忘れたくない夏
五月二十七日
詩織と恋人になってから、僕の毎日は少しずつ変わっていった。
朝起きて、メモを確認して、大学へ行く。講義を受け、図書館で本を戻し、夜には日記を書く。その輪郭は、以前と同じだった。
でも、その中に詩織がいた。
講義棟へ向かう道で、彼女が隣を歩く。
図書館の窓際で、彼女が僕を待っている。
メモや日記の中には、彼女の名前が何度も出てくる。予定が増えることは怖いはずなのに、詩織との予定だけは、なぜか白い紙の上に書くたび、少し胸が温かくなった。
その日、僕は学食の端の席で詩織を待っていた。
僕はメモ帳を開き、午後の予定を確かめていた。
詩織と昼食。
三限、現代文学。
三号館201講義室。
図書館シフト、十六時から。
その時だった。
「智也くん」
顔を上げると、詩織がこちらに向かって歩いてきていた。
その隣に、知らない男がいた。
茶色い髪に、背が高くて、整った顔立ち。
明るくて、人との距離が近い。
苦手なタイプだと思った。
それに、詩織と並んでいる姿が、あまりにも自然だった。
僕よりずっと、彼の方が詩織の隣に似合っているように見えた。
「智也くん、紹介するね。夏目陽介。私の幼馴染」
陽介は僕を見るなり、にっと笑った。
「よろしく。詩織の彼氏だろ?」
「……櫻井智也です」
「硬いなぁ」
「智也くん、真面目だから」
「へぇ」
陽介は、僕の向かいに座り、詩織は僕の隣に座る。彼女が近くにいるのに、なぜか落ち着かなかった。
僕は箸を持ったまま、何を話せばいいのか分からなかった。
その時、詩織のスマホが震えた。
画面を見た彼女が、少し困った顔をする。
「ごめん、ちょっと呼ばれちゃった。教授のところ、すぐ行ってくる」
「うん」
「すぐ戻るね」
詩織はそう言って立ち上がった。その背中が食堂の人混みに消えると、僕と陽介だけが席に残された。
急に、箸の置き場まで分からなくなる。
陽介はそんな僕の様子など気にせず、普通に話しかけてきた。
「櫻井って、次の講義どこ?」
僕はメモ帳を開いた。
「次は……三号館の201号室」
「なに書いてるんだ?」
陽介が、遠慮なく覗き込んできた。
「メモ……僕、忘れっぽくて」
「はは。変わったやつだな」
大きくて、悪意のない笑い方だった。だからこそ、僕は少しだけ傷ついた。
変わっている。たぶん、その通りだから。
詩織からメッセージが来たのは、そのすぐあとだった。
『戻れないから、陽介と食べてて。ごめんね』
画面の文字を見て、僕は陽介にそれを伝えた。
「詩織、戻れないみたい」
「しょうがねえな」
陽介は立ち上がり、空になった食器を持った。
「櫻井、次の講義は?」
「さっきも言ったけど……三号館の201号室」
「一緒だな。じゃあ、行くか」
「う、うん……」
陽介といるのは、まだ居心地が悪かった。でも、断る理由も見つからず、陽介の少し後ろを歩くようにして食堂を出た。
三号館へ向かう道は、昼休みの学生で混み合っていた。
講義棟の手前で、声が聞こえた。
「あいつ……根暗のくせに、永井さんと付き合ってるらしいぞ」
足が止まりそうになった。
植え込みの近くにいた男子学生たちが、こちらを見ていた。視線が合う前に、僕は目を逸らした。
「どうせすぐ別れるだろ」
「釣り合ってないよな」
聞こえないふりをした。陰口を叩かれて、それを無視する。そういうことには、少し慣れていた。
それに、心のどこかで自分でも思っていた。
僕より、詩織に似合う人はいる。たとえば、今隣にいる陽介みたいな人の方が。
その、陽介が突然立ち止まった。さっきまでの軽かった空気が、一瞬で変わった。
「おい」
低い声だった。
男子学生たちが振り返る。
「お前らが櫻井の何を知ってるんだよ」
「は?」
「詩織が選んだ相手だぞ。少なくとも、お前らよりはちゃんと見てる。勝手なこと言うなよ」
陽介の声は静かだった。
その静けさのせいで、余計に強く聞こえた。
男子学生たちは、何か言い返そうとして、結局何も言わなかった。
陽介はそれ以上追い詰めなかった。
「行くぞ、櫻井」
そう言って歩き出した。僕は少し遅れて、その背中を追った。
しばらく歩いてから、僕はようやく口を開いた。
「なんで……?」
「ん?」
「なんで、庇ってくれたの?」
陽介は、不思議そうな顔をした。
「なんでって……」
本当に分からない、という顔だった。
それから、当たり前のように言った。
「友達じゃねぇか」
「友達……」
「ああ」
陽介は笑った。
「行くぞ! 智也!」
「う、うん!」
これが、僕と夏目陽介の出会いだった。
最初は、苦手なタイプだと思ったけど、その印象はすぐに変わった。
立ち止まっている僕の腕を、勝手に掴んで、勝手に前へ引っ張っていく。
強引だけど、嫌ではなかった。
