第五話 帝国の毒
純白の国旗のみが翻るはずのアステリア王城の正門前広場には、
帝国の黒い紋章旗が立ち並んでいた。
十余年に及ぶ凄惨な大戦を経て、一年前に結ばれた暫定休戦協定。
しかし、旗の元に立ち並ぶ近衛兵たちの表情に安堵の色はない。見えない刃を喉元に突きつけられているかのような、いつ破れとも知れぬ緊張感が漂っていた。
その物々しい列の中央を、一人の男──帝国全権使節カイウス・ヴェルナーが歩んでいた。
彼の視線は、周囲を固める兵士や王城の壮麗さには向いていない。
細い眼鏡の奥にある彼の冷徹な視線が捉えていたのは、城壁の陰に静かに佇む銀灰色の男だった。
回廊の上からその光景を見下ろしていた近衛騎士団長レイナルドが、低く吐き捨てた。
「……帝国の使節団が到着した。もし交渉が破綻し、再び鉄と血の火蓋が切られたなら……貴方はその剣を、どちらへ向ける」
隣に並ぶマティアスは、視線すら動かさず静かに応えた。
「その問いに意味はありません。私に帝国を殺すほどの憎悪もなければ、この国に捧げる安易な忠誠もない」
「……信用できるものか。十七年、この国を影から見続けていた男の言葉など」
「私は帝国を裏切ったのではありません。捨てられただけだ……そして今、この城の王が私を使うと決められた。ならば私は、その決断を裏切らない。それだけのことです」
「刃を交える瞬間まで疑い続けられるといい。私の役割は、貴方の疑念を晴らすことではない」
レイナルドは苦い顔で押し黙り、再び視線を眼下の広場へと戻した。
◇
使節の到着を間近に控え、謁見前の執務室には緊張が満ちていた。
ラウラを囲むように、四人の家老とマティアスが集っている。
第二家老エドモンドが、手元の書面を険しい目で確認しながら声を上げた。
「国境地帯の返還、賠償金、不可侵条約……休戦協定を補強するにしては、こちらが要求しても得られない破格の条件です」
「だからこそ、罠なのだ」
第三家老ベルナールが即座に吐き捨て、第一家老ガルドが黒杖を重く床に突いた。
「問題は、何を得たいのかではない。何を隠しているのかです」
ラウラは視線を上げ、壁際に立つマティアスを見つめた。
「あの条件を……帝国が提示してきた意図を、貴方はどう見ますか」
「不遜を承知で申し上げますなら──条件そのものではなく、提示した『人間』を見るべきでしょう」
傍らに控える老臣ガルドが眉をひそめる。
「使節……カイウス・ヴェルナーのことか」
「条件は紙に書けます。しかし、本音は人間しか運べない……帝国は真に攻め込む時ほど平和を口にし、戦う気がない時ほど強硬な言葉を並べる。だが今回は、そのどちらにも当てはまらない」
「……読めないと?」
ラウラの問いに、マティアスは小さく首を振った。
「確定していない真実を断言するほど、私は若くありません。あの国は人を嵌める際、必ず九割の真実に一割の毒を混ぜる。いま早急に意図を決めつけることこそ、相手の思うツボです」
◇
重々しい扉が開かれ、静寂の広がる謁見の間へとカイウスが進み出た。
寸分の狂いもない歩調で歩みを進めた男は、静かに頭を下げる。
「アステリア女王陛下。本日は休戦を真の平和へと繋ぐ道筋を探るため、参りました」
ラウラは玉座から、静かに歩み寄る帝国使節を見下ろしていた。
第一印象は、敵意ではなかった。
むしろ奇妙なほどに整えられた冷静さ。
真偽眼を向けるまでもなく分かる。
この男は、感情で動いていない。
帝国という巨大な意思を、一人で背負ってここへ来ている。
「平和のためなら、なぜ条件に彼の名前があるのですか」
ラウラの問いに、男は首すら動かさず、視線だけを壁際へ滑らせる。
「当然でしょう。我が国にとって、灰狼マティアス・アッシュという存在は……いまだ処理されていない」
「処理だと?」
ベルナールの手が剣柄にかかり、柄頭がカチリと鳴る。
男はそちらを振り返りもせず、壁際の男だけを見据えていた。
「奪還の話ではありません。ただ、彼がそちら側に存在し続けていること自体を、懸念する者がいる」
「……そうだろうな」
「……あの日から、お前は変わったな。マティアス」
その視線の先を追い、ラウラは初めて理解した。
今日、この男が王城へ来た理由は休戦協定ではない。
灰狼マティアス・アッシュ。
帝国が本当に確認したいものは、彼自身なのだ。
