最終話 真偽眼の女王
血を流しながらもなお、前に立ち続ける男の背中には、一切の嘘も打算もなかった。
ただ目の前にある命を守るという、変わらない一つの意思だけだった。
白銀の刺繍が施された王衣の輝きを揺らせながら、ラウラはゆっくりと前に出る。
震えていたのは恐怖からではない。もう二度と、誰かの背中だけを見つめて終わるような存在には戻らないという、静かな決意だった。
「……聞きなさい!」
声は決して大きくはなかった。だが、崩壊に瀕した地下広間の隅々にまで、その透き通った響きが伝播する。
「敵が奪おうとしているのは、私たちの命だけではありません……人が人を信じる心です!」
彼女は黒い外套を纏う死の群れを見据え、言葉を刻む。
「私は、すべての真実を見抜くことなどできない。だからこそ……私は自らの意思で選びます。この国には、最後まで誰かを信じ抜く者がいるのだと!」
重苦しい足音とともに、暗がりから一人の男が歩み出る。帝国中央政府直属執行官、クラウス・ヴェルナー。その眼差しには、幾千の命運を机上で裁定してきた者だけが持つ冷たい確信が宿っていた。
「灰狼。貴様は何を失ったのか理解しているのか」
クラウスは静かに告げる。
「帝国最強の将としての地位。皇帝陛下より与えられた名誉。そして、貴様が戻ることのできる唯一の居場所。それらすべてを、たった一人の人間の為に捨てるというのか」
血に濡れた剣を握り直す様を瞳に映した見たクラウスは、小さく息を吐く。
「愚かな男よ……ラウラ・アストレアを討て。そうすれば、貴様の背信については私が皇帝陛下へ進言しよう。これまで貴様が抱えてきた迷いや戯言、そして今回の裏切りさえも、帝国に必要な犠牲だったとして処理できる。灰狼として、再び帝国へ戻る道を残してやる」
背後に控える黒外套の集団から放たれた漆黒の防護障壁が広間全体を押し包む。
帝国に背いた愚者と呼ばれた男は、自らの血に濡れた刃を見つめたまま、静かに言葉を削ぎ落とした。
「……違う」
低く落ちた声が、静寂の中へ沈んでいく。
「私は戻る場所を失ったのではない……ようやく、自分が立つ場所を見つけたのだ。もう二度と、誰かに与えられた理由で剣は振らない。この剣の生き様は、私自身が決める」
「ならば、消え失せよ──」
漆黒の衝撃波が吹き荒れ、傷ついたマティアスが膝をつく。
絶対防御の障壁は一分の隙もなく、どれほど敵の構造を視ようとも、計算された絶対解の前には刃すら届かない。
真偽眼に映る先にあるものは、今までの真実では測れないもの。
まだ存在していない未来を、瞳ではなく自の手で掴み取る勇気だった。
「私はもう、過去の真実だけを見て貴方を決めたりしない──」
金色の両眸に走っていた光が静かに解けていき、眸の芯から、夜明け前の空に残る白磁の月のように、清らかな月雫の環が浮かび上がる。それはどこまでも透き通った、神聖な光の輪郭だった。
そこに息づいていたのは、去りし日の幻影ではない。正解も不正解もない、傷つきながらも一歩を刻もうとする人間の、かすかな、けれど確かな選択だった。ラウラは初めて自分の眼が示す全き世界を疑い、その真実の先にある答えを、自身の裡から紡ぎ出した。
「貴方が何者であっても、何を背負っていても関係ありません。貴方が重ねてきたその意思を、私は信じる──」
王家の血脈に眠る清烈な輝きが溢れ出し、灰狼と彼が握る黒鋼の剣へと流れ込んだ。
黒鋼の刀身に走った亀裂から、薄明に溶ける月のような白銀の光が溢れ出す。
支配の象徴たる帝国の鷲の刻印だけが、静かに、けれど容赦なく砕け散った。闇を湛えた黒と、光を宿した銀。相反する二つの色は、混沌のまま混ざり合うのではなく、互いの尊厳を保ったまま、一本の美しき刃へと収束していく。
