第十二話 変わらぬ背中
「全軍──殲滅せよ!」
クラウスの冷徹な号令が地下広間に落ちると同時に、黒い外套を纏った帝国兵の群れと瓦礫の隙間から溢れ出した魔物たちが、逃げ場のない狭隘な空間を埋め尽くすように押し寄せてきた。
「陛下から離れるな!」
灰狼が叫ぶと同時に、レイナルドが白い刃を一閃させて躍りかかった魔物の首を叩き斬るものの、押し寄せる敵の圧倒的な質量は二人の騎士の足場を容赦なく削り取っていく。
だが、その血と鉄の臭いが渦巻く混沌の只中で、ただ一箇所だけ、異様なほどの密度で血煙を吹き上げさせている場所があった。
迫り来る兵も魔物も等しく一太刀で石床へ沈めていく灰狼の剣技には一瞬の澱みもなく、かつて大陸全土を震撼させた『帝国の灰狼』の名に違わぬ流麗な斬撃が、迫り来る脅威をことごとく排除し続けていた。
甲冑と刃が激しく噛み合い、火花が散る。
レイナルドは一歩も退かず、押し寄せる帝国兵を次々と斬り伏せる。
だが彼は前へ出られなかった。
ラウラを護る防衛線。その中央を支える彼が動けば、たちまち陣形そのものが崩壊する。
「左翼、詰めろ! 中央は下げるな!」
飛び交う怒号。
帝国兵は倒れてもなお、後続がその隙間を埋める。
まるで壁そのものが前進してくるようだった。
「……押し返せ! 一歩でも下がれば終わるぞ!」
その防衛線のさらに外側。
誰も踏み込めない死地を、ただ一人駆け抜ける影があった。
黒鋼の刃が閃く。
迫る帝国兵も魔物も、一太刀ごとに道を切り開いていく。
「……右を崩すな。一歩たりとも通すな!」
マティアスの一喝が飛ぶ。
剣を振るいながらレイナルドが低く笑う。
「灰狼殿は陛下のお護りを! ここは騎士団長の名において引き受ける!」
その二人の背中を後方から見つめながら、ラウラは王位の裾を固く握りしめたまま、何も掴めずに震える己の手を見つめていた。
マティアスの刃が走るたびに兵が倒れ、魔物が裂け、その隣でレイナルドが血吐く思いで敵を食い止めているというのに、自分だけがその戦いの輪の外側に取り残されている。
胸の奥で何かが静かに軋みを上げた。
魔法大国と謳われる国の女王でありながら、この窮地を打ち破る魔法一つ紡ぐことすらできない己の身体がひどく呪わしい。
誰かが傷つき、誰かが命を懸け、それでも自分は背中の後ろでただ護られることしかできない。
握り締めた指先が白く変色していく中で、下手に前へ出れば二人の剣を鈍らせてしまうという冷酷な現実が、動くことすら許されない無力感を何よりも強く突き付けていた。
気付けば三人の周囲は完全に敵軍によって埋め尽くされており、レイナルドの防衛線が限界を迎えた隙を突いて一匹の魔物がラウラの背後へ鋭い爪を立てて襲いかかる。騎士団長の剣は届かず、マティアスもまた正面の敵群に阻まれた絶体絶命の瞬間だった。
崩落した天井の隙間から、殺気立った大音声が降り注ぐ。
「──放て!」
直後、頭上から叩きつけられたのは、軍制魔法の容赦ない無差別掃射だった。
幾重もの炎と雷光の柱が石床を穿ち、ラウラへ迫っていた魔物の肉体を、骨ごと一瞬で爆散させる。衝撃波と肉煙が地下広間を吹き荒れた。
「ご無事で何よりにございます、女王陛下。ここから先は……我ら四家老がお引き受けいたします」
声の主は、地下聖堂を囲む上層回廊に姿を現した四家老の老魔導士たちだった。
その背後には、王国最高峰の魔導士隊が続いている。
冷酷な戦術眼のまま即座に次弾の詠唱へと移る。
背後に展開した魔導隊の杖が一斉に光を帯び、絶望的な数で押し寄せる帝国兵の頭上へ、王国軍の総力を挙げた威圧の火網が展開された──はずだった。
だが、広間に響いたのは味方の歓喜ではなく、喉を詰まらせるような悲痛な呻きだった。
叩きつけられたはずの巨雷が、黒い外套の表面を滑るようにかき消える。
猛威を振るう火炎は熱量すら奪われて霧散し、降り注ぐ氷柱は甲冑に触れる前に虚空で瓦解した。
