表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/7

初めまして

 人は、愛する人との何を、最後まで覚えていたいのだろう。


 名前だろうか。

 声だろうか。

 笑顔だろうか。


 それとも、好きと伝えてくれた、あの日だろうか。





 四月八日


 四月の大学は、どこもかしこも新しいもので溢れていた。


 新しい靴音、新しい鞄。

 これから始まる新しい生活に、少しだけ浮き足立った空気。


 春という季節は、誰にとっても何かが始まる季節なのだと思う。


 中庭の桜は、満開を少し過ぎていた。


 枝に残った花はまだ美しかったが、風が吹くたびに花びらがほどけて、静かに地面へ降りていく。


 僕は、できるだけ誰とも目を合わせないように、人の流れの端を歩いていた。


 ポケットの中には、小さく折り畳んだメモが入っている。


 ゼミ説明会。

 二号館三階、三〇四講義室。

 担当教授、佐伯。

 学生課に提出する書類。


 朝、家を出る前に書いたものだった。覚えていなくても、困らないように。間違えても、立ち止まらなくて済むように。


 中庭の真ん中で、僕はもう一度メモを開いた。文字を目で追い、折り目に沿って紙を畳もうとした時、風が吹いた。


 強い風ではなかった。でも、僕の指先から一枚の紙を奪っていくには十分だった。


「あっ……」


 声を出した時には、もう遅かった。

 風に飛ばされた白い紙は桜の花びらに紛れ、地面を滑っていく。


 追いかけようとして、一歩踏み出した時。

 誰かの手がそれを拾った。


 細くて、白くて、綺麗な指だった。


「これ、君の?」


 その声に顔を上げた時、世界が少しだけ静かになった。


 人の声も、風の音も、遠くのチャイムも。

 ただ、彼女の声だけが、まっすぐ届いた。


 長い黒髪が風に揺れ、白いカーディガンの肩に、桜の花びらが乗っている。


 彼女は僕を見て、少しだけ笑った。


 僕は、差し出されたメモより先に、その顔を見てしまった。


「あ、ありがとう……ございます」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。彼女は気にした様子もなく、僕にメモを渡した。


「同じゼミだよね。私、永井詩織」


 僕はその名前を、忘れないように心の中で繰り返した。彼女は僕に手を差し出した。


「初めまして!」


 それは、ただの挨拶だった。


 何の約束でもない。何の運命でもない。

 大学の中庭で、同じゼミの学生同士が、たまたま出会っただけ。


 それだけのことだった。


 僕は運命なんて信じていない。


 そんなものは、物語の中だけにある、都合のいい言葉だと思っていた。誰かと誰かが出会うことに、最初から意味なんてない。


 でも。


 もし、この出会いを運命と呼ぶのなら。


 僕の負けだ。




 四月八日 昼


 ゼミ説明会は、三〇四講義室で行われた。


 僕は教室の端の席に座った。

 窓の外には、さっきの桜が揺れている。


 永井詩織は、すぐに周りの学生と話していた。


 彼女は、人の輪に入るのが上手だった。

 大きな声を出すわけでも、無理に明るく振る舞うわけでもない。


 ただ、そこにいるだけで、隣の人が少し話しやすくなる。そういう空気を持っていた。


 僕はノートを開き、説明されたことを書きながら、気づけば何度も彼女の方を見ていた。




 説明会が終わると、何人かが食事に行こうと声をかけ合っていた。


「櫻井くんも行く?」


 名前を呼ばれて、顔を上げた。


 誰だったか。同じゼミの人だ。

 名前は、メモを見れば分かる。


「ごめんなさい、予定があるから……」


「そっか。また今度な」


「はい」


 それだけ言って、僕はノートを鞄にしまった。


 本当は、大した用事なんてなかった。

 ただ、思い出や、持ち帰る名前を増やしたくなかった。


 教室を出る時、永井さんがこちらを見ていた気がした。


 でも、僕は目を逸らし、足早に教室を後にした。


 四月十日


 大学の図書館は、古い建物だった。


 入口の扉は少し重くて、開くたびに低い音が鳴る。中に入ると、紙と木と、古い埃の匂いがした。

 僕はその図書館で、書架整理のバイトをしている。


 返却された本を台車に乗せ、背表紙の番号を見て、あるべき棚へ戻していく。乱れた本の列を整える。


 あるべきものを、あるべき場所へ戻す。

 それは、少しだけ気持ちのいい作業だった。


 午後の図書館は静かだった。


 書架の間を歩いていると、通路の向こうで本が落ちる音がした。


 振り返ると、年配の非常勤講師が足元に散らばった本を見下ろしていた。片手には杖を持っている。屈もうとして、うまく膝が曲がらないようだった。


 僕は台車を止めて、落ちた本を拾った。


 一冊ずつ、表紙を軽く払う。ページが折れていないか確かめる。抱えやすい向きに揃えて、先生の手元へ差し出した。


「ああ、ありがとう」


「いえ」


「この本、郷土資料の棚はどこにあるかな」


「案内します」


 僕はそう言って、メモを頼りに歩き出した。

 