それは、過去の爪痕を綺麗に消し去った、無垢な力ではない。
傷だらけの過去を愛おしむように抱き締めたまま、未来へと進むための剣だった。
「帝国の英雄だったことも、灰狼と呼ばれたことも……それは貴方のすべてではありません」
「貴方はもう、誰かに与えられた名で生きる必要はない」
その言葉に、広間を覆っていた帝国の障壁がわずかに揺らいだ。
「構わん、やれ!」
「何が起きる前に、灰狼ごと女王を消し去れ!」
クラウスの鋭い怒号が地下広間に響く。
黒外套の兵たちが一斉に動き、無数の魔法陣が展開されると、障壁が密度の高い黒を増した。
白銀の光を帯びた剣を掲げ、満身創痍の男が鋭く踏み込む。
静かに刻まれた一歩から放たれた黒銀の一閃が、黒と銀の軌跡を描いて漆黒の障壁へと突き立てられた。しかし、絶大な反動が刃を襲い、あと数寸というところで無情にも押し返される。
「無駄だ! 貴様らが何を信じ、何を選ぼうと、帝国の理が敷いた絶対の障壁を覆すことなどできはしない!」
指揮官の嘲笑が響き、黒銀の刃が軋みを上げて悲鳴を上げる。
押し戻される圧倒的な圧迫感の中、マティアスは柄を握る手に血を滲ませ、背後のラウラへと視線を走らせた。
庇われるだけの少女は、もういなかった──共に未来を見据える女王の、揺るぎない覚悟がそこにあった。
ラウラから怒涛の如き白銀の光が流れ込む。二人の意志が混ざり合い、黒銀の刃の密度が極限まで跳ね上がった。
マティアスは地を削りながら足を踏み込み直し、諸手で柄を締め上げる。
「帝国は、人間から迷いを奪った。だが──」
軋む刃が、じりじりと、しかし確実に漆黒の障壁を喰い破っていく。
「迷うことも、間違えることも、選び直すことも! それこそが、人が未来を歩むために残された、唯一の足跡だ!」
二人の重なる意志が、絶対の障壁を真っ向から穿ち抜いた。
「有り得ん……! 揺らぐはずのない理が、なぜ押し負ける……!」
指揮官が驚愕に声を震わせる。
マティアスは諸手で黒銀の刃をさらに深く、容赦なく押し込んだ。
「お前たちが切り捨てた、人の不完全さこそが、今この刃を動かしている……帝国の敗北だ」
漆黒の障壁は木端微塵に爆散し、溢れ出た光の奔流が地下広間を白く染め上げた。
「……バカな!」
打ち砕かれた衝撃を遮るように、指揮官の狂った怒号が響く。
「総員、構えろ! 後続の兵を回せ! ここで一匹残らず──」
その言葉は、最後まで紡がれなかった。
崩壊した広間の奥から踏み出された一つの足音が、広場全体の空気を一瞬で凍りつかせた。
指揮官の口が半開きのまま固まり、黒外套の兵が一斉に息を殺して直立する。
立ち込める塵の奥から、帝国兵たちが左右へと割れ、路を開けた。
帝国を象徴する漆黒の鷲が、深く、禍々しく刺繍された漆黒の外套を纏った──。
帝国皇帝、ヴィルヘルム・フォン・グランツェが歩み出る。
崩壊した地下広間を静かに見渡し、黒銀へと変貌した刀身から白銀の環を宿したラウラの瞳へ視線を移した。
その双眸がわずかに細められる。
「……真偽眼が、そこへ至ったか」
「……灰狼。貴様は歳月を経た今でも、帝国と王国が共に歩めるなどと信じているのか」
「人は争います……裏切りもします。私自身、それを止められなかった」
「剣では国は従わせられても、人は決して従わない……誰かが諦めた時、その未来はそこで終わる」
「だからこそ私は……信じる事を諦めない」
「……理想論だな」
「それでも……構いません」
「国は……理想では治まらぬ」
「だからといって……恐怖だけでは続きません」
わずかな静寂の後、ヴィルヘルムは小さく息を吐いた。
「……貴様は、最後まで変わらぬ男だ」
「クラウスよ、撤退の号令をかけよ」
「しかし陛下、このまま押し込めば──」
「押し込んだ先にあるものは勝利ではない」
