、剣を置く者でもない──見えぬなら、己が選んだ道を正しいものにする。それが王の務めです」
マティアスは感情の読めない灰色の瞳を、まっすぐにラウラへ向けた。
「……私は剣です。陛下が選んだ道に、敵が立ちはだかるなら斬る」
「ですが、剣を向ける先を決めるのは……王である陛下です」
父の遺言が、マティアスの言葉と重なる。
王とは、完璧な能力を持つ者ではない。重責を背負い、退かずに向き合い続ける覚悟を持つ者のことなのだと。
ラウラは一度だけ目を閉じ、深く息を吐き出した。
次に目を開いた時、金色の瞳から揺らぎは消えていた。
「カイウス殿」
ラウラの声が、静かに広間に響き渡る。
「アステリア王国は、マティアス・アッシュの身柄引き渡しに応じることはできません。これは最終決定事項だと捉えて頂いて構いません。我が国の法に基づき、我が国で裁きます」
カイウスは、静かに目を細めた。怒りも落胆も見せず、ただ威厳に満ちた礼を捧げる。
「……承知いたしました。それが、アステリア王国の意思とお受け止めいたします」
カイウスは立ち上がり、冷徹な一言を添えた。
「これより流れる多くの血は、すべて陛下の決断によるもの──どうぞ、ご覚悟を」
大国の使節は優雅に踵を返し、悠然と謁見の間を後にした。
「……これで、道は決まりましたな」
軍務の家老が静かに呟く。
四家老たちはそれぞれの憂いを抱えながらも、一歩も引かぬ王の態度に覚悟を固め、静かに辞去していった。
ラウラはその様子を、黙って見つめていた。
全員、嘘はついていない。自分の仕事と、この国を本気で心配している。
内通者がいるとすれば、この4人以外のどこか──あるいは、まだ表に出ていない闇の中。
悪意ある者を探すだけなら、まだ容易だった。
だが、この国を壊すものが「正しさ」から生まれるのなら、ラウラには何を信じ、何を疑うべきなのか分からなかった。
◇
重厚な木彫りの扉が重々しく閉ざされ、謁見の間の喧騒が遠のく。
奥の執務室を満たしていたのは、冷え切った空気と張り詰めた静寂だった。
重い王座から離れたラウラは、執務机の淵に指をかけ、そこに佇んだまま深く息を吐き出した。
側に控えるのは、身構えたままのレイナルドと、窓辺の影に身を寄せるマティアスの二人だけだった。
「……帝国は、次に何を仕掛けてくると思いますか」
ラウラは疲弊を悟られぬよう、二人へと視線を向けた。
レイナルドが静かに一歩進み出で、苦い顔で答える。
「軍事行動だけではないでしょう。帝国が恐ろしいのは、剣を抜く前に相手の内側を崩すところです」
「……正しい者同士を争わせ、自滅を誘う気ですね」
ラウラの言葉に、レイナルドは苦い顔で頷いた。
「先ほどの四家老は、誰も間違ってはいませんでした。ですが、守ろうとするものが違う。軍務は国境を、財務は民を、外交は避戦を、老臣は王家を。正しい意図同士だからこそ、譲り合いが利きません」
マティアスは窓の外から城郭へ視線を落としたまま、低く口を開いた。
「ならば、彼らに同じ敵を見せる必要があります」
ラウラは机の上の書状から目を上げ、マティアスを見る。
「外敵としての帝国だけでは足りない……国内の意思を一つにするための『明確な理由』が必要だと?」
「問題は、外の帝国ではありません」
マティアスは静かに振り返り、ラウラを見据えた。
「外敵への警戒だけでは、家臣は各自の正義でバラバラに動く。ですが、この王城内部に潜む『内通者』という歪みを突きつければ、全員が同じ脅威を認識せざるを得なくなります」
レイナルドの鋭い視線が、マティアスへ注がれる。
「……確証はあるのですか」
「情報があまりに精密すぎる。帝国が城内の動静を掴んでいる以上、疑うのは必然です」
マティアスはラウラへ視線を向けた。
「明日、陛下から四家老へ、ひとつ揺さぶりをかけていただく」
「帝国への対応を巡る意見の違いを利用する……ということですか」
マティアスは静かに首を振った。
「それだけでは足りません」
「帝国が欲しているものを、あえて餌として見せる必要があります」
レイナルドの表情が僅かに変わった。
「……帝国が欲しているもの?」
マティアスは一拍置き、重い声を落とした。
「私の身柄だけではない」
「十七年前の王都地下聖堂に関する情報です」
部屋の空気が、凍りついたように静まり返る。
ラウラが眉をひそめる。
「十七年前……?」
マティアスの灰色の瞳が、静かに沈む。
「あの事件について、帝国はまだ探しているものがある」
「帝国へその情報を渡せば、戦争を回避できると思い込む者がいるはずです。国を売る悪意ではなく、この国を救うための『己の正義』で裏切る者が」
「……分かりました。明日、四家老を集めます」
沈黙が部屋を満たす。
やがてラウラは覚悟を固めた面持ちで、王印へ手を伸ばした。
◇
静まり返った北棟の一室で、羊皮紙に走る羽ペンの音がかすかに響いていた。
卓上に置かれた燭台の火が、気圧の変化に小さく揺れる。
扉が開いたわけではない。ただ、部屋の隅の暗がりから、足音もなく滑り出してきた影があった。
白銀の甲冑に闇を溶かし、近衛隊長レイナルドが佇んでいる。
執務机に腰かける老臣──四家老の一人は、走らせていたペンを止め、ゆっくりと視線を上げた。
「……珍しいな」
深く刻まれた目尻の皺を沈ませ、老臣は静かに問いかけた。
「近衛隊長が、こんな夜更けに何用だ」
レイナルドは答えず、ただ静寂の残響を確かめるように部屋の四隅へ一瞬だけ視線を誇わせた。
それから、低く掠れた声を落とす。
「明日、陛下は四家老を招集されます」
「……帝国への対応だろうな。今のままでは、他に打つ手が無いのだろう」
「それだけではありません」
レイナルドは一歩、机へ足を進めた。
燭台の光が、その厳めしい顔立ちの半分を浮かび上がらせる。
「陛下は明日、十七年前の王都地下聖堂について四家老へ話されるおつもりです」
老臣の背が、かすかに強張った。
「……地下聖堂の事とは?」
「陛下は、帝国がその事件に関わる何かを探している可能性があると」
レイナルドは一切の感情を削ぎ落とした声で、言葉を重ねる。
「そして……その情報を利用して帝国との交渉を試みるお考えです」
老臣の視線だけが、執務机の前から動こうとしないレイナルドの姿をじっと追った。
ただ深く一礼を捧げると、踵を返し、来た時と同じ気配のなさで闇の奥へと消えていった。
重い扉の錠が下りる音が響く。
部屋に一人のみ残された老臣は、机の上に広げられた書類を片付けることすらしなかった。
そのまま静かに引き出しへと手を伸ばし、奥から古びた一通の手紙を取り出す。
封蝋を割る前に、老臣の太い指が止まった。
そこに刻まれていた日付。
十七年前のマティアス・アッシュ率いる第三特殊部隊による特殊任務が失敗した日。
そして──アステリア王国王妃、エレナ・アストレアが命を落とした日だった。