「お前が何を目撃して、アステリアに何を語ったのか……あるいは、これから何を語るつもりなのか。それを確認しに来た」
ラウラは玉座から動かず、言葉を交わす二人をただ見つめていた。
目の前にある真実が見えない。
嘘のない静かな言葉の裏にある「何か」に届かないもどかしさが、彼女の胸の奥に妙な引っかかりを残した。
◇
「危険人物を側に置くとは、若い陛下もお人が悪い」
「危険、だからこそです」
「危険性を理解している者を、理解していない者の近くに置くことはできません」
カイウスの口元が、かすかに歪んだ。
「なるほど。監視ではなく、管理ですか」
壁際から、マティアスの低い声が重なる。
「陛下の判断は正しい」
「必要な場所に置かれる駒が、己の価値を理解していなければ盤面を乱します」
「……違うな」
「昔のお前は、生き残るために己を使った」
カイウスは細い眼鏡の奥で、マティアスの呼吸の僅かな乱れすら見逃さぬよう、静かに目を細めた。
「今のお前は、死ぬ場所を選ぶために己を使っている。最初から己を失うことを前提に、自分を盤面へ置いているのだ」
二人の交わす言葉の裏にある不穏を感じ取りながら、ラウラは玉座の肘掛けを静かに指で叩いた。
「使節が去る前に、はっきりさせておきましょう、マティアス……帝国が貴方をそれほどまで恐れ、警戒する理由はどこにあるのです」
マティアスはラウラへ視線を移し、深く頭を下げた。
「帝国が真に恐れているものは、私という一人の兵ではありません」
「なら、何なのです」
「私が知っている『事実』です」
ラウラは逃げ道を塞ぐように、声の温度を一段落とした。
「ならば、その事実を今ここで口にしなさい。この国の王である私に」
「……まだ、答えるべき時ではありません」
マティアスは微動だにせず、静かに拒絶の言葉を口にした。
カイウスは深々と頭を下げ、退見の礼をとる。立ち上がる直前、視線だけを細銀の髪飾りへと向けた。
「陛下……毒は、瓶に入れて封じれば害にはなりません。しかし手元に置けば、いつか蓋を開ける者が現れる。ですが──毒ほど、扱い方を知る者にとっては価値があります」
「貴方は彼を毒だと言いながら、恐れてはいないのですね」
「恐れていますとも。だからこそ、帝国は彼という存在を失ったことを……今になって理解している」
一礼を残し、靴音だけを大理石に刻んで去っていった。
使節団が引き揚げた後の執務室で、エドモンドが苛立たしげに言葉を吐き出した。
カイウスが一礼を残し、大理石に靴音だけを刻んで去っていった。
使節団が引き揚げた後の執務室で、エドモンドが苛立たしげに息を吐き出す。
「……結局、何も分からなかったではありませんか」
「……いいえ。分かったことがあります」
「……少なくとも、帝国は一致団結して私を取り戻そうとしてはいない。私という存在をめぐって、向こう側も割れているということです」
執務室の空気が張り詰める。ベルナールが苦々しく顔を歪めた。
「ならばなおさら、貴様を処刑した方が早いのではないか」
「帝国にも、そう考えている者がいるでしょう」
「戦争犯罪人の引き渡しでも、処刑の要求でもない。平和条約の条件に紛れ込ませ、使節を寄越して探りを入れさせてきた。……消したいはずの人間を、直接消そうとしない」
「それができない理由を、私はまだ理解していません」
怒りも憎悪もない。
ただ、自分という一人の存在に引きずられて動く政治の不気味さを、静かに見据える声だけが部屋に落ちた。
◇
その夜、マティアスは女王の許可を得て、王城の地下深くに位置する秘匿資料室へと足を踏み入れた。
背後には監視の近衛兵が静かに立つ中、古びた羊皮紙の束をめくる手が止まる。
『帝国特殊任務記録』
『任務名:王都地下施設救出作戦』
『対象地域:アステリア王都周辺』
『任務結果:失敗』
『参加兵力:第三特殊部隊』
『指揮官:マティアス・アッシュ』
『救出対象:────』
何者かの明確な意図をもって。
最後の一行だけが、削り取られていた。
「……灰狼殿?」
「……すまない。少し、確認に時間をかけすぎた」
「続きは、また改める」
近衛兵は黙って頭を下げた。
閉じられた記録だけが、十七年前の夜をまだ覚えていた。
あの夜、帝国が奪おうとしたもの。
そして先代国王が命を懸けて隠したもの。
それは、同じものだった──。