「これ以上は戦ではなく、二国間だけの問題では無くなる。ここで帝国が失うものは、得るものを上回る」
クラウスはなお食い下がろうとしたが、その視線を受けた瞬間、言葉を飲み込み、静かに頭を垂れた。
皇帝は翻り、足音もなく歩み去る。
それに従う兵たちの整然とした足音だけが遠のき、浮遊する塵が消え残る白銀の光を拾って静かに揺れ、やがて冷えた石畳へと沈んでいった。
◇
地下聖堂で起きた戦いは、間もなく波紋となって大陸全土を揺るがした。
魔法を否定し続けてきた帝国がそれを滅ぼすための力を秘めていたこと、そしてその力を打ち破ったのが、かつて敵対していた二人だったという事実は、二大国の間に保たれていた均衡を根底から破砕した。
互いを抑圧することで成立していた偽りの平和は終わりを告げ、絶対的だった帝国の威光が陰ったことで、これまで抑え込まれていた世界の本質が一気に表面化し始める。
魔法資源を巡る隣国との軋轢、流出した帝国兵器の技術を買い漁る商人たち、そして力を持つ者が世界を決める時代は終わったと唱え、魔法の制限と管理を要求し始めた中立小国群の台頭。
それは新たな秩序を求める声であると同時に、誰がその秩序を決めるのかという不穏な争いの始まりでもあった。もはや誰も、敵か味方かという単純な絵図を描くことはできなくなっていた。
玉座の間において、大陸地図の上には新しく届いた無数の報告書が積み上げられていた。
かつて、真偽眼の女王が恐れていたものは人のつく嘘だったが、今その前に広がっているのは悪意による嘘だけではない。
誰も嘘をついていないのに、互いの正義と恐怖が激突するという、あまりにも不完全な世界の姿だった。
「……以前の私なら、この中にある偽りをすべて暴いて正そうとしていたのでしょうね」
若き女王は静かに地図へ視線を落とす。
隣に立つ男は何も言わず彼女を見つめていた。
「でも、今は違います。国を治めるということは、正しさを証明することではない……間違えるかもしれない世界の中で、それでも人と共に歩むこと」
金色の瞳の奥、淡く光る白銀の環がまっすぐ前を向く。
その昔、誰かに護られるだけだった小さな少女は、答えのない世界の重さを背負う王として立っていた。
「マティアス。私には、世界をひれ伏せさせる力はありません。真偽眼があっても正解を教えてはくれない。だから助けて欲しいのです。私の『剣』としてではなく、私と同じ世界を見る仲間として」
男は口元に静かな苦笑を浮かべた。
「……恐れながら、それはできません。私はもう、誰かに与えられた役割として剣を握るつもりはない」
男はゆっくりと腰の黒銀の柄に手を当て、まっすぐに彼女の瞳を見据える。
そこにあるのは盲目的な忠義ではなく、自らの意思でその歩みに付き添うと決めた、深く静かな敬意だった。
「この剣の行き先は私自身が決める。王のためでも国のためでもなく、私自身の意思であなたと共に立ちます、我が女王陛下──ラウラ・アストレア様」
白銀の女王は瞳を潤ませ、けれど最高に晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ……行きましょう」
目の前に広がるのは平和な楽園ではない。
けれど、もう二度と、恐れて瞳を閉じることはない。
◇
後世に編纂された王国年代記には、この日の出来事について次のように記されている。
『真実を見る眼を持つ女王、および灰色の狼と呼ばれた男。
二人の歩みにより始まった時代を、人々は後に「変革の時代」と呼ぶ。
しかし、その始まりの日に彼らが知る由もなかった。
世界を変えたものは、隠された真実を暴く力ではなかった。
不完全なる世界において、それでもなお未来を選び続ける覚覚悟であったのだと』
(了)




