初めまして
人は、愛する人との何を、最後まで覚えていたいのだろう。
名前だろうか。
声だろうか。
笑顔だろうか。
それとも、好きと伝えてくれた、あの日だろうか。
四月八日
四月の大学は、どこもかしこも新しいもので溢れていた。
新しい靴音、新しい鞄。
これから始まる新しい生活に、少しだけ浮き足立った空気。
春という季節は、誰にとっても何かが始まる季節なのだと思う。
中庭の桜は、満開を少し過ぎていた。
枝に残った花はまだ美しかったが、風が吹くたびに花びらがほどけて、静かに地面へ降りていく。
僕は、できるだけ誰とも目を合わせないように、人の流れの端を歩いていた。
ポケットの中には、小さく折り畳んだメモが入っている。
ゼミ説明会。
二号館三階、三〇四講義室。
担当教授、佐伯。
学生課に提出する書類。
朝、家を出る前に書いたものだった。覚えていなくても、困らないように。間違えても、立ち止まらなくて済むように。
中庭の真ん中で、僕はもう一度メモを開いた。文字を目で追い、折り目に沿って紙を畳もうとした時、風が吹いた。
強い風ではなかった。でも、僕の指先から一枚の紙を奪っていくには十分だった。
「あっ……」
声を出した時には、もう遅かった。
風に飛ばされた白い紙は桜の花びらに紛れ、地面を滑っていく。
追いかけようとして、一歩踏み出した時。
誰かの手がそれを拾った。
細くて、白くて、綺麗な指だった。
「これ、君の?」
その声に顔を上げた時、世界が少しだけ静かになった。
人の声も、風の音も、遠くのチャイムも。
ただ、彼女の声だけが、まっすぐ届いた。
長い黒髪が風に揺れ、白いカーディガンの肩に、桜の花びらが乗っている。
彼女は僕を見て、少しだけ笑った。
僕は、差し出されたメモより先に、その顔を見てしまった。
「あ、ありがとう……ございます」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。彼女は気にした様子もなく、僕にメモを渡した。
「同じゼミだよね。私、永井詩織」
僕はその名前を、忘れないように心の中で繰り返した。彼女は僕に手を差し出した。
「初めまして!」
それは、ただの挨拶だった。
何の約束でもない。何の運命でもない。
大学の中庭で、同じゼミの学生同士が、たまたま出会っただけ。
それだけのことだった。
僕は運命なんて信じていない。
そんなものは、物語の中だけにある、都合のいい言葉だと思っていた。誰かと誰かが出会うことに、最初から意味なんてない。
でも。
もし、この出会いを運命と呼ぶのなら。
僕の負けだ。
四月八日 昼
ゼミ説明会は、三〇四講義室で行われた。
僕は教室の端の席に座った。
窓の外には、さっきの桜が揺れている。
永井詩織は、すぐに周りの学生と話していた。
彼女は、人の輪に入るのが上手だった。
大きな声を出すわけでも、無理に明るく振る舞うわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、隣の人が少し話しやすくなる。そういう空気を持っていた。
僕はノートを開き、説明されたことを書きながら、気づけば何度も彼女の方を見ていた。
説明会が終わると、何人かが食事に行こうと声をかけ合っていた。
「櫻井くんも行く?」
名前を呼ばれて、顔を上げた。
誰だったか。同じゼミの人だ。
名前は、メモを見れば分かる。
「ごめんなさい、予定があるから……」
「そっか。また今度な」
「はい」
それだけ言って、僕はノートを鞄にしまった。
本当は、大した用事なんてなかった。
ただ、思い出や、持ち帰る名前を増やしたくなかった。
教室を出る時、永井さんがこちらを見ていた気がした。
でも、僕は目を逸らし、足早に教室を後にした。
四月十日
大学の図書館は、古い建物だった。
入口の扉は少し重くて、開くたびに低い音が鳴る。中に入ると、紙と木と、古い埃の匂いがした。
僕はその図書館で、書架整理のバイトをしている。
返却された本を台車に乗せ、背表紙の番号を見て、あるべき棚へ戻していく。乱れた本の列を整える。
あるべきものを、あるべき場所へ戻す。
それは、少しだけ気持ちのいい作業だった。
午後の図書館は静かだった。
書架の間を歩いていると、通路の向こうで本が落ちる音がした。
振り返ると、年配の非常勤講師が足元に散らばった本を見下ろしていた。片手には杖を持っている。屈もうとして、うまく膝が曲がらないようだった。
僕は台車を止めて、落ちた本を拾った。
一冊ずつ、表紙を軽く払う。ページが折れていないか確かめる。抱えやすい向きに揃えて、先生の手元へ差し出した。
「ああ、ありがとう」
「いえ」
「この本、郷土資料の棚はどこにあるかな」
「案内します」
僕はそう言って、メモを頼りに歩き出した。
高い棚にあった本を取り、先生に渡す。
