第三話 真実の外側
「──陛下? 陛下、お聞きでしょうか」
呼びかけられ、霞んでいた視界が晴れる。
差し出された書類を受け取ろうとした指先が、力なく滑り落ちる。
意識のすべてが、昨夜届いたあの宛名のない一葉の紙に囚われていた。
朝露に濡れた回廊の先に、灰色の瞳が見えた瞬間、ラウラの足が僅かに止まった。
昨夜までなら、その瞳を見れば答えが分かった。
嘘か、真実か。
だが今は違う。
あの手紙を読んでから、彼女は初めて思った。
──もし、この眼が間違っていたら。
年月の刻まれた目元の皺と、低く掠れた重厚な声。灰色の瞳が、すれ違いざまに新女王の顔を捉えた。
「……顔色がよろしくない……何がありましたか、陛下」
静かな問いが心に巣食う。
刃を突きつけ合う関係でありながら、この男の言葉にだけは、揺るぎない「真実」を見出せていたはずだった。
しかし今、視界に映る男の佇まいは、軍人特有の圧倒的な存在感を放ちながらも、どこか霧の向こうにあるかのように曖昧だった。
「……いいえ。何でもないのです。貴方が気にするようなことではありません」
短く答え、ラウラは視線を外して歩み去る。
その孤独な背中は、マティアスが戦場で幾度も見た、追い詰められた者の歩き方だった。
◇
即位直後の王城は、混迷の極みにあった。
『灰狼問題』に揺れる民衆の不満。先王暗殺の衝撃から立ち直れず揺らぐ内政。
諸外国からは無遠慮な探りが押し寄せ、四家老は「若き女王」を思い通りに操ろうと画策していた。
「……正しくあり続けなければ……私だけは、絶対に」
そう自分に言い聞かせなければ、押し潰されそうだった。
父を失ったあの日、冷たい棺の前で『ラウラ』という王女は死んだのだ。
残されたのは、ただ涙を拭い王冠の重みに耐えるだけの『女王』という孤独な偶像だけだった。
増え続ける書類の山を前にしても、ラウラの意識は別の場所にあった。
マティアス・アッシュ。
彼の言葉に偽りはない。それだけは、この眼が告げている。
だが、あの手紙は問いかけた。
──その男自身が信じている真実が、果たして本当の真実なのか、と。
だからこそ、ラウラは自分以外の目を必要としていた。
「……誰にも知られず、マティアス・アッシュの過去を調べなさい」
ラウラは机越しにレイナルドを見据えた。
「軍歴だけではありません。彼が帝国へ渡る以前も含め、すべてです……この命令は、私とあなただけのものです」
レイナルドは拳を胸に当て、深く頭を下げた。
「御意に」
◇
マティアス・アッシュの過去を調べる中で、ラウラの中に別の疑念が生まれていた。
だが、それ以上に不可解なことがある。
あの手紙の主は、なぜ真偽眼のことを知っていたのか。
『お前の眼は、誰にも明かしてはならない』
幼い頃、父だけが告げた言葉。
母にも、側近にも、誰にも知らされていなかったはずの力だ。
それを、なぜ見知らぬ誰かが知り得たのか。
手掛かりを求め、ラウラは先王の私室へ向かった。
そこには、亡き母の肖像と、今も片付けられないまま残された私物があった。
父は、いつもこの眼のことを気にしていた。
けれど、それは娘に向ける恐れではなかった。
『人の隠したものが見えるからこそ、お前は人を簡単に裁いてはいけない』
幼い頃、そう言われたことを覚えている。
他人の醜さを見るためではなく、その人間が何を抱えているのかを見るために使え、と。
父は、真偽眼を持つ王ではなく、それでも人を信じられる王になれと言っていた。
真実を見抜く眼を持つ娘ではなく、ただ一人の娘として。
父は最後まで、私を愛してくれていた。
だからこそ、分からない。
父は何を知り、何を隠していたのか。
静かに部屋を見渡すが、机にも書棚にも糸口に繋がりそうな記録はない。
その時──髪を留める細い銀細工が、淡い光を放った。
中央に埋め込まれたアステリア王家の魔石、白耀石。
即位の証として受け継がれる、王家秘伝の魔導具だった。
導かれるようにラウラが書棚へ触れると、微かな魔力の反応が返ってきた。
「……これは」
書棚の奥に現れた小さな部屋。
そこに残されていたのは、母の形見と父が密かに続けていたであろう研究記録だった。
古びた記録を読み進める中で、ある一節だけが妙に鮮明に目へ残った。
『真偽眼』
『その名は誤りである』
ラウラはしばらく、その文字から視線を動かせなかった。
真実を見る眼──。
それだけを信じて、彼女は王として立ってきた。嘘を暴けば、人を正しく導けると思っていた。
『この眼が映すものは、真実ではない』
『この眼が映すものは、対象者が信じているもの、恐れているもの、隠そうとしているもの──その者の内側に存在する認識の形である』
(……違う……この眼は、真実を見抜くための力のはず……)
だが、続く記述がその考えを打ち砕いた。
『真偽眼が深度を増せば、使用者は相手の言葉だけでなく、その者自身が信じる真実すら視る』
『王とは、すべてを知る者ではない』
『不完全な者たちを受け入れ、それでも信じる決断を下す者である』
『すべてを見抜く眼を持つ者は、やがて誰も信じられなくなる』
『真偽眼の完成は、真実を見る力ではない』
『他者を信じる力を失う呪いである』
震えた文字のページを捲り終えると、別の記録が続いていた。
『帝国では、我が国との魔法戦における対抗装備の研究が進められている』
『魔力遮断繊維。魔力の流れを乱し、外部からの魔法的干渉を弱める技術』
『探知、精神干渉、認識操作……あらゆる魔法観測への対抗手段として軍事転用されている』