雑だけど、温かかった。
そんな存在だった。
七月二十一日
七月の大学は、春とは別の場所のようだった。
桜の木はすっかり青い葉を広げていて、中庭を歩く学生たちも、いつの間にか半袖が増えていた。日差しは強く、少し歩くだけでシャツの背中に汗が滲む。
図書館前のベンチで、詩織は楽しそうにスマホを見せてきた。
「今度、ひまわり見に行かない?」
「ひまわり?」
「うん。ここ。今ちょうど見頃なんだって」
画面には、黄色い花が一面に広がる写真が映っていた。
「二人で?」
「ううん。陽介と、美緒も一緒」
「美緒?」
「私の親友で陽介の彼女」
新しい名前だった。
僕の中で、その名前はまだ輪郭を持たない。だからこそ、少し身構えた。
陽介には少し慣れてきた。あの声の大きさにも、急に腕を引っ張られることにも。
「嫌だったら、無理しなくていいよ」
その声は、思っていたよりも少しだけ不安そうだった。僕は首を振る。
「行く」
「本当に?」
「うん。詩織が楽しそうだから」
詩織は、分かりやすく嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今週の土曜日ね」
僕はメモ帳を開いた。
七月二十六日。
ひまわり畑。
詩織。陽介。美緒。
美緒、という名前を見つめる。
まだ知らない人の名前。
けれどその横に詩織の名前があるだけで、少しだけ怖くなくなる気がした。
七月二十六日
集合場所には、すでに陽介がいた。
「お、来た来た! 行くぞ! 智也!」
「まだ集合したばかりだけど……」
陽介の隣に、見慣れない女の子が立っていた。
明るい茶色の髪に、落ち着いた雰囲気。
陽介とは違って、静かに周りを見ているような人だった。
「ちょっと、挨拶ぐらいさせてよ」
彼女が言った。
「あ、そうだったな。この子が、俺の彼女の七瀬美緒!」
陽介が得意げに言うと、隣の彼女が静かに首を横に振った。
「違うよ」
そして、僕に向かって丁寧に頭を下げた。
「初めまして。陽介の保護者の、七瀬美緒です」
「さ、櫻井智也です」
思わず、声が少し裏返った。
「おい、保護者ってなんだよ。俺が子供みたいじゃねぇか」
「子供じゃん」
「酷いやつだな」
陽介はそう言いながらも、まったく傷ついた様子はなかった。むしろ、少し嬉しそうですらあった。
「まあ、いいか。行くぞ! 智也!」
「え、もう?」
「ひまわりが待ってる!」
陽介が僕の腕を引っ張る。
その後ろで、詩織が笑っていた。
七瀬美緒も、呆れたように、でもどこか優しく笑っていた。
ひまわり畑は、駅から少し離れた場所にあった。
視界が開けた瞬間、黄色が溢れた。
空は青く、雲は高く、夏の光は容赦なく降り注いでいた。その光を全部受け止めるように、ひまわりが同じ方角を向いて咲いている。
「すげぇ! 全部ひまわり!」
陽介が叫んだ。
「当たり前でしょ。ひまわり畑に来たんだから」
美緒が隣で冷静に言う。
「いや、思ったより全部ひまわり!」
「語彙力なさすぎ!」
詩織が笑うと、僕も釣られて笑ってたと思う。
四人でいることに、まだ慣れてはいなかった。でも、不思議と息苦しくはなかった。
陽介が前で騒いで、美緒がそれをたしなめて、詩織が笑う。僕はその少し後ろを歩いている。それだけで、夏の景色の中に自分の居場所があるような気がした。
ひまわりの間の細い道を歩いていると、僕の隣に、美緒が並んだ。
「疲れてない?」
「大丈夫です」
「敬語じゃなくていいよ」
「……じゃあ、大丈夫」
美緒は、少しだけ笑った。
「詩織、楽しそう」
「うん」
「あの子、最近よく笑うようになったんだ」
僕は前を歩く詩織を見た。
ひまわりの黄色の中で、彼女の笑顔はとても自然に見えた。
「……僕のせい?」
「ううん」
美緒は首を横に振った。
そして、少し笑った。
「智也くんのおかげだよ」
言葉に詰まった。
陽介みたいに、腕を引っ張るわけではない。詩織みたいに、真っ直ぐ好きだと言ってくるわけでもない。
でも、美緒はちゃんと見てくれていた。
前を歩く詩織のことも。その隣にいる僕のことも。
「ねぇ! 写真撮ろうか」
美緒がそう言って、鞄から小さな自撮り棒を取り出した。
「お、いいじゃん!」
陽介がすぐに反応する。
「四人で撮りたい!」
詩織がこちらを振り返った。
「四人で?」
「当然だろ」
陽介が、何を当たり前のことを、という顔をした。
四人で並ぶ。
陽介が当たり前みたいに僕の肩を組んだ。
「智也、もうちょいこっち」
「近いって」
「写真なんだから近くていいだろ」
詩織が隣で笑っていた。
美緒は画面を確認しながら、少しだけ首を傾げる。
「智也くん、顔硬い」
「急に笑えないよ」
「智也くん」
詩織の声がして、僕はそちらを見る。
ひまわりの向こうで、詩織が笑っていた。
