第二話 王冠の民
即位式の朝、王城前の広場は人で埋まっていた。
夜明け前から集まった民の吐息が、冷たい大気に白く揺れる。
大階段の奥で、ラウラはその声を聞いていた。
王冠を戴いた瞬間から、自分は父を失った少女ではなく、民の怒りすら受け止める王になったのだと理解していた。
ただ、不気味な沈黙の底で、怒りと不信だけが澱のように溜まっていた。
城壁のあちこちには、真新しい紙片が貼り出されている。
『灰狼を討て』
『先王の仇を玉座に置くな』
誰が貼ったものかは分からない。
だが、そこに書かれた文字は、すでに民の頭の中に刷り込まれていた。
◇
大広間と広場を隔てる大階段の頂。
王の威厳を示す高壇へ、王冠を背負わされた若き女王が一歩を踏み出す。
細い銀冠の中央に埋め込まれた、アステリア王家の魔石、白耀石は淡く輝きを落としていた。
その時だった。
静寂を破り、最前列から刺すような声が上がる。
「──お聞きしたい、新しき陛下!」
黒い外套を着た男が、高壇を指差している。
「陛下は! 誠にあの『灰狼』を捕らえられたのか!?」
地鳴りのようなざわめきが、一瞬で広場を駆け巡った。
ラウラは唇を噛み、無言を貫く。
だが、男は畳みかけた。
「帝国第一軍司令官マティアス・アッシュ! 先王陛下を殺した、あの男です!」
「先王陛下の仇だと……!?」
「帝国の将が、なぜこの城にいるんだ!?」
「なぜ殺さない! なぜ野放しにしている!?」
群衆へ波紋が広がっていく。
ラウラの表情が微かに曇る。
おかしい──。
彼の名を、まだ正式には公表していない。
それなのに民は、すでに答えを知っている。
群衆の怒りに嘘はない。
だが、その怒りが生まれた瞬間だけが見えない。
誰かが火を点けたのか。
それとも、すでに燃えていたものを利用されたのか。
遅かったのだ。
真実が告げられるより前に、誰かの手によって「答え」は配られていた。
動揺が広場を埋め尽くしたのを見計らい、男は確信に満ちた声を張り上げた。
「……ならばなぜ、奴は生きている! 父を殺された娘が、なぜ仇の首を晒さぬ! 答えよ、陛下! あなたは……我らを裏切っていないと言えるのか!?」
そして、あえて音量を落とし、粘りつくような毒を吐いた。
「まさか……我らの知らぬ暗約が、その胸中にあるのではあるまいな」
男の放った言葉が、群衆の不信に火をつけた。
「共謀だ!」
「帝国に国を売る気か!」
火種は一気に爆発した。熱狂的な怒号とともに、石が飛ぶ。
近衛兵たちが慌てて大盾を並べ、壁を作った。だが、盾を構える兵士たちの目にも、暗い迷いの色が浮かんでいる。自分たちが命を懸けて守っているのは、王なのか。それとも、国を売った罪人なのか。
ラウラの周りに、見えない不信の断絶がそびえ立っていた。
◇
広場を見下ろす大広間の影、柱の陰に控えるマティアスは、冷徹な灰色の瞳でその光景を見つめていた。
背後には、四家老の放った監視役が、柄に手をかけたまま立っている。
視界が違和感を捉える。
「……最初の怒声から、投石までが早すぎる」
監視の兵が睨みつける。
「民が怒ることの何がおかしい」
「……怒りではない」
「これは、怒る順番まで決められている」
「何だと……?」
「兵士なら戦場で幾度も見ただろう。民衆という獣の前に肉を投げ込み、望む方向へ突撃させる手口だ」
監視役の近衛が低く吐き捨てる。
「……どうする、灰狼殿。民を見捨てるか。それとも、正体を晒して王座をさらに危うくするか」
灰色の瞳が、広場へ向く。今ここで動けば、ラウラへの疑念は確実に増す。
だが──暴徒の波に飲まれ、最前列で一人の小さな少女が転倒した。石の雨が、逃げ場のない幼い身体へ向かって飛来する。
