第9話
野球部に入って初めての練習試合。
先発は三年生でエースの川崎さん、その後5回から同じく三年生の五十嵐さんがマウンドを引き継いでいた。
5対2でリードを許したまま迎えた最終回。ついに俺の出番が回ってきた。
キャッチャーは秀樹に代わり、二人で華々しいデビューを飾る──そのはずだった。二者連続三振までは完璧なシナリオ。
だが、三人目は相手の四番バッター。投じた渾身の真っ直ぐを完璧に捉えられた。
──カキンッ!
鼓膜を貫く金属音。強烈なピッチャーライナーが俺に襲いかかる。
反応が遅れ、ボールが脛へと直撃し、鈍い音が響いた。
執念でボールを拾いアウトに仕留めたものの、その後、病院へと直行することになった。
「骨に異常なくて、本当によかったわね」
検査の結果は、幸いにもただの打撲。
安堵のタメ息をついた士門先輩は、転ばないように俺の背中にそっと手を添えてくれている。
「士門先輩、松葉杖ありますから、一人で大丈夫ですよ」
「気にしないでいいから。松葉杖だけだと歩きにくいでしょ」
聖母のような微笑みを浮かべる士門先輩。
中身は死神だけど……。
だが、病院の出口で俺は足を止めた。
視線の先にいたのは、恋歌だった。
「れ、恋歌」
俺の姿を認めた瞬間、恋歌の瞳からスッとハイライトは消失する。
(……来るの、来るの、きっと来るの……)
体をゆらゆらと揺らし幽霊のように近づいてきた恋歌は底冷えするような声で言った。
「……その汚い手、私の壮真さんから離してくれませんか……?」
今にも士門先輩を殺しかねない、据わった眼光。
「お、落ち着いて、恋歌」
「あっ、壮真くんのお知り合い?妹さんかな」
「わ、私は彼女!!……みたいなものです……」
(まあ、まだ付き合ってないしね)
「あら、彼女ではないんだ?」
「ち、近いうちに彼女になります!とにかく壮真さんから離れてください」
強引に士門先輩を俺から引き離すと、恋歌が大きな胸を腕に押し付けてきた。
「そんなに抱きついたりしたら壮真くん歩きにくいと思うよ」
「私が支えるから大丈夫です!」
「なら、私も支える」
士門先輩が松葉杖を持ってる方の腕に抱きついてきた。
(松葉杖の意味ないじゃん……)
「そ、壮真さんから離れてください!」
「二人で支えた方が楽じゃないかしら。ふふ」
「壮真さんにその貧相な胸を押し付けるのは止めてください!」
(そ、それを言ったらダメだ。恋歌)
ぷつん──士門先輩の中で何かが弾ける音が聞こえた気がした。
「あなたは胸だけに栄養が──集中したのね。おチビちゃん。ふふ」
「な、なんですってぇ!!この貧乳がぁ!!」
(早くお家に帰りたい……)
結局、左右から腕をがっしりとホールドされ、柔らかな弾力と刺さるような視線に挟まれながら、俺は『戦場タクシー』で帰宅する羽目になった。
その日の夜、ベッドで寝ているといつも以上に恋歌がぴったりとくっつき強く抱きしめてきた。
「恋歌、くっつきすぎじゃないか?」
「あの女の匂いがするので私の匂いで上書きしてるんです!」
「いや、風呂入ったし匂いは消えてるだろ」
「まだ微かに匂います!」
(警察犬かよ……)
◇◇◇
放課後、打撲が治るまでは上半身の筋トレのみという制限付きの練習。
俺は秀樹と共に、黙々とベンチプレスに励んでいた。
「あっ、そういえば昨日、お前が怪我したって小鳥遊さんに知らせておいたよ」
(また犯人はお前か)
「もう、恋歌と連絡取るのは止めてくれ」
「何でだよ。あっ、焼きもちか?」
ムカつく顔でニヤニヤ笑う秀樹。
この軽い顔、本当に殴りたい。
「……俺の晩飯の問題だ」
「晩飯?お前、小鳥遊さんに餌付けでもされてんのかよ」
(餌付けされてるかもしれない……)
「よしっ、ベンチプレス終了。次は何だっけ?」
秀樹がプレートをガシャリと外しながら尋ねてくる。
「シーテッドショルダープレスだ。ってか、何で怪我してないお前が俺と一緒のメニューをやってるんだ」
「一人だと寂しいだろ?友情ってやつだよ!」
ぐっと親指を立てててニヤつく顔が、最高に腹立つ。
「昨日の試合、最後、お前のサイン通り縦スラを投げとけば良かったな」