その表情を見ると、少しだけ力が抜けた。
その瞬間、シャッター音が鳴った。
これが、僕と七瀬美緒の出会いだった。
陽介が前から手を引いてくれる人なら、美緒は少し後ろから見ていてくれる人だった。大人びていて、落ち着いていて、周りをよく見ている。
その二人は、一見するとあまり似合わないように見えた。
でも、ひまわり畑の中で並んで歩く二人を見ていると、なんとなく分かった。
陽介が走り出すと、美緒がため息をつきながらも、ちゃんとその後ろを歩く。陽介が振り返って笑うと、美緒が呆れながらも、少しだけ嬉しそうに笑う。
四人でいると、不思議と息がしやすかった。
それからは、四人で過ごす時間が増えた。
学食で昼ご飯を食べたり、講義が終わってそのまま帰ったり、陽介に急に呼び出されたり、美緒に写真を撮られたり、詩織と目が合って、二人で笑ったり。
そういう何気ない時間が、少しずつ当たり前になっていった。
僕はずっと、一人で生きていくものだと思っていた。
人と関わることは、怖いものだと思っていた。予定が増えることも、名前が増えることも、僕には少し重かった。
でも、四人でいる時間は、不思議なくらい居心地がよかった。
八月三日。
四人で夏祭りに行った。
「行くぞ! 智也!」
「う、うん!」
集合してすぐ、陽介は僕の腕を引っ張った。
詩織と美緒が、後ろで笑っていた。
屋台の明かりが並んでいた。
太鼓の音と人の声が重なり、焼きそばの匂いが夜風に混ざっている。
陽介は射的で一つも当てられなかったのに、なぜか一番楽しそうだった。
美緒はそれを見て、子供みたいと笑った。
詩織はりんご飴を持って、僕の隣を歩いていた。
人混みは苦手だった。
肩がぶつかる距離も、知らない声が近くにあることも、いつもなら少し息苦しい。
それでも、その日は不思議と怖くなかった。友達がいるということは、こういうことなのかもしれないと思った。
祭りの終わりは、思っていたより静かだった。
さっきまであんなに近くにあった太鼓の音が、少しずつ遠ざかっていく。
最初は四人で歩いていた。
陽介と美緒が前を歩く。陽介はまだ何かを大げさに話していて、美緒が呆れたように相槌を打っていた。
やがて分かれ道で、自然に二組に分かれた。
「じゃあな、智也! また行くぞ!」
「うん」
「詩織、気をつけてね」
「うん。美緒も」
陽介と美緒の背中が遠ざかっていく。
夜風が、少し汗ばんだ首筋を撫でた。詩織の浴衣の袖が揺れる。手が触れそうで触れない距離を、僕たちはゆっくり歩いていた。
「楽しかったね」
詩織が言った。
「うん」
「陽介と美緒、いいでしょ」
「うん……友達って、ああいう感じなのかなって思った」
詩織が、嬉しそうに笑った。
「そうだと思う」
「僕には、よく分からなかったから」
「これから分かればいいよ」
「……うん」
これから。
少し前の僕なら、その言葉をきっと怖がっていた。
未来を指す言葉はいつも遠くて、眩しすぎて。手を伸ばす前に目を逸らしたくなるものだった。
でもその夜は、少しだけ信じてもいいような気がした。
「智也くん、今日はいっぱい笑ってたね」
「そうかな」
「うん。私、その顔好きだよ」
「……そういうこと、急に言わないでよ」
「いいじゃん」
彼女は、少し照れたように笑った。
詩織が立ち止まって、僕も止まる。
「ねえ、智也くん」
「なに?」
「今日のことも、書いてくれる?」
「書くよ」
「陽介のことも、美緒のことも?」
「うん」
「私のことも?」
少しだけ、声が小さくなった。
「……うん」
詩織は、僕を見上げた。
「じゃあ、忘れないね」
「忘れないよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
詩織が一歩近づいた。
「じゃあ、証拠」
唇が触れた。
短いキスだった。
僕は固まっていた。
詩織も、少し照れていた。
「……今のも、書いてね」
「それは……」
「だめ?」
彼女の声が、少しだけ甘く揺れた。
僕は視線を逸らしながら、ようやく答えた。
「書くよ」
詩織は笑った。
夏祭りの帰り道で、彼女は僕の隣にいた。
陽介の声も、美緒の笑顔も、ひまわり畑の黄色も、屋台の明かりも、全部がその夜の奥で静かに揺れていた。
僕の世界は、もう一人で歩くには少し広くなっていた。
八月三日のページは、そこで終わっていた。
陽介の声。
美緒の笑顔。
ひまわり畑の黄色。
夏祭りの灯り。
詩織の浴衣。
初めてのキス。
たった数枚の紙の中に、夏の思い出が閉じ込められていた。
紙に閉じ込められた光は、どれだけ読んでも戻らない。
それでも僕は、そのページから目を離せなかった。
忘れたくないものが、また増えた。
それは、幸せなことのはずだった。




