第十話 灰の記憶
地下資料室の重々しい扉が、石壁を軋ませて開いた。
レイナルドの後ろから現れた影に、ラウラは静かに視線を上げる。漆黒の外套を纏った男──マティアス・アッシュ。灰狼。
薄暗い資料室の中央で、ラウラは削り取られた『帝国特殊任務記録』を両手で握りしめたまま、動かなかった。
羊皮紙の端が指に食い込む。空気は古文書の埃と湿った石の匂いを含み、誰もすぐには言葉を発しない。
「……お呼びでしょうか、女王陛下」
マティアスの声は低かった。だが、ラウラの手元の記録と、足元に散らばる古文書を見た瞬間、アッシュグレーの瞳の焦点がわずかに揺れる。
ラウラは紙片を持ったまま、男をまっすぐ見据えた。
「マティアス。十七年前の王都襲撃──そして、この記録から削り取られた異常な痕跡について」
金色の光が瞳に宿る。
「燃え落ちる王都で何が起きたのか。あの日、セレスはあなたを見たと証言している……貴方の知っている事を聞かせなさい」
灰狼は沈黙したまま、削られた記録の断面を見つめた。
文字だけが世界から剥がされた痕が、羊皮紙の上に黒く残っている。
やがて、低い声が落ちた。
「……私は当時、任務のため部隊を率いて王都にいました。その折、火災の中で取り残されていたセレス様を見つけ、連れ出した。それは事実です」
ラウラは紙片をわずかに傾ける。
「その任務──ここに記された『帝国特殊任務記録』のことですね」
「……事実です。そして──王妃様は、私が関わったせいで落命された」
「あなたが関わったせいで……? どういうことです。任務の失敗と、王妃──母の死が、どう繋がるのですか」
一歩踏み出した、その瞬間だった。
扉の向こうで、見張り兵の声が途切れた。悲鳴ではない。音そのものが、不意に消えたような静寂。
次の瞬間──重い木製の扉が内側へ向かって激しく弾け飛んだ。
廊下を埋め尽くしていた炎の波が、濁流となって資料室へなだれ込む。
炎は前触れもなく床を滑り、書架を駆け上がり部屋を呑み込んでいく。
熱気が瞬時に空間を満たし、息が詰まる。
「──下がれ!」
マティアスはラウラを庇うように抱え込み、床へ伏せた。
頭上を猛烈な熱気が吹き抜ける。燃え広がる異常な火を見つめ、低く吐き捨てた。
「……炎の走り方が同じだ。あの夜の火と、変わらない」
剣を抜き放ち、燃え上がる扉の残骸を断ち切って外の廊下へ躍り出る。
「前は私が取る。レイナルド殿──陛下を」
◇
一歩足を踏み出した城内は、すでに崩壊の音を立てていた。
天井から火の粉が豪雨のように降り注ぎ、あちこちで悲鳴と怒号が交錯する。
逃げ惑う従者や兵士が錯乱して走り、崩れ落ちた燃える梁が廊下を塞いでいた。黒煙が視界を塗り潰し、吸い込むたびに喉を焼ける。
「押し返すな──崩れるぞ!」
「火を止めろ……女王陛下の前だ、乱れるな!」
兵士たちの叫びも虚しく、意思を持つかのように燃え広がる炎の勢いに誰も抗えない。
「ラウラ様──!」
黒煙の奥から、必死に声を張り上げて駆けてくる影があった。
顔を煤で汚したセレスだった。
「セレス! 無事だったのですね……!」
ラウラが声を上げるより早く、マティアスがセレスの腕を取って自分たちの輪の中へ引き入れる。
「ここに留まれば焼かれる。動きましょう、陛下」
「しかし灰狼殿──城内もすでに崩れ始めています!」
「……あの場所なら、まだ持つ。隠し通路へ向かいます。陛下は私の後ろへ」
マティアスを先頭に、ラウラ、セレス、殿を務めるレイナルドの順で、四人は押し寄せる群衆と黒煙を裂くように燃え上がる廊下を駆け抜けた。
前を走るマティアスの外套の裾──そこに残る微かな焦げ跡に、ラウラは先日対峙した帝国使節団の記憶を不意に重ね合わせる。だが、立ち止まる猶予はない。
セレスもまた、追従しながら前を行く男の背中に意識を奪われていた。
迫りくる炎の圧迫の中、泣き声を殺す自分を抱え上げて駆け抜けたあの腕の感触が、記憶の底から痛みを伴って浮上しようとしていた。
