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灰狼と真偽眼の女王──誰も信じられない女王が唯一手にした剣は、父王を殺した敵国の司令官だった。  作者: 比古狭霧
第一章 灰狼と若き女王

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第二話 王冠の民

即位式の朝、王城前の広場は人で埋まっていた。

夜明け前から集まった民の吐息が、冷たい大気に白く揺れる。


大階段の奥で、ラウラはその声を聞いていた。


王冠を戴いた瞬間から、自分は父を失った少女ではなく、民の怒りすら受け止める王になったのだと理解していた。


ただ、不気味な沈黙の底で、怒りと不信だけがよどみのように溜まっていた。

城壁のあちこちには、真新しい紙片が貼り出されている。


『灰狼を討て』

『先王の仇を玉座に置くな』


誰が貼ったものかは分からない。

だが、そこに書かれた文字は、すでに民の頭の中に刷り込まれていた。





大広間と広場を隔てる大階段の頂。

王の威厳を示す高壇へ、王冠を背負わされた若き女王が一歩を踏み出す。


細い銀冠の中央に埋め込まれた、アステリア王家の魔石、白耀石はくようせきは淡く輝きを落としていた。


その時だった。

静寂を破り、最前列から刺すような声が上がる。


「──お聞きしたい、新しき陛下!」


黒い外套がいとうを着た男が、高壇を指差している。


「陛下は! 誠にあの『灰狼』を捕らえられたのか!?」


地鳴りのようなざわめきが、一瞬で広場を駆け巡った。

ラウラは唇を噛み、無言を貫く。


だが、男は畳みかけた。

「帝国第一軍司令官マティアス・アッシュ! 先王陛下を殺した、あの男です!」


「先王陛下の仇だと……!?」

「帝国の将が、なぜこの城にいるんだ!?」

「なぜ殺さない! なぜ野放しにしている!?」


群衆へ波紋が広がっていく。

ラウラの表情がかすかに曇る。


おかしい──。


彼の名を、まだ正式には公表していない。

それなのに民は、すでに答えを知っている。


群衆の怒りに嘘はない。

だが、その怒りが生まれた瞬間だけが見えない。


誰かが火を点けたのか。

それとも、すでに燃えていたものを利用されたのか。


遅かったのだ。

真実が告げられるより前に、誰かの手によって「答え」は配られていた。


動揺が広場を埋め尽くしたのを見計らい、男は確信に満ちた声を張り上げた。


「……ならばなぜ、奴は生きている! 父を殺された娘が、なぜ仇の首を晒さぬ! 答えよ、陛下! あなたは……我らを裏切っていないと言えるのか!?」


そして、あえて音量を落とし、粘りつくような毒を吐いた。

「まさか……我らの知らぬ暗約が、その胸中にあるのではあるまいな」


男の放った言葉が、群衆の不信に火をつけた。


「共謀だ!」

「帝国に国を売る気か!」


火種は一気に爆発した。熱狂的な怒号とともに、石が飛ぶ。

近衛兵たちが慌てて大盾を並べ、壁を作った。だが、盾を構える兵士たちの目にも、暗い迷いの色が浮かんでいる。自分たちが命を懸けて守っているのは、王なのか。それとも、国を売った罪人なのか。


