第四話 灰色の選択
「──帝国からの親書です。先方の全権使節が、すでに国境を越えております」
近衛騎士団長レイナルドの報告に、執務室の空気が氷のように凝固した。
表向きは、長引く戦争の終結と捕虜返還に向けた講和条約。
だが、差し出された条件の筆頭に記されていた名前は──『灰狼マティアス・アッシュの身柄引き渡し』だった。
◇
緊急に招集された評定の間。
「……静まれ」
開式と同時に、最奥に立つ老臣が黒杖の石突を床へ打った。
重厚な一打が響いた瞬間、議論を始めようとしていた家老たちが一斉に口をつぐんだ。
白銀の髭を蓄え、背筋を鋭く伸ばした第一家老ガルド・フォン・ローゼン。王家保守派の頂点に立つ男が、深く低い声で場を支配した。
「陛下。本日は我らが陛下のお考えを否定するために集まったのではありません。この国を守るために集まったのです。故に皆様、それぞれ遠慮なく申されよ」
議長としてのガルドの差配を受け、まず動いたのは内政と財政を司る第二家老エドモンド・ヴァイスだった。
痩せ型の長躯を少し曲げ、銀縁眼鏡の奥で手元の帳簿に視線を落とす。
「では、私から。条件自体は破格……いや、過剰にございます。国境地帯の返還、賠償金、不可侵条約。感情論は理解しておりますが、数字は嘘をつきません。一人の敵将を差し出すことで一万の民を飢えから救えるのであれば、代償の計算としてはあまりに安価です」
「安価だと……!? 冗談ではない!」
血の気を孕んだ声で怒鳴ったのは、軍務を担う老将、第三家老ベルナール・クロイツだった。
片目に古傷を持つ大柄な身体を震わせ、左腕に巻かれた戦死者の紋章を強く握りしめる。
「死んだ者には、未来などないのだ! 先王陛下を討ち、数知れずの若者を葬った『灰狼』を生かしておくなど、遺族と軍への裏切りにほかならん! 帝国へ送り返し、奴らの手で首を落とさせよう!」
ラウラには、その怒りが偽りではないことが分かった。
真偽眼は、彼の憎悪を映している。
だが同時に、その奥にある悲しみも見えていた。
二つの正論が火花を散らす中、第四家老セドリック・オルフェンが静かに紅茶の杯を傾けた。
紺色の礼装を纏った外交官は、柔らかい笑みを崩さないまま、評定の間の温度を一気に下げる一言を落とす。
「……皆様。私は条件より、この過剰な条件を作った人間の『意図』が気になります。敵だから危険なのではありません。帝国がこれほどの出血を払ってまで彼を欲する理由……その裏にあるものが読めないからこそ危険なのです」
合理的国益、兵士の誇り、不気味な裏読み。
激しさを増す議論を止めたのは、再び響いたガルドの黒杖だった。
それだけでベルナールは怒号を呑み込み、エドモンドは帳簿を閉じ、セドリックは優雅に杯を置いた。
評定の間は、水を打ったように静まり返る。
「では最後に、老臣として申し上げます」
ガルドは地を這うような重い声でラウラを見据えた。
「……陛下。国民は王の涙ではなく、王の決断を見ます。敵将に心を許せば王家の権威は地に落ちる。王とは、最も孤独な者。その孤独に耐えかねて劇薬に手を伸ばし、身を滅ぼす未来を、私は恐れているのです」
ラウラは反論しなかった。
なぜなら、その言葉にも偽りはなかったからだ。
ガルドは彼女を操ろうとしている。
だが同時に、彼らもまた命がけでこの国を守ろうとしている。
だからこそ、この政治の渦は力ずくでは解けない。
「……マティアス。当事者である貴方の意見を聞きましょう」
ラウラが視線を送ると、壁側に控えていたマティアスが、静かに一歩前へ出た。
「……お受けできません」
静かな、しかし確固たる拒絶。
ベルナールが古傷を歪め、唾を飛ばさんばかりに怒鳴り散らす。
「貴様に拒否する権利があると思っているのか! 先王陛下を奪った罪人が!」
ベルナールの咆哮を正面から受けても、マティアスは瞬き一つしなかった。
戦場で幾万という殺意を全身に浴びてきた男にとって、一人の老将の激昂など、ただのそよ風にも等しい。
マティアスは灰色の瞳を微動だにさせず、低く重い声で言い放った。
「私は先王陛下を討った罪人です。ですが、私の罪と、この国が持つべき戦略的選択は別問題でしょう」
「現時点において、私の身柄は帝国よりもアステリアが保有している方が戦略的価値が高い。帝国の暗号文書や軍事動向を解く鍵を失うことは、国益を自ら損なう行為です」
マティアスは静かに言葉を重ねる。
「帝国は、一人の人間を処分するためにこれほどの譲歩はしません。国境、賠償、不可侵……どれも帝国にとっては大きすぎる代償です」
エドモンドが眼鏡の奥から冷たい視線を上げた。
「では何だと? 貴方自身に、それほどの価値があるとでも?」
「私の命は……この交渉で重要ではありません」
その言葉に、ベルナールが苦々しく眉をひそめる。
「ならば認めるのか。貴様は帝国にとって不要になったと」
「そうではありません」
「帝国が欲しているのは、私の死ではない。私がここに存在することで失われる『何か』です」
セドリックが優雅さを消し、静かに紅茶の杯をテーブルへ置いた。