「あのバッターは完全にストレート狙いだったからな。縦スラが決まれば絶対三振だったぜ。お前サインに何回も首振るから仕方なく真っ直ぐにしたんだぞ」
秀樹はプレートを付け替えながら真剣な表情で答えた。
「……すまん、お前の言うこと聞いてたら怪我もしなくてすんだかもな」
「悔やんでももう遅い。ムキになって真っ直ぐで押しすぎる癖、直した方がいいぞ」
「へーい、相棒」
その後、筋トレメニューを終え帰宅しようと秀樹と一緒に校門へ向かうと、偶然、高畑さんと遭遇した。
「あれ?高畑さん、珍しいね。こんな遅くに」
「今日は図書委員の仕事があったの」
見た目はモロギャルなのに、この人凄く真面目なんだよな。
本が好きみたいで、図書室でよく難しそうな本読んでるし。
「高畑さんも一緒に帰らない?」
秀樹がいとも簡単に高畑さんを誘う。
「うん、駅までよろしく」
俺たちはたわいもない話をしながら駅へと歩き出した。
「山口くん、足、大丈夫?」
高畑さんは心配そうな顔をして少し覗き込んできた。
「大丈夫……まあ、まだ痛いけどね」
「骨に異常なくて良かったよな」
秀樹がホッとしたような顔をしている。
「3日くらいしたら痛みは引くらしい。そしたら、通常の練習に戻れるよ。……あっ」
その時、不意に足の痛みが走り、松葉杖のバランスを崩してしまう。
「あ、危ない」
──バランスを崩した俺を高畑さんが咄嗟に抱きとめて支えてくれた。
抱きとめられた瞬間、柔らかな感触とバニラのような甘い香りが一気に鼻をついた。ギャルっぽい見た目からは想像できない──甘く大人びた匂いだ。
「あ、ありがとう」
「いいって。それより気を付けなよ」
「うん、松葉杖に慣れなくて」
支えられた後、彼女はそのままの距離感で、俺の左腕の下に自分の腕を通した。
「ほら、松葉杖だけではバランスが悪いでしょ。支えててあげる」
彼女の腕が俺の左脇にすっと入り込む、松葉杖だけではバランスが悪かったが、これで随分と安定した。
(……距離が近い)
制服越しに彼女の体温が伝わってきて、ドクンと鼓動が跳ねる。……心臓がうるさい。
その様子を眺めていた秀樹が、わざとらしくスマホを取り出した。
「おっ、今のいい画だったな。これ小鳥遊さんに送っといた方がいいかな?」
(止めろ!俺の平和な晩飯を奪わないでくれ!)
◇◇◇
家のドアを開けた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
俺の心臓の動きが嫌にうるさかった。
ドアの向こう、無表情の恋歌がゆっくりと近づいて来たからだ。
「壮真さん……おかしいですね……他の女の匂いがします……」
恋歌が俺の胸元を、犬のようにクンクンと嗅ぐ。逃げられない。
「ど、どうしたの?恋歌」
「……まさか、胸の薄いマネージャーですか?」
温度を失った低い声、恋歌の瞳から光が消え、底冷えするような無機質な視線が俺を射抜く。
「し、士門先輩ではないよ」
「……胸の薄いマネージャーではないとするとあの派手なギャルの方ですか?」
「ち、違うんだ。これは偶然抱きつく感じになっただけで……」
「……どのような偶然があれば、あのような女と抱き合うという状況が生まれるのでしょうか?」
「ち、違うんだ、あれは不可抗力というか、偶然抱きつく形になっただけで……」
恋歌は、ふわりと香る残り香を嗅ぎながら、静かに、しかし、冷たく微笑む。悪魔の微笑みに見えた。
「それは本当ですか……?」
「本当だ!嘘は言ってない!」
「……こっちに来てください」
手首を恋歌に掴まれリビングのソファーへと連れていかれた。
「そこに座ってください……」
俺は言われるがままソファに腰掛けた。
すると、恋歌が俺の膝に股がるように座り、首に手を回して抱きついてきた。
そして、俺の唇を塞ぎ、口内を無理やりこじ開けられ、粘りつくような熱い舌をねじ込まれる。鼻をつく程の残り香と、彼女の狂った愛情が逃げ場を塞ぐ。
……ちゅる、ちゅる……。
数分間、窒息しそうな濃厚なキスをした後、恋歌はふう、と息を吐いた。そして、先ほどのまでの冷徹さが嘘だったかのような、花を綻ぶような満面の笑顔で晩御飯をテーブルに並べ出した。
(今日はゴーヤチャンプルーじゃないよね……?)
読んでくださりありがとうございました