 高い棚にあった本を取り、先生に渡す。


「助かったよ、櫻井くん」


 名前を呼ばれて、一瞬だけ返事が遅れた。


「……いえ」




 図書館を出る頃には、空が薄く曇っていた。

 入口の扉を押して外へ出ると、誰かが僕の名前を呼んだ。


「櫻井くん!」


 永井詩織だった。


 彼女は図書館前の柱にもたれて、片手に本を抱えていた。


「……永井さん」


「名前、覚えててくれたんだ」


 永井さんは、少し笑った。


「同じゼミだから」


 会話がそこで途切れた。


 春の風が、図書館前の植え込みを揺らしている。


 ここで黙れば、彼女は本を抱えて帰る。

 僕もメモを見て、予定通りに帰る。

 今日という日は、何も増えずに終わる。


 その方がいい。

 その方が、きっと安全だ。


 なのに。


「今度……」


 声が勝手に出た。

 僕は自分の手の中にあるメモ帳を握りしめた。


「今度、ご飯でも……」


 言った瞬間、心臓が変な音を立てた。

 永井さんは少し目を丸くしたあと、口元をゆるめた。


「デートのお誘い?」


「い、いや……その……」


「違うの?」


 僕は首を振れなかった。


「違いません」


 永井さんは笑った。


「ふふ、いいよ! 明日のお昼、食堂に一緒に行こ」


「はい!」


 僕はすぐにメモ帳を開いた。


 四月十一日。

 昼休み。

 学食。

 永井詩織さん。


「何書いてるの?」


「メモを……僕、忘れっぽいから」


「じゃあ、忘れないでね」


 永井さんは軽く言った。


「……うん。忘れない」


 その言葉が、僕の喉の奥に少しだけ引っかかった。




 たった数日で、人との距離は変わる。


 四月十一日、僕たちは学食で昼を食べた。永井さんはカレーに入っていた福神漬けを最後まで端に寄せていた。辛いものが好きで、漬物は苦手らしい。


 四月十三日、図書館の窓際で同じ本を読んだ。僕が返却本の整理をしている間、永井さんは退屈そうに頬杖をつきながら、それでも帰らずに待っていた。


 四月十四日、彼女は僕のメモ帳を覗き込んで笑った。


「また書いてる」


 そう言われて、僕は慌ててページを閉じた。


 たった数日だった。


 それなのに、永井詩織という名前は、僕の中で何度もページをめくった。


 四月十五日の夜。


 永井さんは、僕を大学の中庭へ連れていった。そこは、昼間とはまるで別の場所だった。


 人の声は少なく、講義棟の窓にはまばらに灯りが残っている。街灯に照らされた桜は、昼のような桃色ではなく、少し白く見えた。


「ここの桜、夜の方が綺麗なんだよ」


 永井さんは桜を見上げていた。風が吹くたび、彼女の髪が少しだけ揺れる。花びらが一枚、肩に乗った。


 僕はそれを取ってあげることもできず、ただ見ていた。


「僕は……その……」


 声が、夜の中で頼りなくほどけた。

 永井さんがこちらを見る。


「少し忘れっぽくて……人と長く関わるのも、あまり得意じゃない」


「うん。知ってる。

 でも、智也くんの優しいところもちゃんと知ってるよ」


 名前を呼ばれた。

 智也くん。


「なんで……?」


 永井さんは少し照れたように笑った。


「この前、初めてここで会った日」


 それから、ゆっくり言葉を探すように、桜を見上げた。


「それから、智也くんのこと、目で追っちゃうんだ」


「僕を……?」


「うん」


 彼女は、困ったように笑った。


「好きってことなのかな?」


 夜の中庭が、また少し静かになった。



 風の音が遠くなる。街灯の光が滲む。

 花びらがゆっくり落ちてくる。世界が、彼女の声だけを残して、他のすべてを遠ざける。


 僕は言葉を探した。

 胸の奥にあるものを、名前にしようとした。

 でも、うまくできない。


「ぼ、僕も……永井さんのこと……」


 そこまで言って、止まった。

 永井さんは、急かさず、笑わずに待ってくれていた。


 ただ、僕が言葉を差し出すまで、そこにいてくれた。


「好き……です」


 情けないくらい震えた声だった。

 それでも永井さんは、ちゃんと受け取ってくれた。


「じゃあ、恋人だね」


「……いいの?」


「うん。私も智也くんのこと好きだから!」


 そう言って、彼女は笑った。


 春よりも綺麗に。


 僕はその笑顔を、どうしても覚えていたいと思った。


 告白のあと、永井さんはまた桜を見上げた。


「来年も一緒に見ようね」


「来年?」


「うん。来年も、その先も」


 未来の話だった。

 僕ができるだけ考えないようにしてきたものだった。


「忘れちゃダメだよ」


 それは、恋人同士が桜の下でする、何でもない約束。

 きっと彼女にとっては、そうだったと思う。


「……うん」


「約束だからね」


「約束する」


 桜が散っていた。

 夜の中で、音もなく、降り積もっていた。




 日記には、そう残っている。


 桜の下で、詩織と出会ったこと。

 図書館の前で、彼女を昼食に誘ったこと。

 夜桜の下で、恋人になったこと。

 来年も一緒に桜を見ると、約束したこと。


 全部、僕の字で書かれていた。


 これは、僕と詩織の思い出の日々。

 僕の人生で最もかけがえのなかったはずの日々の記録。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