初めまして
十二月二十三日。
詩織の、好きだった歌を、忘れた。
十二月三十日。
二人で行った、あの店の名前を忘れた。
一月八日。
詩織の誕生日を忘れた。あんなに、祝いたいと思っていたのに。
一月二十一日。
初めて手を繋いだ日のことを忘れた。あの時の彼女の手の温かさを。
二月三日。
詩織と初めてキスをした日のことを手放した。
たぶん、短くて、ぎこちないキスだった。
二月十四日。
詩織を、今までより近くで知った夜を手放した。
声も。
体温も。
僕の名前を呼ぶ息の震えも。
三月二十五日。
詩織の顔を忘れた。
四月一日。
詩織の声を忘れた。
「私を、忘れて」
詩織にそう言われた日から、僕は彼女を忘れる作業を始めた。
彼女の願いを叶えるためではない。
そんな健気な理由ではなかった。
ただ、彼女に「忘れて」と言われた、その事実があまりにも悲しくて。
その悲しみを、抱えきれなくて。
僕はもう、何もかもがどうでもよくなってしまったのかもしれない。
もしかしたら、彼女の言葉を最後まで守ろうとしたのかもしれない。
今となってはどちらだったのか、僕には分からない。
ただ、僕は彼女との思い出を一つずつ手放していった。
あんなに大切に刻み込んだ、彼女との日々を。
毎晩ノートを開いては一つ、また一つと、彼女の記憶に別れを告げた。
彼女のことを忘れていくたび、僕の世界は静かに色を失っていった。
あれほど鮮やかだった世界が。
詩織がくれた、温かな世界が。
少しずつ、少しずつ、元の灰色の世界へ戻っていった。
四月七日。
僕は今日、君との、最初で最後の記憶を、手放す。
約束だから。
桜の木の下で、会おう。
四月八日。
僕は日記をそっと閉じた。
机の上には、何冊ものノートが積まれている。
そこには僕の知らない、僕のことが書かれていた。
僕が経験したはずの、僕と詩織の思い出の日々。
僕の人生で最もかけがえのなかったはずの日々の記録。
「永井詩織……」
その名前を何度口にしても、その人の顔や声は何一つ浮かんでこない。
どんなふうに笑う人だったのか。
どんな声で僕の名を呼んだのか。
僕にはもう、分からない。
それなのに、このノートを読んでいると、理由も分からないまま涙が頬を伝った。
僕は最後のページをもう一度開いた。
約束だから。
桜の木の下で、会おう。
「約束……」
そう呟くと、僕の足は、自然と動いていた。
階段を下りると、台所にいた母さんが声をかけてきた。
「智也、どこか行くの?」
「うん。約束があって」
「そう……」
「夕飯までには戻るから」
母さんは泣きそうな顔で笑った。
「わかったわ。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
大学の中庭の桜は満開だった。
淡い桃色の花びらが風に舞い、世界がその色に染まっていた。
そして、その木の下に一人の女性が立っていた。
長い黒い髪が、風にやわらかく揺れている。
春の、ゆったりとした白いワンピース。
その手がそっと、お腹の上に添えられている。
彼女は僕を見て、驚いたように目を見開いた。それから、その目にみるみる涙が溢れていった。
「約束、守ってくれたんだね」
「……約束?」
彼女は小さく首を振った。
それから涙を拭って、僕に手を差し出した。
「初めまして」
僕は。
その、差し出された手を──
人は、愛する人との何を、最後まで覚えていたいのだろう。
名前だろうか。
声だろうか。
笑顔だろうか。
それとも、好きと伝えてくれた、あの日だろうか。
『どこかの未来で、また初めましてをしましょう』




