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君以外はもう

 十二月二十二日。

 目を覚ますと、まず机の上のメモを読んだ。


 そこには、僕が今日を始めるために必要なことが書かれている。

 一通り目を通してから、畳んでポケットにしまった。


 それから部屋を出た。


 階段を下りる途中で、リビングの方から包丁の音が聞こえた。


 一定の速さで、まな板を叩く音。

 味噌汁の匂い。


 その音も匂いも、知らないものではないはずだった。でも、扉の前に立つと、指先が少し冷たくなった。


 リビングの扉を、恐る恐る開けると、台所に一人の女性が立っていた。


 女性は包丁を置き、こちらを振り返った。


「おはよう、智也」


「お、おはよう……」


 僕がそう返すと、女性は少しだけ目を細めた。


「ちょうどご飯できたわよ」


「ありがとうございます」


 言ってから、女性の手が一瞬だけ止まった。

 でも、すぐに茶碗を持ち直して、テーブルへ運んでくれた。


 僕は椅子に座り、箸を持った。


 向かいでは、女性がコーヒーを淹れている。

 湯気の向こうで、女性の横顔が揺れていた。


 女性はカップを持って、僕の向かいに座った。


「今日は、大学?」


「うん」


「詩織ちゃんとは会うの?」


「……うん。会うよ」


 詩織の名前が出た瞬間だけ、答えるのが少し楽になった。


 顔や声が浮かぶ。

 笑った時の目元まで、ちゃんと思い出せる。


「また連れて来てね」


「わかった」


 僕が頷くと、女性は少しだけ笑った。


 でも、コーヒーカップを持つ指は、しばらく動かなかった。


 女性は一度だけ目を伏せた。

 何かを言いたそうに唇を開いて、何も言わずに閉じる。


 それから、顔を上げた時には笑っていた。


 僕は、その沈黙が耐えられず、朝食を急いで食べた。


「ごちそうさまでした」


「……うん」


 女性は、今度はすぐに笑った。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


 そう返して、僕は逃げるように食卓を離れた。




 午前の講義が終わると、僕は詩織と中庭のベンチに座っていた。


 桜の木はすっかり葉を落としていて、枝だけが冬の空に伸びている。

 風が吹くと、詩織がマフラーに顔を埋めた。


「寒くなったね」


「うん」


「四月は、ここで桜見てたのにね」


「……そうだね」


 四月。


 その言葉を聞くと、桜の色が浮かんだ。


 花びら。

 風。

 少し緊張した詩織の声。


 あの日、ここで詩織と話した。


「覚えてる?」


「覚えてるよ」


 詩織は安心したように笑った。


「じゃあ、夏祭りは?」


「……夏祭り?」


「うん。夏に行ったでしょ。みんなで」


「みんな……」


「智也くん?」


 ポケットに手を入れ、メモを取り出そうとした時だった。


 背後から明るい声がした。


「おーい、智也! 食堂行くぞ!」


 顔を上げると、男の人と女の人がこちらに歩いてきていた。


 男の方は片手を上げていて、隣の女の人は、呆れたようにその男を見ていた。


 詩織は2人と顔を合わせ、ベンチから立ち上がった。


「行こっか」


 ベンチに座ったままの僕を、男の人が不思議そうに見た。


「行くぞ? 智也」


 僕は、握りかけていたメモをポケットの中で止めた。


「……すみません、どちら様ですか?」


 僕がそう言うと、男の人の顔から笑みが消えた。


「お、おい。なんのギャグだよ」


 隣の女の人が、困ったように笑った。


「智也くんがそういう冗談言うの、珍しいね」


「すみません。どこかで、お会いしましたか?」


「……智也くん?」


 詩織の顔は、強張っていた。

 その顔を見て、僕はようやく、自分が何かを間違えたのだと分かった。


「ご、ごめん……」


 慌ててメモを取り出そうとするが、指がうまく動かない。

 ページをめくる音だけが、やけに大きく聞こえた。


「待って。確認するから」


「確認って、何をだよ」