「助かったよ、櫻井くん」
名前を呼ばれて、一瞬だけ返事が遅れた。
「……いえ」
図書館を出る頃には、空が薄く曇っていた。
入口の扉を押して外へ出ると、誰かが僕の名前を呼んだ。
「櫻井くん!」
永井詩織だった。
彼女は図書館前の柱にもたれて、片手に本を抱えていた。
「……永井さん」
「名前、覚えててくれたんだ」
永井さんは、少し笑った。
「同じゼミだから」
会話がそこで途切れた。
春の風が、図書館前の植え込みを揺らしている。
ここで黙れば、彼女は本を抱えて帰る。
僕もメモを見て、予定通りに帰る。
今日という日は、何も増えずに終わる。
その方がいい。
その方が、きっと安全だ。
なのに。
「今度……」
声が勝手に出た。
僕は自分の手の中にあるメモ帳を握りしめた。
「今度、ご飯でも……」
言った瞬間、心臓が変な音を立てた。
永井さんは少し目を丸くしたあと、口元をゆるめた。
「デートのお誘い?」
「い、いや……その……」
「違うの?」
僕は首を振れなかった。
「違いません」
永井さんは笑った。
「ふふ、いいよ! 明日のお昼、食堂に一緒に行こ」
「はい!」
僕はすぐにメモ帳を開いた。
四月十一日。
昼休み。
学食。
永井詩織さん。
「何書いてるの?」
「メモを……僕、忘れっぽいから」
「じゃあ、忘れないでね」
永井さんは軽く言った。
「……うん。忘れない」
その言葉が、僕の喉の奥に少しだけ引っかかった。
たった数日で、人との距離は変わる。
四月十一日、僕たちは学食で昼を食べた。永井さんはカレーに入っていた福神漬けを最後まで端に寄せていた。辛いものが好きで、漬物は苦手らしい。
四月十三日、図書館の窓際で同じ本を読んだ。僕が返却本の整理をしている間、永井さんは退屈そうに頬杖をつきながら、それでも帰らずに待っていた。
四月十四日、彼女は僕のメモ帳を覗き込んで笑った。
「また書いてる」
そう言われて、僕は慌ててページを閉じた。
たった数日だった。
それなのに、永井詩織という名前は、僕の中で何度もページをめくった。
四月十五日の夜。
永井さんは、僕を大学の中庭へ連れていった。そこは、昼間とはまるで別の場所だった。
人の声は少なく、講義棟の窓にはまばらに灯りが残っている。街灯に照らされた桜は、昼のような桃色ではなく、少し白く見えた。
「ここの桜、夜の方が綺麗なんだよ」
永井さんは桜を見上げていた。風が吹くたび、彼女の髪が少しだけ揺れる。花びらが一枚、肩に乗った。
僕はそれを取ってあげることもできず、ただ見ていた。
「僕は……その……」
声が、夜の中で頼りなくほどけた。
永井さんがこちらを見る。
「少し忘れっぽくて……人と長く関わるのも、あまり得意じゃない」
「うん。知ってる。
でも、智也くんの優しいところもちゃんと知ってるよ」
名前を呼ばれた。
智也くん。
「なんで……?」
永井さんは少し照れたように笑った。
「この前、初めてここで会った日」
それから、ゆっくり言葉を探すように、桜を見上げた。
「それから、智也くんのこと、目で追っちゃうんだ」
「僕を……?」
「うん」
彼女は、困ったように笑った。
「好きってことなのかな?」
夜の中庭が、また少し静かになった。
風の音が遠くなる。街灯の光が滲む。
花びらがゆっくり落ちてくる。世界が、彼女の声だけを残して、他のすべてを遠ざける。
僕は言葉を探した。
胸の奥にあるものを、名前にしようとした。
でも、うまくできない。
「ぼ、僕も……永井さんのこと……」
そこまで言って、止まった。
永井さんは、急かさず、笑わずに待ってくれていた。
ただ、僕が言葉を差し出すまで、そこにいてくれた。
「好き……です」
情けないくらい震えた声だった。
それでも永井さんは、ちゃんと受け取ってくれた。
「じゃあ、恋人だね」
「……いいの?」
「うん。私も智也くんのこと好きだから!」
そう言って、彼女は笑った。
春よりも綺麗に。
僕はその笑顔を、どうしても覚えていたいと思った。
告白のあと、永井さんはまた桜を見上げた。
「来年も一緒に見ようね」
「来年?」
「うん。来年も、その先も」
未来の話だった。
僕ができるだけ考えないようにしてきたものだった。
「忘れちゃダメだよ」
それは、恋人同士が桜の下でする、何でもない約束。
きっと彼女にとっては、そうだったと思う。
「……うん」
「約束だからね」
「約束する」
桜が散っていた。
夜の中で、音もなく、降り積もっていた。
日記には、そう残っている。
桜の下で、詩織と出会ったこと。
図書館の前で、彼女を昼食に誘ったこと。
夜桜の下で、恋人になったこと。
来年も一緒に桜を見ると、約束したこと。
全部、僕の字で書かれていた。
これは、僕と詩織の思い出の日々。
僕の人生で最もかけがえのなかったはずの日々の記録。




