第十一話 帝国を愛した男
セレスの告白が地下広間に落ちた直後、
彼女の身体から一気に力が抜け、膝から石床へと倒れ込んだ。
「セレス──!」
ラウラが咄嗟に手を伸ばすより早く、レイナルドが滑り込むようにその身体を抱き止める。
煤と涙に汚れたセレスの瞼は重く閉じられ、呼吸は浅く荒い。
「……陛下、私にお任せを。おそらく、一時的な昂ぶりによるものです」
レイナルドが駆け寄りると、セレスを不死鳥像の足元へと運び、静かに上着をかける。
広場には再び、重苦しい静寂が満ちていた。
ラウラは倒れたセレスからゆっくりと向き直り、壁側に佇む黒い外套の男を金色の瞳で見つめた。
真偽眼が映し出したのは、
セレスの記憶に偽りがないということだけだった。
だがそれは、真実の証明ではない。
人は時に、偽られた過去すら本物として抱えて生きる。
「……マティアス。今の言葉は……セレスの告白は、真実なのですか」
問われた灰狼は瞳を一瞬だけ閉じ、その銀灰色の頭を下げた。
「……真実です」
「……私は十七年前、この場所へ向かいました」
マティアスが苦い記憶を辿るように、低い声で切り出す。
「王妃エレナ様と、幼い陛下を暗殺の憂い救い出すために……この地下聖堂で合流し、二人を連れ王都から脱出する。それが、十七年前にアルヴェイン王が立案した救出作戦でした」
「父王が……? では、なぜ母妃は……」
「当時、王都は強襲を受け火の海と化していました。その道中、焼け落ちた瓦礫の上で……独り佇む幼きセレス様を私が保護しました」
「しかし、王妃様と地下聖堂で合流した直後──セレス様の様子が突然変わりました。まるで何者かに心を奪われたように錯乱し……いつの間にか手にしていたナイフで、王妃様を……刺したのです」
「……最初から操られていたのか、あの場に潜んでいた何者かに操られていたのか……真相は、今も分かっていません」
マティアスは、その拳が震えるほどに、強く握り締めた。
「元国王陛下が地下聖堂へ到着された時、王妃様はすでに瀕死でした。それでも、最後の力を振り絞り……こう仰いました」
『この少女は悪くありません』
『どうか……責める事なくこの先も、見守ってあげてください』
「王妃様は真実を視抜き、最期まで幼きセレス様を守ろうとされていました……それが、私の知る十七年前の事件の全貌です」
「……でも、まだ分からないことがあります」
「なぜ、父王は貴方に……殺されなければならなかったのですか」
「……元国王陛下は帝国との和平を進めていました」
「戦うためではなく、終わらせるために。そしてそれは、私も望んでいた事です」
「ですが、それを望まない者たちがいた。帝国内の強硬派は、和平を進める元国王陛下を消そうとした」
「そして、悟られたのです。ご自身の命と引き換えにしか、この国の未来は残せないと」
「それでは、貴方は──」
「最後の王命を……果たしたのです」
「元国王陛下が最後に守ろうとした、この国と和平の未来を残す為に」
その時だった。広場の天井を突き破るように、地上の音声を増幅させた禍々しい魔法拡声の声が地下深くまで響き渡った。
◇
『──アストレア王国女王、ラウラ・アストレア。ならびに元帝国将校、灰狼マティアス・アッシュ』
冷徹な声が、石壁を激しく振動させる。
『第一軍司令官代理クラウス・ヴァイス、第二軍司令官エルンスト・グライフ、第三軍司令官オットー・シュヴァルツ、第四軍司令官ヴィクトール・ライナー。帝国四翼、王城ならびに地下聖堂全域を完全包囲──!』
地上から響く怒号に混じって、マティアスの視線が一瞬だけ細くなった。
崩れた天井の向こう、隊列の最後方。数名の兵士が、両腕で抱えるほどの黒い筒状の兵器を慎重に運び込んでいる。先端には幾重もの金属環。鈍く脈打つ紫色の魔石。
その異様な形状を見た瞬間、マティアスの表情が凍りついた。
「……あれか」
レイナルドが眉をひそめる。
「灰狼殿、あれが何かご存じなのですか」
「あれは帝国軍の兵器ではない。帝国が存在を隠していた、研究局直属の魔導兵器だ」
「では、あの夜の襲撃も……」
「ああ。私が襲われたのも、あれと同型の兵器だろう」
『北門突破──東側城壁および西門封鎖完了! 全軍、投降勧告を開始せよ! 武装解除せぬ者は即刻鎮圧する!』
レイナルドの顔色が一変し、小さく呻きを漏らした。
「……四翼が、すべて動いているのか」
マティアスの表情も急速に険しくなる。