◇
追手を巻き、崩落する隠し通路を駆け抜けた一行は、地下聖堂の最奥の広間へと逃げ込んだ。
壁一面に掲げられた色褪せぬアステリア王国旗と歴代の王の名が刻まれた空間を、巨大な白銀の不死鳥像が十七年前と同じく静かに見下ろしている。
ラウラの荒い息が広間に満ちる。
石の冷たさが、熱を帯びた肌に沁みる。
「四家老の言葉に偽りは無かった。この瞳がそう告げています……それなのに、火はなぜ上がったのか」
静寂を破ったのはレイナルドだった。
長年王城の内側を見続けてきた男の目が、細く鋭くなる。
「……陛下。火を放ち資料を焼こうとした者は、おそらく四家老ではありません」
「何故、そうと言い切れるのです」
「四人全員に別々の仕掛けを施し、裏で動きを監視させました……ですが、誰一人として今回の火災に繋がる行動を起こしておりません」
「機会も動機もある四人が、裏で動いた形跡すらない──」
マティアスが低く言葉を繋いだ。
その瞬間、地底を揺らす巨大な衝撃が突き上がった。防壁越しに、地上の兵士たちの叫びが届く。
「火が……! 王都南区画から火の手が上がりました!」
南区画──十七年前、最初の炎が上がり、王都が灰に沈んだ場所。
続いて、城外から地鳴りのような警鐘が打ち鳴らされる。
「北門より敵軍接近! 漆黒の軍旗……帝国軍です!!」
城内の火の手、南区画の炎、そして北門への侵攻。
絶え間なく伝わる地鳴りが地下広間を震わせ、白銀の不死鳥像の影をゆらゆらと歪ませていた。
その中で、ただ一人。
マティアスだけが広間の奥を見つめたまま、微動だにしていなかった。
◇
「……貴方は、この場所を知っているのですか」
ラウラの言葉に、マティアスは静かに目を閉じた。
「……忘れたことはありません」
「十七年前、私は部隊を連れてこの場所へ向かいました」
彼の視線は広間の奥ではなく、分厚い鉄の防火扉へ注がれている。
「王妃様と幼い陛下を助けるために」
「……だがあの時、私は敵が一歩先を読んでいることに気づけなかった」
「ここは、王族が身を隠す場所ではなかった」
「敵が、我々を待つ場所だったのです」
数歩踏み出したマティアスが、防火扉の重い閂を叩き外す。
隙間を開けた瞬間、凄まじい熱風が吹き抜けた。
扉の向こうの通路は、石壁を舐め、天井を這い、出口を完全に押し潰す異常な魔法の炎で埋め尽くされていた。
熱気が一気に広間へ流れ込み、空気が焼ける匂いを帯びる。
マティアスは鉄扉を激しく叩き閉め、重い音を地下広間に響かせた。
「逃げ道を断たれた……ここは最初から、我々の墓穴として用意されていた場所だ」
言葉が落ちた瞬間、漏れ出た炎の熱と爆ぜる音、黒煙の匂いに引きずられるように、セレスの身体が崩れるように震え始める。
その脳裏に、閉ざされていた十七年前の光景が突如として蘇った。
──あの日、意識を取り戻した私の瞳に映った
小さな自分の手には、血に濡れた短剣が握られていた。
その刃が誰を傷つけたのか。
なぜ自分がそれを握っていたのか。
記憶はそこだけを残し、肝心な部分を黒く塗り潰している。
途切れていた記憶の断片が、炎の熱とともに次々と押し寄せてくる。
「違う……! 違う、違う、違う……! そんなこと……私が──!」
掠れた声を漏らし、自分の腕に爪を立てて小さく丸まるセレス。
異変にマティアスが眉をひそめ、ラウラも胸を刺す胸騒ぎに身をかがめて彼女の肩に手を伸ばす。
「セレス、顔を見せなさい。何があったのです」
震える手で顔を覆い、血の気が引いた唇を噛み切らんばかりに揺らすセレスの頬を、涙がボロボロと落ちていく。
やがてゆっくり顔を上げたセレスの瞳には、焦点の定まらない絶望と、歪んだ罪の影が揺れていた。
「申し訳ありません……ラウラ様……私……今、全部、思い出してしまいました……」
ラウラが言葉を失う中、セレスは涙を流しながら、震える唇を開く。
一瞬、炎の爆ぜる音だけが地下広間に響いた。
「王妃様を殺したのは……私なんです」




