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灰狼と真偽眼の女王──誰も信じられない女王が唯一手にした剣は、父王を殺した敵国の司令官だった。  作者: 比古狭霧
第一章 灰狼と若き女王

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第一話 敵を剣とする

白銀の刺繍が施された王衣の裾が、地下牢の冷気にわずかに揺れた。

鉄格子の奥で、銀灰色ぎんかいしょくの髪を垂らした男が静かに座っている。灰色の瞳が、ゆっくりと上げられた。


「……なぜ、私の父を殺したのですか」


ラウラの声は低く、抑えていた。

男は答える。


「先代国王は、我が帝国と長年敵対しておられました。それ以外に理由が必要でしょうか、女王陛下」


鉄格子を握る指に、じわりと汗が滲む。

淡い青銀色の瞳が、徐々に金色へと変わる。


真偽眼トゥルー・ヴィジョンが映し出すのは、言葉の真偽だけではない。

男の内側に沈む感情の輪郭までが、ぼんやりと浮かび上がる。


怒りではない。野心でもない。

深い、静かな悲しみだ。


「……貴方は、嘘をついている」


男の表情は変わらない。


「買いかぶりです、陛下。私が真実を語ったところで、死した父君が還るわけではない……王という孤独を知る者はみな、己の父だけは正しくあってほしかったと願うものです」


「余計な情けは要りません。問いに答えなさい」


まっすぐに見据える若き女王に対し、男の声音に揺らぎはなかった。


「理由を知れば、また誰かが血を流します。私一人の首で終わるなら、それで十分でしょう」


沈黙の後、ラウラは静かに告げた。


「……分かりました。明朝、断罪の儀を執り行います」


「謹んで申しつけを承ります、陛下」





城下の灯火が遠ざかるほど、胸の奥の疼きは消えない。


父である国王を殺した仇将きゅうしょう

グランヘイム帝国第一軍司令官、通称『灰狼アッシュウルフ』。


戦場で敵を屠り、味方を守り続けたという噂は、死を目前にしてなお兵士たちの間で息を潜めて語り継がれている。ある者は彼が敵の糧道を断つために自ら泥にまみれたと囁き、ある者は捕虜の子供を見逃したと伝える。


英雄譚か、ただの戦の残骸か。

どちらにせよ、あの男が父の命を奪った。それだけは揺るぎない事実だ。


だが、真に父の死を望んでいたのか。


その問いだけは、真偽眼トゥルー・ヴィジョンをもってしても、暗闇の底に沈んだまま答えを返してはくれなかった。


殺してしまえば、その「何か」は永遠に闇に沈む。

自分が女王として最初に下す決断が、父の死を覆い隠すための方便に過ぎないのかもしれないという疑念が、冷たい床を這うように広がっていく。


猜疑さいぎは消えない。むしろ、深く根を張った。

振り払うように彼女は剣を握ったが、傷だらけの木人を前に、何度振っても形にならない。


侍女が心配そうに声を掛ける。


「陛下は、王家の魔法適性が存在しないのですから……」


「だから、剣を振るのよ」


古い記憶が、ふと蘇る。

幼い頃、お忍びで街に出た日。庶民の服に身を包み、わずかな供だけを連れて歩いていた時、魔物が襲ってきた。侍女は逃げ、衛兵は倒れ、自分は木箱の陰で震えていた。


その時、背中に大きな傷を負った兵士が現れた。

名前も知らない青年は、魔物を屠った後、血まみれの顔で言った。


「……肩書で、命を護るわけじゃない」


それだけ言って、お礼を言う暇も与えず去った。

真偽眼トゥルー・ヴィジョンを通して見た彼は、真実を語っていた。


顔も、名も、覚えがない。

ただ、その背中の傷だけが、今も鮮明に残っている。


王とは守られる者ではなく、誰かを護るために立つ者なのだということを、あの日はじめて知った。





処刑の朝は、霧のように重かった。


高窓から差し込む青白い光さえ、地下牢の闇を十分に割り切れない。石の壁に染みついた湿気が、剣を構える兵士たちの息を白く染める。


激しい金属音が地下牢に響き渡った瞬間、床に二つに割れた鉄枷の破片が転がる。


「……これは」

「なんの戯れですか、陛下」


剣を鞘へ納める動きに合わせ、群青色の上衣の袖口から覗く白布がわずかに揺れた。

細い手首を飾るものは宝石ではなく、王家の紋を刻んだ銀の留め具だけだった。


「許したのではありません。貴方を利用するのです。真相を知る貴方を殺せば、証拠の破棄と同じ……それ以上に、貴方は自分が死ねば国が救われると思っている」


マティアスの眉が、ほんのわずかに動いた。予想していたのは、憎しみによる断罪だった。


「ですが、王である私にはその選択を認めることができません。一人の命で済ませることは国を救うことではないからです。父が何者だったのかを知る義務がある以上、真実を語るその日まで、貴方の命は私が握ります」