「……つまり、灰狼殿。帝国は貴方を取り戻したいのではなく、貴方を利用して何かを隠したい、と?」
「可能性の、一つです」
「回りくどいですな」
「陛下の御前で、推測だけを並べるつもりですか」
ガルドの低い声が重く響いた。
その追及を受け、マティアスは初めて第一家老を正面から見据えた。
灰色の瞳が、ゆっくりと、まっすぐにラウラへと向かう。
「いいえ……」
「ですが、確信に近いものがあります……帝国は、私を取り戻したいのではない。私が、ここで何を護っているのかを知っているのです」
ベルナールの表情が険しさを増す。
「何を言っている」
エドモンドも無言で手元の帳簿を閉じた。
「まさか……」
セドリックの表情から、完全に笑みが消える。
そして、最後まで一考を巡らせていたガルドが、静かに問うた。
「では聞きましょう。帝国が本当に欲しているものとは何です」
マティアスは一瞬だけ目を伏せた。
答えたくないのではない。
言葉にした瞬間、この場にいる全員の視線が変わることを知っているからだ。
それは──。
「……陛下です」
ラウラの指が、玉座の肘掛けをわずかに握った。
その言葉が落ちた瞬間、評定の間からすべての音が消え去った。
「正確には……陛下が、この国の王になったことそのものです」
誰一人として言葉を発することができぬまま、重苦しい沈黙だけが場を支配する。
マティアスはそれ以上の弁明を一切絶ち、静かに頭を下げた。
「使節との謁見までに、ご決断を……私が応じるか否かは、陛下のお言葉次第です」
◇
評定が終わる頃には、城には重い静寂が落ちていた。
灯火が一つ、また一つと消え、王城が深い闇に包まれていく。
王殺しの罪人として拘束されているマティアスだが、帝国軍の暗号文書を読み解く名目で、女王の特別許可のもと、近衛の監視つきで限定的な資料閲覧が許されていた。
地下深くに位置する秘匿資料室。
分厚い鉄扉の前で、二人の近衛兵が松明を手に腕を組んでいる。
「終わりましたらお声を……長居は無用です、灰狼殿」
「ああ、承知した」
短く答えたマティアスは、一人、封印資料の立ち並ぶ闇の奥へと足を踏み入れた。
彼が手を伸ばしたのは、焦げ痕の残る古い帝国時代の潜入記録と、破棄されたはずの特務暗号文書だった。削り取られた文字の跡を、傷だらけの無骨な親指で静かになぞる。
そこには、潜入任務についての記録が残されていた。
『救助対象──少女一名』
その下には、本来なら名前が記されていたはずだ。
だが、その部分だけが消されている。
マティアスは指で削られた跡をなぞった。
乱暴に消したのではない。
何度も、何度も、同じ場所を削っている。
記録を消したかったのではない。
誰かに「見つけられること」を恐れた消し方だった。
「……十七年。随分と丁寧に消したものだ」
マティアスは小さく息を吐き、静かに資料を棚へ戻した。
灰色の瞳に宿るのは、忠誠か、謀略か、あるいは他にあるのか。
入口の松明の光すら届かぬ影の中で、男の厳格な横顔が夜の暗闇に深く沈んでいた。
◇
東の空が白み始める頃。
帝国使節を迎える朝は、静かに、しかし容赦なく訪れた。
執務室の鏡の前で、ラウラは一人佇んでいた。
昨日までの過呼吸と迷いは、すでに消えていた。
(マティアス……彼が何を背負い、帝国が何を隠しているのか、この眼だけでは届かない)
信じられない。
答えが出ない。
ならば──。
扉の外から、近衛騎士の硬い声が響いた。
「陛下。マティアス殿をお連れいたしました」
「入りなさい」
重い扉が開き、先に入った騎士が一礼して脇に控え、拘束下のマティアスが、監視役の半歩後ろから静かに姿を現した。
「……ご命令により参上いたしました、陛下」
立場を崩さぬマティアスに対し、ラウラはゆっくりと振り返り、まっすぐにその灰色の瞳を見据えた。
「マティアス。帝国からの提案は、すべて拒絶します」
マティアスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「引き渡せば、国は一時的な平和を得るでしょう。家老たちの言う通り、それが王としての『正しい損得』に違いない」
ラウラは歩み寄り、男の眼前で立ち止まる。
「それに……私は貴方を手放すつもりはありません」
「貴方の沈黙も、貴方の過去も、私にはまだ真実が何一つ視えてはいない……ですが、貴方を帝国へ返せば、私は永遠に答えを失う」
「……王は孤独であるべきなのでしょう。ですが私は、孤独だからこそ──真実から目を背けません。貴方が敵なのか、味方なのか。その答えを出すまで、貴方には私の側にいてもらいます」
淡い青銀色の眼差しに宿る凄絶な覚悟を、灰狼はただ冷徹に推し量っていた。
「……奇妙な方だ」
「普通ならば、私を恐れるか、あるいは安易に信じようとする」
「陛下は、そのどちらでもない」
「私が視据える光は、貴方に関する真実ではありません」
「……しかし、だからこそ……帝国が何に怯えているのか、分かった気がする」
「──疑い続ける者だけが、決して見誤らない」