 男の人が一歩近づいた。

 僕はメモに書かれた文字を見つけた。


 夏目陽介。

 七瀬美緒。


「ごめん……なさい」


 僕は顔を上げた。


「ようすけ……?」


「……なんだよ、その喋り方」


 僕がメモを閉じようとした時、男の人の手が伸びた。


「そのメモ、なんだよ」


「か、返して」


 男の人がメモを開き、隣の女の人も覗き込んだ。


「……何これ」


 女の人の声が震えた。


「智也……このメモなんだよ」


「返して……」


「お、俺と美緒の名前が書いてある」


「読まないで……」


 男の人は、何かを言おうとして、言葉に詰まった。


「……友人って、なんだよ」


 女の人が、口元を押さえた。


「四人で、よく一緒にいる……」


「返してよ!」


 声が出た瞬間、三人が止まった。


「ごめん」


「ごめんじゃなくて、説明しろよ」


「ごめん!」


 それ以上、そこにいられなかった。

 僕はメモを奪い返すように掴んで、その場から逃げ出した。




 どこをどう帰ったのか、よく覚えていない。

 気づけば、家の玄関の前に立っていた。


 扉を開けると朝の女性がいて、何かを言われた。

 たぶん、おかえり、だったのだと思う。


 でも、返事ができなかった。

 顔を見たら、また何かを間違える気がした。


 僕はそのまま階段を上がった。


 部屋に入ると、机の上のメモを掴んだ。

 引き出しを開けて、日記を引っ張り出した。


 机の上。

 床。

 ベッドの上。


 メモと日記が、少しずつ部屋に広がっていった。


 夏祭り。

 ひまわり畑。

 大学の中庭。

 何気ない昼食。

 図書館のバイト帰り。


 そこには、何度も同じ名前が出てきた。


 夏目陽介。

 七瀬美緒。


 友人。

 よく一緒にいる。

 四人で過ごすことが多い。


 文字は読める。

 意味も分かる。


 でも、戻ってこなかった。


 日記の中の僕は楽しそうだった。

 詩織がいて、陽介がいて、美緒がいた。


 四人で歩いて、笑って、同じ時間を過ごしていた。


 その時、スマホが震えた。

 画面には、詩織の名前があった。


 『大丈夫? 今どこ?』


 僕はスマホを握りしめた。

 返事をしようとした。


 でも、指が動かなかった。


「なんで……なんで僕だけ……」




 次の日、大学には行かなかった。

 その次の日も、行かなかった。


 図書館のバイト先から電話が来た。


 詩織からメッセージが来た。


 それだけは、何度も読んだ。

 何度読んでも、返せなかった。


 部屋の中には、紙が増えていった。


 読んだ日記。

 書き直したメモ。

 破った紙。


 すると、インターホンが鳴った。


 僕は床に座ったまま、顔を上げた。

 しばらくして、下から女性の声が聞こえた。


 それから、詩織の声。

 二人とも、声が震えていた。


「待って……来ないで……」


 見られたくなかった。

 知られたくなかった。


 こんな部屋も。

 こんな僕も。


 その直後、部屋の扉がノックされた。

 ゆっくりと、ドアが開く。


 目を赤くした詩織が立っていた。


 その後ろに、男の人がいた。

 大学で見た、陽介らしい男の人。


 隣には、美緒らしい女の人がいた。

 口元を押さえて、部屋の中を見ている。


 誰も、すぐには何も言わなかった。


「智也くん……」


 詩織が、一歩だけ部屋に入って来る。

 僕は、メモを握りしめた。


「智也くん……お願い。正直に話して」


 詩織の声が震えていた。


「智也くんは今……何を覚えてるの?」


 僕は顔を上げた。


 詩織がいて、その後ろに、二人がいる。

 廊下には、女性がいる。


 みんな、僕を見ていた。

 でも、分からなかった。


「わからない……」


 喉が震えた。

 自然と涙が出てくる。


「もう、わからないんだ……」


 詩織の顔だけが、ぼやけずに見えた。


「君以外は、もう……何も覚えてない」

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