「……な、なにが起きている」
杖を構えた若い魔導士の指先が、激しく震え始める。
「魔力が……通らない……! 打ち消されているのではない、吸い上げられている……!?」
「取り乱すな!」と老魔導士が怒号を飛ばすも、その顔からは急速に血の気が引き始めていた。
線で魔物を叩き伏せていたレイナルドが、殺気と熱風の渦中で苦笑を浮かべた。
「まったく……帝国という国は、最後まで厄介な置き土産を残してくれる」
押し寄せる兵の首筋を躊躇なく切断しながら、マティアスが低く応じた。
呼吸すら乱さぬその声には、死線をくぐり抜けてきた者特有の、冷え切った現実感しかなかった。
「おそらく、皇帝直属の試験兵器だ。術を打てば打つほど餌になる」
「囲まれます……! このままでは完全に退路を絶たれる!」
「……背を丸めろ。一歩でも下がれば死ぬぞ!」
「……陛下だけには、如何なる刃も決して届かせるな!」
寸分の乱れもなく剣を構え直し、レイナルドと背を預け合ったマティアスだったが、どれほど倒しても隙間を埋めるように押し寄せる帝国兵によって、三人は崩れた柱を背にして戦うほかなくなっていく。
その時、崩落した天井の向こうで黒い筒状の魔導兵器の先端に埋め込まれた紫色の魔石が禍々しく膨張した。
「滅びゆく王国の残党どもよ……ここで潰えよ!」
凄まじい衝撃波が地下広間を吹き荒れた直前、ラウラの視界をマティアスの背中が完全に覆い尽くす。
熱風と破壊の轟音が広間を包み込み、清冽な女王を抱え込んで背中で衝撃を完璧に受け止めたマティアスの背から、鮮血が初めて舞い散った。
瓦礫の陰に潜んでいた魔物はその一瞬の隙を見逃さず、長槍のような爪をその無防備な背中へと深く突き立てる。
「灰狼殿──!」
飛び込んだレイナルドの剣が襲いかかる魔物の首を断ち切る。
思わず石床へ膝をついたマティアスの背中から、流れる赤がみるみるうちに冷たい石を濡らしていった。
白銀の刺繍が施された王衣。その裾を握り締めたまま、若き女王は立ち尽くしていた。
目の前で命を削り、自分を護る為に血を流す者たちがいる。
それでも、自分の手には何もない。
胸を締め付けたのは、崩れゆく戦況でも迫り来る敵でもなく、また誰かの背中に守られているという事実だった。
それは幼き頃に魔物に襲われたあの日、何もできなかった自分の前で、名乗ることもなく命を懸けて立ちはだかってくれた青年と重なる。
護られることしかできなかった小さな自分が最後に覚えているのは、恐ろしい魔物の姿ではなく、傷を負い、血を流しながらも決して倒れなかった一人の青年の大きな背中だった。
崩れ落ちそうなその肩を抱きかかえながら、ラウラは震える声で言葉を絞り出した。
「……なぜ、あなたは……そこまでして、誰かを護ろうとするのです……」
「貴方は、帝国の英雄だったはずです。多くの兵を率い、多くの命を背負ってきた……それなのに、どうして今、私一人の為に」
背から流れ落ちる血を顧みることもなく、マティアスはただ迫り来る敵だけを見据えていた。
傷ついているのは明らかなのに、その瞳には痛みも恐怖もない。
あるのは、ただ目の前にいる命を護るという、揺るぎない意思だけだった。
そして、静まり返った地下広間に、低く、重い声が響いた。
「私は……肩書で、護るべき命を決めておりません」
「敵国の女王陛下だろうと、誰であろうと……私が、死なせたくないと思った者は死なせたくない。それだけです」
その言葉を聞いたラウラは、目の前に揺れる銀灰色の髪と血に濡れた背中をただじっと見つめていた。
敵国の将であり、父王を討った因縁の男だと、自分に言い聞かせ続けてきた存在。
けれど──傷つき、血を流しながら、それでも誰かを護る為に立ちはだかるその背中だけは、幼い自分が初めて見たあの日から、何ひとつ変わっていなかった。