ラウラの周りに、見えない不信の断絶がそびえ立っていた。





広場を見下ろす大広間の影、柱の陰に控えるマティアスは、冷徹な灰色の瞳でその光景を見つめていた。

背後には、四家老の放った監視役が、つかに手をかけたまま立っている。


視界が違和感を捉える。

「……最初の怒声から、投石までが早すぎる」


監視の兵が睨みつける。

「民が怒ることの何がおかしい」


「……怒りではない」

「これは、怒る順番まで決められている」


「何だと……?」


「兵士なら戦場で幾度も見ただろう。民衆という獣の前に肉を投げ込み、望む方向へ突撃させる手口だ」


監視役の近衛が低く吐き捨てる。

「……どうする、灰狼殿。民を見捨てるか。それとも、正体を晒して王座をさらに危うくするか」


灰色の瞳が、広場へ向く。今ここで動けば、ラウラへの疑念は確実に増す。

だが──暴徒の波に飲まれ、最前列で一人の小さな少女が転倒した。石の雨が、逃げ場のない幼い身体へ向かって飛来する。


少女へ向かって石が飛ぶ。

その瞬間、誰かが息を呑んだ。


次に広場が見たものは、高壇の影から消えた男が、いつの間にか少女の前に立っている姿だった。


ラウラには、その瞬間だけ時間が止まったように見えた。


彼の行動に迷いはなく、称賛を求める感情も無い。

ただ、目の前の命を守るという意思だけがあった。


重い衝撃音が男の背中に響き、石は力なく足元に転がる。


「……怪我はないな。もう大丈夫だ」


恐怖に身をすくませていた少女が、その低く静かな声に導かれるようにして、恐る恐るまぶたを開く。


少女の視界を覆ったのは、巨大な「黒」だった。


夜より深い色の無骨なロングコート。肩から背を覆う灰色の毛皮襟には、たった今受けた石の粉塵が白く残っている。

高壇の上に立つ女王の眩い白銀すら飲み込まんとする、目の前にそびえ立つ男の無機質な黒。



「──見誤ってはなりません!」


高壇のラウラの一声を皮切りに、広場を静寂が覆い尽くしていく。

その瞳に宿るのは、恐怖ではなく静かな覚悟だった。


「敵も、味方も。弱い者も、強い者も……この国に生きる者である限り、そのすべてが私が背負うべき民です」


凛とした声が、静まり返った大気を伝っていく。


「……私は、父を殺した男を許したわけではありません」


「ですが、王が怒りに身を任せ、誰か一人の首を落として終わるなら……その王冠に意味はない。私は真実を知る。その為に、敵だった男の命を預かる。それが──私が選んだ、最初の責務です!」