燃え盛る天井を見上げるその瞳に、かつてない警戒の色が走る。
「帝国は一国を落とす時ですら、四つ全てを同時には動かさない」
「それは侵攻ではなく、国家そのものを潰す時の布陣だ」
ラウラの細い指先がわずかに震える。
「……では、これは王国を制圧するためではなく」
「最初から、この場所にいる者を消すためです」
マティアスは静かに剣へ手をかけた。
レイナルドが周囲を見渡す。
「……上層への経路はすべて封鎖されています。敵は逃げ道を残すつもりがないようだ」
地下聖堂を満たす炎の向こうで、帝国の殺意だけが近づいていた。
◇
「……陛下。まだ、生き延びる為の道を探すなら、今しかありません」
周囲を見渡し、低い声で告げるレイナルドの言葉が意味するものを、ラウラは理解していた。
帝国への降伏。
それは王としてではなく、ただ一人の命として助かる道だった。
燃え盛る城内では、誰もが生き残るための道を探している。
それでも、この国の象徴である自分が最初に剣を置けば、この先誰が立ち上がれるというのか。
ラウラは震えていた拳を、ゆっくりと握り直した。
それは、静かな声だった。
「この国を捨てて、誰かに許しを乞いながら生きるくらいなら……私はここで、最後の瞬間まで女王として立ち続けます」
その答えに、レイナルドは目を伏せた。
止める言葉は、もう必要なかった。
かつて真偽眼によって見えるすべての真実に怯え、人を信じることを恐れていた少女の姿は、もうどこにもない。
すべてを知ることではなく、不完全な世界の中で、それでも誰かを信じることを選んだ一人の若き女王が、そこに立っていた。
マティアスは、しばらくその誇りある佇まいを見つめていた。
自分が護るべきだった少女は、いつの間にか、自分の足で運命と向き合う存在になっていた。
やがて、灰狼は静かに息を吐く。
「……陛下」
その声にあったのは諦めではない。
彼女の覚悟を受け入れるための、静かな決意だった。
「ならば、私は……陛下が視た道の先を、最後まで見届ける灰狼でありましょう」
次の瞬間、頭上の石天井が地鳴りのような轟音と共に吹き飛んだ。
爆風と石片が地下聖堂へ降り注ぐ。
崩落した天井の向こうから、黒い外套に身を包んだ帝国兵たちが次々と姿を現した。
その侵入に呼応するように、崩れた壁の奥から異形の魔物が這い出し、地下聖堂はさらに混乱へと沈んでいく。
瓦礫の上へ降り立つ帝国兵たち。
その軍勢の奥から、一人の男がゆっくりと歩み出た。
◇
崩落した地下聖堂に、煤煙と静寂が渦巻いていた。
かつて帝国軍の中枢に座していた男は、足元に転がる瓦礫を一瞥し、次いでマティアスへと鋭い視線を移した。
「……随分と醜い姿だな、灰狼」
「お前が直々に来たということは、今回は本気のようだな」
眉根ひとつ動かない男へしびれを切らすと、クラウスは不快そうに視線を逸らし、背後に控える兵たちへ顎をしゃくった。
黒い外套を深く羽織った精鋭たち。
魔導を無効化する試験兵装。
帝国がその存在すら伏せ、実戦投入を避け続けていた禁忌の部隊だった。
「……帝国は、何をそんなに恐れている」
クラウスの瞳が、わずかに細まった。
「我らがグランヘイム帝国が恐れている、だと?」
「ここまでの戦力を一度に投入する理由だ。王国でもなければ、手負いの私でもない──帝国は、何を消そうとしている?」
重苦しい沈黙が落ちる。
クラウスの手にあった剣は、抜かれないままだった。
「私はただ、与えられた命令を遂行する……それ以上も、それ以下もない」
「昔のお前なら、そんな空虚な言葉は口にしなかった」
「……私は今、貴様と女王陛下の墓標となる場所に、昔の話をしに来ているわけではない」
その言葉には、怒りも矜持も宿っていなかった。
ただ、長い年月をかけて己の正義を殺し、割り切りという名の諦念を呑み込み続けた人間特有の、乾いた冷たさだけがあった。
「……お前には理解できなかったのだろうな」
「誰よりも早く出世し、誰よりも多くを与えられ、それでも足りなかった」
「第一軍司令官──名誉も地位も、帝国はお前に与えた。それでも、お前は帝国そのものに刃を向けた」
「私には分からん」
「何がそこまでお前を駆り立てたのだ」
「結局、お前は何一つ変えられなかったではないか」
「帝国は、今も昔も変わっていない。恐れるものも存在しない」
「それを変えようとした愚者──お前が消えていくだけだ、マティアス・アッシュ!」
「全軍──殲滅せよ!」