少女へ向かって石が飛ぶ。
その瞬間、誰かが息を呑んだ。
次に広場が見たものは、高壇の影から消えた男が、いつの間にか少女の前に立っている姿だった。
ラウラには、その瞬間だけ時間が止まったように見えた。
彼の行動に迷いはなく、称賛を求める感情も無い。
ただ、目の前の命を守るという意思だけがあった。
重い衝撃音が男の背中に響き、石は力なく足元に転がる。
「……怪我はないな。もう大丈夫だ」
恐怖に身をすくませていた少女が、その低く静かな声に導かれるようにして、恐る恐る瞼を開く。
少女の視界を覆ったのは、巨大な「黒」だった。
夜より深い色の無骨なロングコート。肩から背を覆う灰色の毛皮襟には、たった今受けた石の粉塵が白く残っている。
高壇の上に立つ女王の眩い白銀すら飲み込まんとする、目の前に聳え立つ男の無機質な黒。
「──見誤ってはなりません!」
高壇のラウラの一声を皮切りに、広場を静寂が覆い尽くしていく。
その瞳に宿るのは、恐怖ではなく静かな覚悟だった。
「敵も、味方も。弱い者も、強い者も……この国に生きる者である限り、そのすべてが私が背負うべき民です」
凛とした声が、静まり返った大気を伝っていく。
「……私は、父を殺した男を許したわけではありません」
「ですが、王が怒りに身を任せ、誰か一人の首を落として終わるなら……その王冠に意味はない。私は真実を知る。その為に、敵だった男の命を預かる。それが──私が選んだ、最初の責務です!」
万雷の拍手など起きない。誰も納得などしていない。
ただ、重苦しい沈黙だけが広場を支配していた。民はただ、怒りの行き場を失い、戸惑いとともに立ち尽くしている。
城の深き影の中で、誰かが苦々しく舌打ちを漏らす音が聞こえた。
◇
民衆が去り、地下通路へと引き揚げたラウラの身体を、激しい震えが襲った。
壁に手をつき荒い息を吐くと、暗がりから歩み出たマティアスが冷徹な声をかけた。
「……随分と無茶をなさる」
「民を守るのが王の役割です」
「……あの扇動は罠でしょう。あからさま過ぎる……様子を見た方がいいでしょう」
「……やはり、気づいていたのですね」
「……ええ。ですが、私が言葉を発した瞬間、陛下の命はなかった……陛下をお守りするための沈黙です。どうかご理解を」
彼に助けられたことを、民に知られてはいけない。
それを知られれば、私は「灰狼に守られた女王」になる。
ラウラは深呼吸し、白い手袋を冷たい石壁から離すと、まっすぐに前を見据えた。
「これからも黙っていなさい。私が……この国の王である限り」
◇
大広間へ戻ったラウラを待っていたのは、並び立つ四家老の姿だった。
最前列に立つ第一家老ガルドが、柔和な笑みを浮かべて恭しく深々と頭を下げる。
「見事なご演説にございました、女王陛下。亡き先王陛下も、泉下にてさぞ誇らしく思われていることでしょう」
ラウラは氷のような視線を向けた。
「……皮肉のおつもりですか、ガルド卿」
「滅相もございません」
ガルドの言葉に偽りはない。
だからこそ、ラウラは寒気を覚えた。
この男は自分を敬っている。
だが、それはラウラという少女ではない。
王冠を戴いた存在だけを見ている──。
ガルドが封書を差し出す。
先王の書斎から「発見された」という遺状だ。
蝋封を割ると、そこに躍っていたのは紛れもない父──アルヴェイン・アステリアの筆跡だった。
『奴は我が国の敵である。
だが、真実を知る唯一の者でもある。
決して殺すな。
王として命じる。
奴の口から、すべてを聞け。
──アルヴェイン・アステリア』
大広間の空気が凍りつく。