万雷の拍手など起きない。誰も納得などしていない。

ただ、重苦しい沈黙だけが広場を支配していた。民はただ、怒りの行き場を失い、戸惑いとともに立ち尽くしている。


城の深き影の中で、誰かが苦々しく舌打ちを漏らす音が聞こえた。





民衆が去り、地下通路へと引き揚げたラウラの身体を、激しい震えが襲った。

壁に手をつき荒い息を吐くと、暗がりから歩み出たマティアスが冷徹な声をかけた。


「……随分と無茶をなさる」

「民を守るのが王の役割です」


「……あの扇動は罠でしょう。あからさま過ぎる……様子を見た方がいいでしょう」

「……やはり、気づいていたのですね」


「……ええ。ですが、私が言葉を発した瞬間、陛下の命はなかった……陛下をお守りするための沈黙です。どうかご理解を」


彼に助けられたことを、民に知られてはいけない。

それを知られれば、私は「灰狼に守られた女王」になる。


ラウラは深呼吸し、白い手袋を冷たい石壁から離すと、まっすぐに前を見据えた。


「これからも黙っていなさい。私が……この国の王である限り」





大広間へ戻ったラウラを待っていたのは、並び立つ四家老の姿だった。

最前列に立つ第一家老ガルドが、柔和な笑みを浮かべて恭しく深々と頭を下げる。


「見事なご演説にございました、女王陛下。亡き先王陛下も、泉下せんかにてさぞ誇らしく思われていることでしょう」


ラウラは氷のような視線を向けた。


「……皮肉のおつもりですか、ガルド卿」

「滅相もございません」


ガルドの言葉に偽りはない。

だからこそ、ラウラは寒気を覚えた。


この男は自分を敬っている。

だが、それはラウラという少女ではない。


王冠を戴いた存在だけを見ている──。


ガルドが封書を差し出す。

先王の書斎から「発見された」という遺状だ。


蝋封を割ると、そこに躍っていたのは紛れもない父──アルヴェイン・アステリアの筆跡だった。



『奴は我が国の敵である。

だが、真実を知る唯一の者でもある。


決して殺すな。

王として命じる。

奴の口から、すべてを聞け。


──アルヴェイン・アステリア』



大広間の空気が凍りつく。

四家老の一人が、静かに宣告した。


「……陛下。先の誓いを覚えておいでですね? 『事態が紛走せばこの首を差し出す』と、我らに宣誓された。この遺状が出た以上、すでに『事態』は動いております」


影から歩み出たマティアスが割り込む。

「……なるほど。先代陛下は、最後まで王であられた」


四家老が顔色を変える。

「貴様……控えよ!」


「もし、先代陛下が私を犯人だと確信しておられたなら、このような書き方はしない。『殺せ』ではなく『聞け』と残された。と書けばいい」


「つまり──先代陛下は私を単なる罪人として裁くことよりも、真実が闇に葬られることを恐れたのだ」


灰色の瞳が、殺気すら孕んで書面を射抜く。


「私は敵国の将だ。疑われて当然、憎まれて然るべき存在……だが、アルヴェイン王が遺した最後の命令は『罪人を殺して積憤せきふんを晴らせ』ではない。『真実を失うな』だ。違いますか、老将方」


引き結んだ薄い唇の間から、ラウラのかすかな吐息が漏れて消えた。

父はマティアスを信用していたわけではない。だが、信用できない敵にすら託さなければならないほどの「何か」が、あの夜に隠されていたのだ。


父は最後まで、私に答えを残さなかった。

ただ、問いだけを残した。





再び静まり返った地下通路。

燭台の炎が、二人の影を揺らしている。


ラウラは暗闇を見つめた。

「……貴方は、最初から分かっていたの? 父上があのような私録しろくを遺していたことを」


マティアスは影の中から応じた。

「いいえ……ただ、敵は城の奥深く、玉座の周囲に潜んでいるとばかり思っておりました」


静寂が、二人の間に重く横たわる。

「……だが、私の見立ては甘かったようだ」


灰色の目が、仄暗い通路の先を見据える。

「敵は城どころか……この国の血管のすべてに、すでに毒のように回っている」


「敵は、敵の姿で現れない」

「この国では……正義の顔をして、隣に立っている」



地下通路を抜け、ラウラが自室へ戻る。

護衛の近衛が扉を開いた。


「今夜はもう、下がっていいわ」

「……失礼いたします、陛下」


短く応じ、いつものように一人になる。

重い扉が閉まり、静寂が部屋を満たした。


だが──机の前で足が止まる。


何かが違っていた。


窓は閉じている。鍵も掛かっている。

調度の配置も、何一つ変わっていない。

それでも──違和感だけが、肌を刺すように残っていた。


王族として長年叩き込まれた感覚が、警告を発している。

自分の部屋に、自分ではない誰かの気配があった。


机の上に、一枚の紙が置かれていた。


封蝋はない。王家の印もない。

ただ、冷たい黒い文字だけが躍っていた。



『親愛なる女王陛下へ


あなたの瞳は、偽りを許さない。

だからこそ、あなたは彼を信じた。


だが、考えたことはないか。

彼が語る過去。

彼が信じる正義。

彼が抱える罪。


それらすべてが、

誰かによって与えられた記憶だったとしたら。


あなたの瞳は、

その男自身も気づいていない、偽りを見抜けるのか』



血の引きつくような静寂の中、ラウラはその紙片を固く握りしめた。

この人物は、自身の存在を脅かす者から身を守るため、瞳の裏に潜ませ続けた真偽眼トゥルー・ヴィジョンを知っている。そして、マティアスの過去も──。


初めてだった。

真実を見る瞳を持ちながら、自分が何を見落としているのか分からないと思ったのは。


ガタリ、とノックの音が静寂を破った。


「陛下? 入りますよ」


侍女のセレスの声だ。

ラウラは息を呑み、反射的に手紙を胸の奥へと押し隠した。


扉が開く。

誰にも言えない致命的な疑念──


「マティアスという男の存在そのものへの恐怖」を抱えたまま、

新しき女王は静かに振り返った。

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