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君のことで頭がいっぱい

 九月十六日


 大学の中庭には、まだ熱を含んだ風が通っていた。桜の木は濃い葉を茂らせ、四月に僕と詩織が出会った場所とは、また違う顔をしている。


 それでも僕の中では、あの桜の下から始まった日々が、まだ続いていた。


 詩織が僕の隣を歩き、陽介は相変わらず、僕を見つけるたびに大きな声で名前を呼んだ。


「行くぞ! 智也!」


 その声に引っ張られることにも慣れてきた。美緒は、そんな陽介を呆れたように見ながら、時々僕たちの写真を撮った。


 学食の端の席。講義棟へ続く渡り廊下。図書館の前のベンチ。夕方の駅へ向かう道。


 そういう場所に、僕たちの足跡が増えていく。


 予定が増えることは、まだ少し怖かった。

 でも、その怖さの中に、別の感情が混ざるようになっていた。


 明日も会える。

 次も約束がある。

 誰かが僕を待っている。


 そのことが、以前よりもずっと重く、そして少しだけ嬉しかった。




 その日の夕方、僕は図書館のバイトを終えて、詩織と一緒に帰るところだった。


「今日は涼しいね」


 詩織が空を見上げる。


「うん」


「夏も、もう終わりなんだね」


 その言葉を聞いて、ふと八月の夜を思い出した。


「夏祭り、楽しかったな……」


 口にしてから、自分でも驚いた。

 そういうことを、自分から言うのは珍しかったから。


「楽しかったね」


 詩織は小さく笑った。

 それから急に何かを思いついたように、鞄からスマホを取り出した。


「でも、秋も冬もいろいろあるよ」


「いろいろ?」


「紅葉でしょ。クリスマスでしょ。初詣もあるし」


 詩織は画面を指で滑らせながら、楽しそうに行き先を探し始めた。


「次はみんなでどこに行こうかな」


 詩織が口にする未来は、いつも明るくて、その未来に自分がいることが、何より嬉しかった。

 だから、その未来も、口にしている今も、詩織との思い出だけはずっと覚えていたかった。


 


 スマホを眺める詩織の隣で、僕はいつもの癖でポケットからメモを取り出した。


 日付の下に、朝からの予定が並んでいた。


 講義。

 図書館のバイト。

 詩織と帰る。

 夕食までには帰宅。


 そこまで目で追ってから、ページの端に小さく足された一行に気づいた。


 陽介に本を渡す。


 見落としていたその一行が、帰ろうとしていた僕の足を止めた。


「どうしたの?」


 詩織がスマホの画面から顔を上げた。


「ごめん。図書館に戻っていい?」


「忘れ物?」


「陽介に本を渡す約束だったんだ」


 僕はメモを見ながら言った。


 陽介がレポートで使うと言っていた本だった。図書館に一冊だけ残っていたから、返却棚から見つけたら渡すと約束していた。


「明日でもいいんじゃない? 陽介なら気にしないと思うよ」


 僕は頷いた。


「うん。気にしないと思う」


「じゃあ──」


「でも、今日渡すって言ったから」


 詩織はそこで、少し黙った。

 夕暮れの光の中で、彼女の目が静かに僕を見る。


「智也くんって、約束、すごく大事にするよね」


「……そうかな」


「うん、そうだよ」


 詩織の声が、少しだけやわらかくなった。


「智也くんのそういうところ……好きだよ」


「詩織……」


 名前を呼んだだけで、言葉が止まった。

 詩織はそんな僕を見て、小さく笑った。


「一緒に行こ」


 その一言で、迷っていたものが少しだけ軽くなった。僕は頷いて、詩織と一緒に図書館へ戻った。




 貸出の手続きを済ませた本を抱えて陽介に連絡すると、講義棟の前で落ち合うことになった。


 陽介は、僕を見るなり大きく手を上げた。


「お、マジで持ってきてくれたのか!」


「今日渡すって約束したから」


「助かるわ。ありがとな、智也」


 陽介はそう言って、本を鞄に雑に突っ込んだ。


「折らないでね」


「大丈夫大丈夫」


「陽介の大丈夫は、あんまり信用できないからねー」


 詩織が言うと、陽介は大げさに肩を落とした。


「ひでえな」


 それでも声は楽しそうだった。


 詩織も笑っていて、僕もつられて笑った。

 その笑い声は、夕方の大学に明るく響いた。


 


