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さよなら母さん

 十一月七日


 大学の中庭には、季節の境目のような空気が漂っていた。桜の木は少しずつ葉を落とし始め、足元には乾いた葉がいくつも散っていた。


 四月に詩織と出会った場所は、同じ場所のまま、少しずつ違う景色になっている。




 僕と陽介は、その中庭のベンチに並んで座っていた。


 陽介は缶コーヒーを片手に、いつものように足を投げ出していた。僕はメモ帳を開き、今日の予定を確認していた。


 講義。

 昼食。

 図書館のバイト。

 詩織と帰る。

 夕食までには帰宅。


 最後の一行まで目で追った時、隣から陽介の声がした。


「なあ、智也」


「なに?」


「お前さ、詩織とどこまでいった?」


 メモ帳の上で、指が止まった。


「……どこまで?」


「いや、だから。キスとか、その先とか」


 言葉の意味が分かって、顔が熱くなった。

 陽介は悪気のない顔をしていた。きっと、いつもの延長で聞いているだけなのだと思う。


「キス、までは……」


「までは?」


「……」


 その先を言葉にできず、僕は俯いた。


 中庭の向こうで、学生たちが笑いながら歩いている。どこかの教室から、椅子を引く音が聞こえた。


 陽介は缶コーヒーを膝の上で転がしながら、少しだけ声を落とした。


「別に、恥ずかしいことじゃないし、悪いことじゃないだろ」


「でも……」


「好きな相手と、もっと近づきたいって思うのは普通じゃねぇの」


 僕は何も言えなかった。


 普通なのかどうかは、分からない。

 でも、詩織に近づきたいと思っていることだけは、否定できなかった。


「詩織も、待ってるんじゃないか?」


「待ってる……?」


 陽介は、まだ開けていなかった缶コーヒーを僕の方へ差し出した。


「お前が、勇気出すのをよ」


 受け取った缶は、思っていたより温かかった。




「ちょっと陽介、言い方考えなさいよ」


 声がして顔を上げると、美緒が立っていた。

 鞄を肩にかけたまま、呆れたように陽介を見ている。


「いや、変な意味じゃねぇって」


「分かってる。でも智也くん、そういうの真面目に受け取るでしょ」


「俺だって真面目だよ」


 美緒は陽介を無視して僕の隣に座った。


「別に、急がなくていいと思うよ」


「……」


 美緒は表情をやわらげながら僕の肩に手を置いた。


「智也くんが勇気を出したら、詩織はきっと受け入れてくれるから」


「詩織が、そう言ってたの?」


「言ってないけど……見てたら分かるよ」


 それだけ言って、美緒は少し笑った。




「おまたせ!」


 声の方へ顔を上げると、詩織が小走りでこちらへ向かってきていた。


「何の話してたの?」


「なんでもねぇよ」


「陽介が余計なこと言ってただけ」


「おい、美緒!」


 詩織は不思議そうに僕を見た。


「智也くん?」


「……ううん。なんでもない」


 そう言って、陽介から渡された缶コーヒーを手に取った。


 乾いた音がして、缶が開く。

 一口飲むと、思っていたより苦かった。




 その日のバイトを終えた頃には、外はもう薄暗くなっていた。


 退勤を押して事務所を出ると、詩織がいつものように入口のそばで待ってくれている。スマホを見ていた詩織は、僕に気づくとすぐに顔を上げた。


「お疲れさま」


「待たせてごめん」


「ううん。大丈夫」


 図書館を出ようとした時、本が床に落ちる音がした。


 入口近くの通路で、杖を持った年配の男性が足元に散らばった本を見下ろしていた。


 僕はそのまま出口へ向かおうとすると、詩織が声をかけてきた。


「智也くん?」


「どうしたの?」


 詩織は何かを言いかけてから小さく首を振った。


「……ううん。ちょっと待ってて」


 詩織はそう言って、講師の方へ走った。


 床に落ちた本を一冊ずつ拾い、向きを揃えて男性に手渡す。


 講師が何かを尋ねると、詩織は頷いて、近くの職員に声をかけた。


 僕はそれを、少し離れた場所で見ていた。

 詩織は戻ってくると、少し息を整えた。


「ごめんね。待たせて」


 僕は笑った。


「優しいね、詩織は」


「あ、ありがとう……」


 そう答える詩織は、少しだけ戸惑っているように見えた。


「行こうか」


「……うん」




 外に出ると、風が冷たかった。


 詩織はいつも通り、僕の隣を歩いて話していた。


 今日の講義のこと。

 美緒が新しいカメラアプリを入れたこと。

 陽介がそれで変な顔ばかり撮られていたこと。


 僕は返事をしていたつもりだった。