その言葉を遮るように、鉄格子の向こうから四人の影が踏み込んできた。


第一家老ガルド・フォン・ローゼンが最前列で声を張り上げる。

宮廷の長老で、王家第一を掲げる保守派だ。


「陛下、正気でいらっしゃいますか。敵を信用するなどあり得ませぬ。万一のことがあれば、この国はどうなります。責任は、いかように取られるおつもりです」


第二家老エドモンド・ヴァイスが、数字だけを見るように淡々と続ける。


「財政上の負担も計り知れません。捕虜一人の維持費すら、すでに圧迫いたしております。合理的な判断を」


第三家老ベルナール・クロイツは軍務を預かる男だ。マティアスを睨みつけ、声を荒げる。


「この男に何人も部下を殺されたのですぞ。私怨を忘れてはなりませぬ」


第四家老セドリック・オルフェンだけが、やや柔らかく口を挟む。


「……陛下のお考えにも一理ございます。ですが、国を率いる以上、情だけでは済みますまい」


その傍らに、静かに立つ男がいた。王国近衛騎士団長、レイナルド・アルヴィス。

若いが実力は団内最強とされ、寡黙で感情をほとんど表に出さない。


マティアスは一瞬だけ灰色の目を細めた。レイナルドもまた、灰色の瞳を静かに見返していた。

互いに言葉はない。ただ一瞬だけ、戦場で生き残ってきた者同士だけが持つ空気が流れた。


「……危険です。敵将を陛下の近くへ置くべきではございません」


ラウラは静かに腰の短刀を抜いた。

刃を自らの首筋に当てる。薄い皮膚が裂け、一筋の血が白い肌を伝って落ちた。


「……もし、この者が我が国に刃を向けたら、この首を差し出しましょう」


家老たちの顔が硬直する。その瞬間、レイナルドが真っ先に踏み出した。


「おやめください! 陛下」


敵将を前にした時よりも早い反応だった。

ラウラは刃を納めず、静かに彼らを見据える。


「その言葉、忘れませんぞ……下がれ」


彼女の合図で、兵士たちが四家老を牢外へと促した。

扉が閉じ、血の匂いだけが残る。


レイナルドは黙ったまま一歩下がった。その姿を見たマティアスの脳裏に、遠い戦場の記憶が蘇る。

──己の命を盾に、誰かを守ろうとした者の背中だった。


「……私は陛下の臣下になるために、牢に入ったのではありません」

「分かっています」


「……先代国王を殺した罪を背負うために、ここにいる」

「それでも、私は貴方を殺さない」


「民に何と申し開くおつもりですか」


真偽眼トゥルー・ヴィジョンは静かに示している。この男の言葉に、偽りはない。

しかし、それが無実を証明するわけではないのだ。父の命を奪ったという事実は、何ひとつ変わっていない。


復仇を果たすなら、今ここでこの男の首を跳ねればいい。

だが──目の前の男を奪うことは、父の死に隠された真実を自ら暗闇に葬る行為と同義だった。


仇を討つ私情か。真実を暴く王たる責務か。

父の死を一人の男の首で終わらせる王など、王ではない。


ラウラは感情を意識の底へ押し殺し、覚悟を込めて言葉を紡いだ。


「申し開きなど、必要ありません。父の死を一人の男の首で終わらせる王は、王ではない。真実が明らかになるまで、この国は私と共に待ち続けます。貴方の死を望む者がいるのなら、その者たちに、私の選択を見せてやるだけです」