『真偽眼に対しても一定の効果を確認』
『彼らは真偽眼を恐れているのではない』
『その先にある力を、恐れている』
帝国では、真偽眼への対抗研究が進められていた。
その一文を読んだ瞬間、ラウラの背筋が冷えた。
なぜなら、この記録が示しているのは技術ではない。
帝国が、自分という存在を知っていたという事実だった。
◇
翌日、執務室には四家老たちが持ち込んだ書状の山が築かれていた。
「陛下、本日中にすべてご裁可を」
「北部への食糧支援、軍備予算、および税制改訂書案でございます」
震える指先に力を込め、言われるがままペンを握りかけた、その時──。
「……少し拙速が過ぎるのでは、ご家老方」
「まるで、精査されることを恐れていらっしゃるようだ」
静かな声とともに、監視兵の手を軽々と制してマティアスが足を進めてきた。
男は山積みになった書類へ一瞥をくれただけで、洗練された手際で数枚の紙を抜き取っていく。
「な、不躾な! 敵将の身で政務に口を挟むな!」
激昂する家老を、マティアスは底知れぬ静かな瞳で見下ろすだけで切り捨てた。
「この三件を同日に裁可すれば、兵站予算は今日中に底を突く」
男の無骨な指先が、流れるように次の書類を叩く。
「こちらの外交文書も帝国式の日付だ。そのまま判を突けば、ただの反故になる」
「それと、この税制案の施行は来月だ。今日、陛下の手を煩わせる理由がどこにある」
静まり返る室内。
四家老の顔から血の気が引き、誰一人としてマティアスから目を逸らすことすらできなくなっていた。
卓上に残されたのは、冷徹に仕分けられた数枚の不備だけだった。
助かった──。
そう思った瞬間、ラウラは自分自身に驚いた。
敵国の将に救われたことではない。
その判断を、疑うより先に信じてしまったことに。
そして、その夜──気配を消してレイナルドが報告に現れた。
「陛下……記録を調べ上げました」
差し出された書面を、ラウラは食い入るように見つめる。
マティアスが帝国軍に身を置くよりさらに昔──若き日の彼の記録。
「所属、帝国特務諜報部……。さらに十数年前、数年間にわたりアステリア国内へ潜入していた形跡がございます」
帝国特務諜報部。
その文字を見た瞬間、ラウラの脳裏に地下牢の男の姿が浮かんだ。
嘘をつかない灰色の瞳。少女を守った背中。
そして、十数年前に敵国へ潜入していた諜報員という記録。
どちらも、同じ男だった──。
さらに、報告書の隅に添えられた小さな記録。
『任務中、市街地火災が発生。少女一名を救助。身元不明』
レイナルドは気づいていない。
だが、ラウラの脳裏には身寄りのない侍女・セレスの顔が浮かんでいた。
◇
翌日、執務室。
数名の護衛を伴い、マティアスはいつものように壁際に控えていた。
敵将でありながら、今や王城に置かれた異質な存在。
ラウラは護衛を下げた後、金色の視線を灰色の瞳へと向けた。
「……マティアス」
「ひとつ、聞きたいことがあります」
「なんでしょうか、陛下」
「帝国は……この眼の存在を知っていたのですね」
わずかに、空気が変わる。
「魔法そのものへの対抗技術……」
「魔力干渉を遮断し、外部からの魔法観測を阻害する繊維技術……」
「地下牢で貴方に真偽眼を向けた時、阻害する術はなかったはず」
「だから、分からないのです」
「あなたは、私を護ると言った。その言葉も……私を救ったことも、嘘ではない」
「しかし、あなたは帝国の特務諜報員だった」
「ならば……私の知らない方法で、私の眼を欺く術を持っているのではないですか」
「……私は、何を信じればいいのです」
その時、初めてラウラの声が揺れた──。
「貴方の言葉なのか。或いは、この眼なのか」
「それとも……どちらも疑うべきなのか」
マティアスは答えない。
その沈黙が、ラウラには何より苦しかった。
「私が貴方を剣として利用するように、貴方が成すべき事のために……私を利用しても構いません」
「ただし……その剣先がもし……」
瞬き一つ。次の瞬間には身体の軸が失われていた。
支えを失った人形のように、ラウラは膝から床へと崩れ落ちた。
「陛下──!」
暗転する意識の中。
耳に届いたのは、黒き胸から響く重厚な鼓動と、自身の静かな呼吸だけだった。
◇
目を覚ました時、そこは自室のベッドの上だった。
窓の外は、深い夜の闇が月すら飲み込んでいる。
「……私は、倒れたのね」
額に手を当て、小さく息をつく。
体は重く、頭の奥まで鈍く痺れていたが、意識だけは冷えるほどにはっきりとしていた。
──その時だった。
体を起こそうとした瞬間、部屋の外側で微かな金属音。
鞘と金具が擦れ合うごく僅かな音が、静寂を切り裂いた。
枕元の細身の剣を掴み、扉へ向かって切っ先を向けた。
「……誰です。名を名乗りなさい」
返事はない。しんと静まり返った暗がりの中、張り詰めた沈黙だけが返ってくる。
息を殺し、意を決して扉を勢いよく開け放った。
「……っ!」
廊下には誰もいなかった。
翌朝、衛兵の口から出て来たのは「その時分はいつも陛下が就寝される為、扉の前には誰も近付いていない」という言葉だった。
扉の前には、確かに誰かが居た。
それは間違いない。
信じたい心と、疑わなければ生き残れない王としての理性。
その狭間で揺れる限り、真実は決して姿を現さない。
真実を見抜く瞳はあっても、真実そのものは見えない──。
ラウラは初めて、『真実の外側』へ足を踏み入れた。




