忘れていくもの
「君以外は、もう……何も覚えてない」
君以外。
たったそれだけの言葉の中に、どれだけの人が押し込められているのか、僕には分からなかった。
母さん。
ようすけ。
みお。
父さん。
弟。
それ以外にも、きっとたくさん。
僕の中から消えた人たちは、名前を呼ばれることさえないまま、詩織の外側に追いやられていた。
詩織は泣いていた。
みおは口元を押さえていた。
ようすけだけが、僕から目を逸らさなかった。
「どういうことなんだ? 智也」
その声は、怒っているようにも、泣きそうなようにも聞こえた。
「ちゃんと、話してくれないか?」
ちゃんと。
その言葉を聞いて、僕は喉の奥が詰まった。
ちゃんと話せるなら、こんな状況にはなっていない。
言葉で説明することを、僕は最初から諦めて、床に散らばった紙の中へ手を伸ばした。
何度も紙をめくって探した。
指先が震えて、紙の端がこすれる音だけが部屋に響いた。
ようやく見つけた一枚を、僕はようすけに差し出した。
男の人はゆっくりと受け取り、目を落とす。
そこには、僕の字でこう書かれていた。
交通事故後の高次脳機能障害による、重度の記憶障害。
僕の記憶には、残せる量に限界がある。
新しい記憶が増えると、古い記憶が消える。
ただ消えるのを待つだけでは、何が消えるか分からない。
だから僕は、毎晩、寝る前に選んでいる。
明日も残すもの。
手放すもの。
忘れてもいいものなんて、本当はない。
それでも、選ばなければならない。
読み終えるころには、メモを持つ彼の指が震えていた。
「なんだよ……これ」
さっきまで僕を責めることもできたはずの声が、そこで小さくなった。
「智也くん……」
みおが、僕の名前を呼ぶ。
その声を聞いても、何も戻ってこない。
ようすけは、メモから顔を上げた。
「他のも……見てもいいか……?」
僕はうなずくことしかできなかった。
ようすけは床に膝をつき、散らばった紙を一枚ずつ見ていった。
散らばった紙の中から、自分の名前を見つけるまで、そう時間はかからなかった。
夏目陽介。
最初は、苦手なタイプだと思った。
声が大きくて、距離が近くて、遠慮がなくて。
でも、その印象はすぐに変わった。
立ち止まっている僕の腕を、勝手に掴んで、勝手に前へ引っ張っていく。
強引だけど、嫌ではなかった。
雑だけど、温かかった。
陽介は、僕にとって太陽みたいな人だった。
そんな陽介を僕は今日忘れる。
陽介……ありがとう。
「……なんだよ」
絞り出すような声だった。
「そんなふうに、思ってたなら……忘れんなよ……」
僕に返せる言葉はなかった。
みおも、床に落ちた紙の中に自分の名前を見つけていた。
七瀬美緒。
美緒は、陽介とは違う。
陽介が前から手を引いてくれる人なら、美緒は少し後ろから見ていてくれる人だった。
大人びていて、落ち着いていて、周りをよく見ている。
僕が無理に笑った時、美緒だけは少しだけ眉を下げる。
僕が言葉に詰まった時、美緒は話題を変えてくれる。
陽介が太陽なら、美緒は木陰だと思う。
僕はたぶん、美緒に何度も救われている。
そんな美緒を僕は今日忘れる。
ごめんね、美緒。
読み終えた彼女は、日記を抱えるようにしてうつむいた。
責める言葉も、慰める言葉も、すぐには出てこない。ただ、日記を抱えた腕だけが震えている。
「こんなの……こんなの、あんまりだよ……」
詩織は、床に開かれた別の日記を見つめていた。
そのページだけ、ほかの紙より深く沈んで見えた。
十一月七日。
僕は今日、人生で最も愛してくれた人の記憶を手放した。
人生で最も愛した人との、記憶のために。
ごめんね、母さん。
そして、さよなら。
詩織の身体から、支えが抜けた。
崩れ落ちるように座り込んだ彼女は、日記を見つめたまま、しばらく呼吸の仕方さえ忘れたみたいだった。
「私のせいで……智也の中から、お母さんが消えた……?」
みおが、詩織の肩を抱いた。
「……詩織のせいじゃない」
「でも……」
詩織の目は、日記から離れなかった。
何度も何度も同じ文字を読んでいるようだった。
「どうしようもないのかよ……」
ようすけの涙を浮かべた目が、僕をまっすぐに捉えている。
「智也、本当に忘れちまったのか!? 俺たち四人、ずっと一緒だったじゃねぇか!」
「やめて!」
みおらしい女の人の声が、部屋に鋭く響いた。
「やめて……陽介」
詩織の肩を抱いたまま、彼女は顔を上げる。
「智也くんだって、忘れたくて忘れたわけじゃない……辛いのは智也くんでしょ……」
「でもよ……」
その先を、彼は言えなかった。
日記の中の僕は、この人たちに救われていたらしい。
腕を引かれて。
見守られて。
笑わせてもらって。
休ませてもらって。
たぶん、僕は何度も何度も助けられていた。
なのに今の僕は、その温度を知らない。
「ごめん、ようすけ……」
名前を呼ぶと、ようすけの顔が歪んだ。
「謝るなよ……」
「でも、ごめん」
謝ることしかできなかった。
床に落ちている日記の中には、今の僕より多くのものを覚えている僕がいた。
陽介を知っている僕。
美緒を知っている僕。