両者の間に、極限まで引き絞られた弦のような静寂が横たわる。


やがて男の胸が一度だけ大きく上下し、静かな諦絶とともに、その身体が低く傾いた。

石の床へ、ゆっくりと膝が落とされる。


「……承知いたしました。ならばこの命、真実の扉が開くその日まで、陛下の足元に」





薄暗い地下通路に、二人の足音だけが重く響く。

王城の最深部に幽閉されていた敵国将軍が、いまや女王の半歩後ろを歩いている。


先導する兵士たちは振り返ることすらできずにいた。

レイナルドもまた、無言で先を行く。


「……陛下」


「後悔なら聞きません」


撥ね退けるラウラに、マティアスは淡々と告げる。


「……先ほどの判断について一つ申し上げます。感心いたしました。王という立場にありながら、最も都合の悪い可能性から目を逸らされなかった」


その声には、戦場で無数の命を背負ってきた宿将しゅくしょうだけが持つ独特の重みがあった。


ラウラの能力は、この男が嘘をついていないことを示している。

だが、真実のすべてを語っているわけでもない。


二人の足が、通路の途中で静かに止まった。ラウラは振り返らない。

ただ前を向いたまま、声だけを後ろへ落とした。


「……ひとつ聞きなさい、マティアス。貴方ほどの男ならあの夜、城を抜け出すこともできたはずです。なぜ逃げずに捕らえられる道を選んだのです」


「逃げれば、どうなると思われますか」

「……貴方が消える」


「ええ。『犯人』が消える」

「それだけですか」


「まさか……疑いの刃が城の内側へ向けられるだけのこと」


ラウラが咄嗟に振り返る。


「……内側?」


「私一人で成せるほど、この城は甘くない……複数の手が回っています」

「……では、牢に残ったのは」


「私という不忠の悪人が繋がれている間だけは、彼らも動く必要がない。ただそれだけです」


地下牢の湿った冷気を背に、平坦な石の通路を進んでいく。

壁に並ぶ松明の火が揺れ、先を行くラウラの足元に長い影を落としていた。


不意に、後ろの靴底が石を打つ音が途絶えた。


「先代国王が死の間際、最後に守ろうとしたものは……」


喉の震えを静かに抑え込み、ラウラは振り向かぬまま背中の声へと問いを落とした。


「……父が、何を守ったというのです」


男の声が、湿った石壁に低く反響する。


「それは……陛下、貴女です」


「私が牢に囚われていた間、奴らの動きは止まっていた……ですが、腑に落ちない。敵は陛下の即位をあれほど恐れていたはずだ」


『ラウラよ。お前の眼は誰にも明かしてはならない。真実を視抜く者は、最初に狙われるからだ──』


幼い頃から、父が繰り返した言葉。冷えた刃のように思考の輪郭を削っていった。


本来なら安全であるはずのこの場所のどこかに、父を殺した者が潜み、自分が女王となった姿を静かに見つめている──。





階段を上がり地下牢を抜けると、王城の空気が一変する。

暖かな灯りと磨かれた床、整然と並ぶ騎士たち。


思考の輪郭が薄れ、わずかに意識の糸が弛んだ、まさにその一瞬だった。

背後で殺気よりも早く、金属の擦れる音が跳ねる。


最後尾にいた兵士の掲げた刃が、無防備な若き女王の背へと一直線に振り下ろされる。

長年側近として護衛を務めてきた男が柄に手をかけ、剣を半分引き抜いた時には、すでに勝負は決していた。


視界を黒い影が遮る。


先ほどまで囚人として繋がれていた男が割り込むや否や、襲撃者の腕を骨ごとねじり上げた。

宙に跳ね上がった剣を掠め取るのと同時に、間者となった兵士をそのまま冷たい石床へ叩き伏せる。


「な、なぜ助ける! お前にとっても敵国の女王だぞ!」


死を覚悟した瞬間だった。しかし、訪れたのは刃の感触ではなかった。


「……敵だろうと、死なせたくない者は死なせない。それだけだ」


レイナルドが無言で間者の関節を外し、剣を蹴り飛ばした。後は拘束するだけだった。


「近衛騎士団長殿……見事な足運びです」

「お褒めに預かり、光栄です」


ラウラは足を止めず、静かに告げた。


「……マティアス。貴方の目的を果たすつもりなら、剣となり私を護りなさい。ただし、信頼したわけではありません」


「……信じていただく必要はありません」

「護ると決めた以上、この命に代えても果たすまでです」





その夜。王城の暗闇の中で、一枚の紙が静かに燃え落ちていた。

残された『灰狼、処刑失敗』『女王、即位』の文字を見つめ、影が低く呟く。


「……予定とは違う。それでも構わない。まだ誰も、自分が駒であることに気付いていない」


指の間から零れ落ちる灰を見下ろしながら、影は暗闇の中へと溶けていく。


「王は最後の最後まで何かを隠した。帝国も、王国も、そして灰狼自身も……まだ辿り着いていない。残されたものが何なのか、それを手にするのは誰だろうな」

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