 それから陽介と別れると、駅へ向かう道は少し静かになった。


 さっきまで隣にあった陽介の声がなくなると、夕方の風の音や、詩織の足音が近く聞こえる。


 気まずい沈黙ではなかった。

 ただ、今日がこのまま終わってしまうのを、どちらも少し惜しんでいるような感じだった。


「もう少しだけ、一緒に歩かない?」


 詩織がそう言うと、僕は返事をする前に、メモ帳を開いた。


 夕食までには帰宅。


 朝、自分でそう書いていた。


 母さんと一緒にご飯を食べる予定だった。特別な日ではない。ただ、朝に母さんが「今日は晩御飯いる?」と聞いて、僕が頷いた。それだけの約束だった。


「何か予定あった?」


「母さんと、夕飯を食べる約束があって……」


「そっか……」


 詩織は頷いて、少しだけ俯いた。


 もう少し一緒にいたいけど、母さんとの約束を破りたくはない。どちらかを選ぶのが嫌で、僕はメモをポケットにしまった。


「よかったら……一緒に食べない?」


 僕が聞くと、詩織は目を丸くした。


「お母さんと……?」


「よかったら、だけど」


 一瞬だけ、詩織は何も言わなかった。

 それからすぐに、顔を明るくした。


「ううん! 行きたい!」


 その声があまりにも嬉しそうで、僕は少し驚いた。


「一応、聞いてみるよ」


 僕は母さんにメッセージを送った。


『詩織も一緒でいい?』


 返事はすぐに来た。


『もちろん。待ってるね。』


 詩織は横から少しだけ画面を覗き込んで、ほっとしたように笑った。


「緊張する」


「母さん、怖くないよ」


「急にお邪魔して、本当にいいのかな?」


「母さんがいいって言ってるから、大丈夫だよ」


 詩織は自分の服を少し見下ろした。


「変じゃない?」


「大丈夫」


「……ちゃんと挨拶できるかな」


「大丈夫だよ」


「もう、それしか言わない」


 少し困ったように言いながらも、詩織の声はどこか弾んでいた。




 家へ向かう道は、いつもと同じだった。


 駅前の小さな商店街を抜け、住宅街へ入る。塀の上に夕顔が咲いていて、どこかの家からカレーの匂いがした。


 いつもならただ通り過ぎるだけの道を、詩織と並んで歩いていると、少しだけ別の景色に見えた。


 玄関の前で立ち止まると、彼女は小さく息を吸った。


「大丈夫?」


「大丈夫。たぶん」


 その言い方が可愛くて、僕は笑った。

 詩織はそれを見て、少しだけ拗ねた顔をした。


「笑わないで」


「ごめんごめん」


 鍵を開けると、家の中から味噌汁の匂いがした。靴を脱いでいると、母が奥から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