母さんを知っている僕。
その僕は、もうどこにもいない。
「僕も、日記を読み返してわかった……」
声が勝手に震える。
「僕がどれだけ、ようすけとみおに救われたのか。僕だって忘れたくなかった……」
「智也……」
詩織が、僕の名前を呼んだ。
その声だけは、読まなくても分かった。
「なんで……なんで……全部覚えていたいのに……」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが切れた。
床に散らばった日記も、メモも、名前を書いた紙も、全部が急に憎く見えた。
僕はこんな紙を残したかったわけじゃない。
こんな文字で、誰かを覚えていたかったわけじゃない。
笑ったことも。
助けられたことも。
怒られたことも。
大事にされたことも。
全部、僕の中にあってほしかった。
なのに、僕の手の中に残っているのは、誰かを忘れた証拠ばかりだった。
「なんで全部覚えていられない!」
声が、自分でも聞いたことのないくらい荒れていた。
日記を読めば読むほど、そこには知らない僕がいた。大切な人に囲まれている僕がいた。
でも、今ここにいるのは、詩織以外を失くした抜け殻のような僕だった。
そんなの、納得できるわけがなかった。
僕は握りしめた日記を床に叩きつけた。
「僕の知らない過去の、僕の知らない人のせいで!」
「やめて!」
詩織の声が、僕の言葉を断ち切った。
泣きながら、それでもはっきりと、僕を止めようとしていた。
「お願い……やめて……」
詩織は首を横に振る。
「私の知ってる智也は……私の好きな智也は、そんなこと言わない……」
「私の好きな……?」
その言葉だけが、妙にはっきり残った。
私の好きな智也。
それは誰のことなんだろう。
陽介を太陽と書いた僕か。
美緒を木陰と書いた僕か。
母さんに謝って、さよならを書けた僕か。
詩織だけを覚えている今の僕ではないことは分かった。
「詩織が好きになってくれた僕は……もういないのかな……」
「智也……お願い……」
詩織が顔を上げた。
涙に濡れた目が、まっすぐ僕を見ていた。
「お願い、私のことは忘れて」
詩織の声は震えていた。
息が止まった。
部屋に散らばった紙の音も、誰かの呼吸も、全部遠くなる。
「智也は、私を覚えるために、お母さんを忘れたんでしょう」
詩織は、泣きながら言葉を続ける。
「お父さんも、友達も、全部、忘れたんでしょう」
「違う……」
「智也の、優しいところも、全部……私のせいで、消えちゃったんでしょう」
「違う!」
気づけば叫んでいた。
「君のせいじゃない。僕が選んだんだ。僕が、君を選んだんだ」
詩織は首を横に振る。
「だから……もう、いいの」
「よくないよ」
「私のことは、忘れて」
「嫌だ……」
「そうしたら、智也は……また、お母さんのことを、思い出せるかもしれない。優しい智也に、戻れるかもしれない……」
「なんで……」
喉が焼けるみたいだった。
「なんでそんなこと言うんだよ!」
僕は詩織を見た。
見ているだけで、苦しくなるくらい、好きだった。
「僕は君だけがいれば、君さえ覚えていれば、それでいいのに!」
「私が嫌なの!!」
詩織の声が、部屋を裂いた。
その声で、僕は何も言えなくなった。
「私のせいで……智也が、智也じゃなくなっていく……」
詩織の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「そんなの……耐えられない……」
その顔を見て、ようやく分かった。
僕が詩織を選んだせいで、詩織がこんな顔をしている。
僕は結局、運命に負けたのだ。
僕が人を愛すると、こうなる。
愛した人を残そうとして、他の誰かを消していく。
愛した人を守ろうとして、その人に傷を負わせていく。
「わかったよ……君が、それを望むなら」
床に落ちていた白い紙を拾って、ペンを握った。
何度もやってきたことだった。
残すものと手放すもの。
ただ、それを書くだけ。
ただ、それだけのはずだった。
なのに、ペン先は紙の上で止まったまま動かなかった。
「智也……」
陽介の声がした。
今度は、少しだけ分かった気がした。
でも、それが記憶なのか、さっき読んだ日記のせいなのかは分からない。
「やめて……そんなの、今ここで書かなくていいよ……」
美緒の声がした。
これも、少しだけ分かった気がした。
僕は首を横に振った。
「今じゃないと、だめなんだ」
「どうして……」
「今の僕が、覚えてるうちに決めないと」
詩織が息を詰まらせた。
「ごめん……」
「謝らないで」
「ごめん……ごめんね……」
「謝らないでよ」
そう言っている僕の声も、もう震えていた。
詩織は悪くない。
陽介も、美緒も、母さんも、誰も悪くない。
悪いものがあるとしたら、それは僕の中にある。
どうしても全部を持っていけない、この頭の中にある。
「僕は君を忘れたくなかった。
だから、君以外の全部を忘れていった」
黒い点が、白い紙に落ちた。
「でも……それが間違いだったんだね……」
誰も、何も言わなかった。
僕は日記に書いた。
忘れていくもの。
永井詩織。