「それでね、美緒が……」


 詩織の声が途中で止まり、覗き込むように見てきた。


「智也くん、聞いてる?」


「あ……うん。聞いてるよ」


「ほんとに?」


 詩織が足を止めた。


「ねぇ、今日何かあった?」


「……何かって?」


「なんか、今日はいつもと違うから……」


 詩織の目が、まっすぐ僕を見ていた。


 疲れてるだけ。

 なんでもない。


 そう言えば、たぶんこの話は終わる。


 いつも通りの道を歩いて、いつも通りに別れて、いつも通り家に帰る。


 でも、それは嫌だった。

 僕は一度、息を吸った。


「もう少し、詩織と一緒にいたいなって……考えてた」


 詩織は、目を丸くした。


「……え?」


「だめかな」


「だ、だめじゃないよ!」


 詩織の声が、少しだけ弾んだ。


「でも、今日は帰らなくていいの?」


 僕はポケットからメモを取り出した。


 日付の下に、今日の予定が並んでいる。


 講義。

 図書館のバイト。

 詩織と帰る。

 夕食までには帰宅。


 僕はすぐにメモを閉じてポケットにしまった。


「……うん。大丈夫」


「じゃあ、うち来る?」


 言ってから、詩織は少しだけ視線を外した。


「あ、嫌なら全然……」


 僕はすぐに首を振った。


「いや……行きたい」


 詩織は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく笑った。


「……じゃあ、行こ」


「うん」


 僕たちは、普段とは違う道を歩き出した。




 詩織の部屋には、僕の知らない詩織があった。


 本棚。

 きちんと畳まれた服。

 ベッドの上に置かれたクッション。


 カーテンは薄い水色で、窓際には小さな観葉植物が置かれていた。机の端には、講義のプリントが重ねられていて、その上に細いペンが一本乗っている。


 詩織は靴を揃えてから、少し慌てたように部屋の中を見回した。


「ごめんね、散らかってて」


「全然、僕の部屋よりよっぽど綺麗だよ」


「そう? 智也くんの部屋も綺麗だったよ」


「そうかな?」


「そうだよ」


 詩織はそう言って、小さく笑った。

 それから台所の方へ向かい、棚からカップを二つ取り出した。


「はい、これ」


「ありがとう」


 受け取ったカップから、コーヒーの匂いがした。


 僕たちはソファに並んで座った。

 カップを口に運ぶと、少し苦かった。

 

「熱くない?」


「大丈夫だよ」


「よかった」


 それきり、会話が途切れた。


 外を歩いていた時は、あんなに普通に話せていたのに、部屋の中では何を言えばいいのか分からなかった。


 すると、詩織の手が、僕の手を握った。


 また、僕は詩織に頼ってしまった。

 いつも、勇気を振り絞るのは詩織の方だ。


 僕は詩織の手を握り返した。


「詩織……」


「智也くん……」


 僕は、詩織と唇を重ねた。

 詩織の手が、僕の手を強く握る。


「詩織、好きだよ」


「私も、大好きだよ」


 その言葉を聞いて、もう一度、唇を重ねた。




 その夜、僕は詩織を、今までよりも近くで知った。


 声も。

 体温も。

 僕の名前を呼ぶ息の震えも。


 近づくほどに、知らない詩織が増えていく気がした。


 何ひとつ、失くしたくなかった。

 何を失うことになろうとも。




 深夜に家に帰ると、リビングの明かりがついていた。


 玄関で靴を脱ぐと、家の中は静かだった。いつもの時間なら消えているはずの明かりが、廊下の奥から漏れている。


 リビングに入ると、テーブルには夕飯が置かれていた。

 皿にはラップがかかっていて、味噌汁の湯気はもう消えていた。


 母さんは、ソファに座って僕を待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


 母さんは時計を見なかった。

 怒った顔もしなかった。


 ただ、テーブルの上の夕飯を少し見て、それから僕を見た。


「ご飯は?」


「大丈夫。今日はもう寝るね」


「そう……」


 母さんは、少しだけ間を置いた。


「おやすみ」


「おやすみ」


 僕はリビングを出た。


 背中に母さんの視線があったのかもしれない。でも、その時の僕は振り返らなかった。




 この日のページの最後には、こう書かれていた。


 僕は今日、人生で最も愛してくれた人の記憶を手放した。


 人生で最も愛した人との、記憶のために。


 ごめんね、母さん。


 そして、さよなら。

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