 母の視線が、僕の後ろにいる詩織へ移った。

 詩織は背筋を伸ばし、深く頭を下げた。


「初めまして。永井詩織です。いつも智也くんにお世話になっています」


 母は、目を細めて笑った。


「初めまして。智也の母です」


 それから、僕を見た。


「智也がこんな可愛い子を連れてくるなんて」


 詩織が、少しだけ僕を見る。

 僕はどう反応すればいいのか分からず、靴を揃えるふりをした。


「どうぞ、上がって」


「お邪魔します」


 詩織は丁寧に靴を揃えてから、家に上がった。


 夕飯は、いつも通りの食卓だった。


 白いご飯。味噌汁。焼き魚。小さな皿に乗った煮物。

 母は、急な来客に慌てた様子も見せず、箸を一膳増やして、自然に詩織を席へ案内した。


「嫌いなものはない?」


「大丈夫です。何でも食べます」


「よかった。智也も好き嫌いがないから、助かってるの」


「そうだっけ」


 僕が言うと、母は笑った。


「そうよ。昔から」


 詩織が箸を緊張した手つきで持っていることにすぐ気づいた。

 味噌汁を口にして、彼女がほっとしたように目を細めたことにも。


「おいしいです」


 詩織が言うと、母は嬉しそうに笑った。


「ありがとう。ごめんね、急だったからこんなもので」


「いえ、こちらこそ急にすみません」


 詩織が慌てて箸を置こうとする。


「あ、ごめんね。そういう意味じゃないの」


 母はやわらかく首を振った。


「来てくれて嬉しいわ」


 その言葉に、詩織は少しだけ表情をゆるめた。


「……ありがとうございます」


 食卓に誰かが増える。

 ただそれだけのことが、家の空気を変えていた。


 母は詩織に、大学のことを聞くと、詩織は丁寧に答えた。陽介の話になると、詩織は笑って、美緒の話になると安心したような声になった。


 僕はその会話を聞きながら、時々相槌を打った。


 僕の家の中に詩織がいて、母さんと話している。その光景は、どこか不思議だった。




 食後、母さんと詩織が食器を下げている時に、詩織はリビングの棚の前で足を止めた。


 そこには、写真立てが置いてあった。


 父さんと母さんと、幼い僕と、弟。

 少し色褪せた家族写真だった。


「ああ、それね」


 母さんが台所から戻ってきて、詩織の隣に立った。


「智也のお父さんと、弟なの」


 詩織は、はっとしたように写真を見た。


「昔、事故にあってね……」


「そうなんですか……」


 母さんはそれ以上、多くを言わなかった。

 写真を見ると、その中の僕たちは笑っていた。


「父さんと弟のこと、あんまり思い出せないんだ」


 自分でも、どうして口にしたのか分からなかった。母さんも、詩織も、僕を見た。


「でも、父さんに言われたことは覚えてる」


 僕は写真を見たまま言った。


「困っている人には優しくしろ。約束は絶対に守れって……」


 母さんは唇を結んだ。

 泣きそうな顔で、それでも笑おうとしていた。


「それだけ覚えてくれてたら、十分よ……」


 その声を聞いて、僕は何も言えなくなった。


「智也くんは……ちゃんと守ってるよ」


 詩織のその言葉は、まっすぐだった。


「そうだといいな……」


 写真の中の父は、変わらず笑っている。弟も笑っている。母さんも、僕も。そこには確かに、僕の知らない家族の時間が写っていた。




 帰り際、詩織は玄関で母に頭を下げた。


「今日はありがとうございました」


「また来てね」


「はい!」


 母は優しく笑っていた。

 詩織も、緊張が解けたように笑っていた。


 外に出ると、夜の空気が涼しかった。


 家の前の道に、街灯の光が落ちている。詩織はしばらく黙って歩いてから、小さく言った。


「来てよかった」


「……うん」


「智也くんのこと、また知れた気がする」


 僕は、返事ができなかったけど、そう言ってもらえることは、確かに嬉しかった。

 

「また来てもいい?」


 詩織が聞くと、僕は少しだけ遅れて頷いた。


「もちろん」


「約束だよ?」


「うん、約束」


 そう答えると、僕たちはその場で足を止めた。


 気づけば、詩織の背中に僕の腕が回っていて、詩織の指が僕の服を握っていた。


「……忘れないでね」


 その声ごと抱きしめるように、僕たちは唇を重ねた。




 この日の日記は、最後にこの一文で終わっていた。


 また、覚えていたい約束が増えた。


 ページの中で、詩織だけが少しずつ濃くなっていく。


 この頃から、もう始まっていたのだと思う。


 詩織を残すたびに、詩織ではないものが、静かに場所を明け渡していく。


 その空白に何があったのかを、僕はいつも後になってから知る。


 父の声だったのか。

 弟の笑い方だったのか。

 母と過ごした、何でもない夕飯だったのか。


 詩織で頭がいっぱいになっていくほど、僕は、僕ではなくなっていった。

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