四家老の一人が、静かに宣告した。
「……陛下。先の誓いを覚えておいでですね? 『事態が紛走せばこの首を差し出す』と、我らに宣誓された。この遺状が出た以上、すでに『事態』は動いております」
影から歩み出たマティアスが割り込む。
「……なるほど。先代陛下は、最後まで王であられた」
四家老が顔色を変える。
「貴様……控えよ!」
「もし、先代陛下が私を犯人だと確信しておられたなら、このような書き方はしない。『殺せ』ではなく『聞け』と残された。と書けばいい」
「つまり──先代陛下は私を単なる罪人として裁くことよりも、真実が闇に葬られることを恐れたのだ」
灰色の瞳が、殺気すら孕んで書面を射抜く。
「私は敵国の将だ。疑われて当然、憎まれて然るべき存在……だが、アルヴェイン王が遺した最後の命令は『罪人を殺して積憤を晴らせ』ではない。『真実を失うな』だ。違いますか、老将方」
引き結んだ薄い唇の間から、ラウラのかすかな吐息が漏れて消えた。
父はマティアスを信用していたわけではない。だが、信用できない敵にすら託さなければならないほどの「何か」が、あの夜に隠されていたのだ。
父は最後まで、私に答えを残さなかった。
ただ、問いだけを残した。
◇
再び静まり返った地下通路。
燭台の炎が、二人の影を揺らしている。
ラウラは暗闇を見つめた。
「……貴方は、最初から分かっていたの? 父上があのような私録を遺していたことを」
マティアスは影の中から応じた。
「いいえ……ただ、敵は城の奥深く、玉座の周囲に潜んでいるとばかり思っておりました」
静寂が、二人の間に重く横たわる。
「……だが、私の見立ては甘かったようだ」
灰色の目が、仄暗い通路の先を見据える。
「敵は城どころか……この国の血管のすべてに、すでに毒のように回っている」
「敵は、敵の姿で現れない」
「この国では……正義の顔をして、隣に立っている」
地下通路を抜け、ラウラが自室へ戻る。
護衛の近衛が扉を開いた。
「今夜はもう、下がっていいわ」
「……失礼いたします、陛下」
短く応じ、いつものように一人になる。
重い扉が閉まり、静寂が部屋を満たした。
だが──机の前で足が止まる。
何かが違っていた。
窓は閉じている。鍵も掛かっている。
調度の配置も、何一つ変わっていない。
それでも──違和感だけが、肌を刺すように残っていた。
王族として長年叩き込まれた感覚が、警告を発している。
自分の部屋に、自分ではない誰かの気配があった。
机の上に、一枚の紙が置かれていた。
封蝋はない。王家の印もない。
ただ、冷たい黒い文字だけが躍っていた。
『親愛なる女王陛下へ
あなたの瞳は、偽りを許さない。
だからこそ、あなたは彼を信じた。
だが、考えたことはないか。
彼が語る過去。
彼が信じる正義。
彼が抱える罪。
それらすべてが、
誰かによって与えられた記憶だったとしたら。
あなたの瞳は、
その男自身も気づいていない、偽りを見抜けるのか』
血の引きつくような静寂の中、ラウラはその紙片を固く握りしめた。
この人物は、自身の存在を脅かす者から身を守るため、瞳の裏に潜ませ続けた真偽眼を知っている。そして、マティアスの過去も──。
初めてだった。
真実を見る瞳を持ちながら、自分が何を見落としているのか分からないと思ったのは。
ガタリ、とノックの音が静寂を破った。
「陛下? 入りますよ」
侍女のセレスの声だ。
ラウラは息を呑み、反射的に手紙を胸の奥へと押し隠した。
扉が開く。
誰にも言えない致命的な疑念──
「マティアスという男の存在そのものへの恐怖」を抱えたまま、
新しき女王は静かに振り返った。




