第57話
午前中、恋歌に『近くに綺麗な川があるので行きませんか』と誘われ、俺たちはそこへ向かうことになった。
川に向かう支度をしていると、奥の部屋からまたしても和歌さんが現れた。
「恋歌。あの川に行くらしいわね」
「……そうですけど」
「気をつけなさい……あの川には最近、河童が出るらしいの……尻子玉抜かれないように気をつけてね……」
「お母さんにはもう騙されませんから!!」
和歌さんは不適な笑みを浮かべながら、奥の部屋へと戻っていった。
その後、俺たちは川に到着すると──河川敷に明らかに胡散臭い変装をした、ゴリマッチョの河童のコスプレイヤーが仁王立ちしていた。
(どう見ても愛瑠歩烈度の兄貴だ)
「何してるんですか!愛瑠歩烈度さん!!」
「愛瑠歩烈度ではありません。私は通りすがりの河童です」
「ふざけたこと言わないでください!怒りますよ!!」
恋歌はすでに怒っていた。
「……すみません。恋歌お嬢様」
さすがにこれには微塵も騙されない恋歌がため息をつきながら説教を始めると、兄貴は肩を落とし、しょぼんとしながらどこかへ消えていった。
ドタバタ劇を終えて二人で川辺へ近づくと、恋歌が冷たい川の水に手を入れた。
「壮真さん。冷たくて気持ちいいですよ。うふふ」
「どれどれ」
俺も手を入れてみると、夏の陽気に火照った体には心地よい冷たさだった。
「きゃっ」
その時、恋歌がバランスを崩して川に落ちそうになった。
俺は慌てて彼女を抱きよせるように支えた。
「大丈夫か?」
「びっくりしました。えへへ」
恋歌は胸を撫で下ろしながら、安心したように笑う。
俺はそのまま恋歌の腰に手を回し、ぎゅっと優しく抱きしめた。
「……しばらくこのままがいいです」
恋歌は上目遣いで俺を見つめると、愛おしい微笑みを浮かべていた。
「少し日差しのせいで暑くないか?」
「……暑いです。でも、こうしていたいです……っ」
恋歌が俺を見つめると、瞼をそっと閉じた。
俺はゆっくり顔を近づけると、彼女の柔らかい唇に軽いキスを落とした。
その余韻に浸りながら、再び体を寄せ合っていた、その時。
腰に魚籠を下げた短パン姿の花子さんが、滑るような美しい足取りでこちらに向かって歩いてきた。
彼女は俺たちの前で至って平然と一礼をすると、嬉しそうに微笑んだ。
「相変わらず仲がよろしいようで。どうぞ、私の事は空気だと思ってそのままお続けください」
そう言うと、花子さんは川へと入って行った。
(いや、めっちゃ気になるんだけど)
俺は恋歌を抱きしめたまま、花子さんの様子を窺った。
彼女は川の岩場に向かうと──シュバッ!と目にも留まらぬ早業で、川に手を突っ込んだ。
『とったどー』と言わんばかりのスピードで、捕らえた魚を素早く腰の魚籠に放り込んでいく。
(すげぇ……達人だ……)
花子さんが次々と魚を素手でキャッチすると、魚籠はあっという間に魚でいっぱいになった。
彼女は川から上がって来ると、ふうっと息を吐いた。
「大量でした。今晩はヤマメとイワナ料理です」
花子さんが、魚籠に入った魚を俺たちに見せてきた。
「へー、美味しそうですね」
「塩をまぶしてから、笹の葉で包んで干すと臭みが抜け美味しく頂けます」
「そうなんだ。俺、ヤマメとかイワナ食べるの初めてだ」
「美味しいですよ。うふふ」
「恋歌は食べたことあるの?」
「はい、子供の頃に愛瑠歩烈度さんと花子さんがたくさん捕まえてくれたので」
「素手で捕まえるなんて凄いですね」
「いえ、父にはまだまだ敵いませんので」
(さすが愛瑠歩烈度の兄貴)
「魚の下ごしらえがあるので失礼します」
再び一礼すると、花子さんは颯爽と去っていった。
お昼になると、俺たちは河川敷にブルーシート敷き、川を眺めながら恋歌が作ってくれていたサンドイッチを食べることにした。
川には釣りをしてる人がちらほら居るくらいで、とても川の流れる静かな音がするだけだった。
「壮真さん。あーん」
恋歌がバスケットからサンドイッチを取り出し、俺の口に運んできた。
「あーん」
俺はなんの躊躇もなく、サンドイッチを頬張った。
「どうですか?」
「凄く美味しい」
「良かったです。うふふ」
俺もサンドイッチを手に取り、恋歌の口に運んだ。
「はむっ」
彼女は小さな口を目一杯開けると、美味しそうに頬張った。
そんなやり取りをしていると、背後にふと影が現れた。
振り返ると、和歌さんが日傘をさしながら優雅に佇んでいた。
「あなたたちここの河川敷はバカップル禁止よ。気をつけなさい」
和歌さんはバカップル禁止と書かれた看板を地面に突き立てた。
(わざわざ作ったのか……暇だな……)
「お母さん!また邪魔しに来たんですか!」
「少し小腹が空いたから、私にもサンドイッチ分けてよ」
「お母さんに食べさせるサンドイッチはありません!」
「なんて冷たいことを言うの。育て方を間違えたのかしら。ぐすん」
和歌さんは、涙など一滴も出ていない目の下にハンカチを添える。
(ある意味間違えたとは思うが……)
「嘘泣きはやめてください!」
「まあまあ、一つくらい和歌さんにあげなよ」
「壮真くんは優しいわね。うちの実の娘とは大違いだわ」
和歌さんはハンカチをしまうと、ジト目を恋歌に向ける。
「もう、わかったわよ」
恋歌はやれやれと感じで、サンドイッチを一つ和歌さんに渡した。
「美味しいわね。さすが私の娘ね」
和歌さんは優しそうに、サンドイッチを食べていた。
「お母さん。料理できないでしょ」
「失礼ね。しないだけでできないわけではないわよ」
「料理作れるの?」
「サニーサイドアップは得意よ」
和歌さんは物凄いドヤ顔をして、大きな胸を誇らしげに張っている。
(それはただの目玉焼きだし、料理と言わないと思うが……)
俺たちはサンドイッチを食べ終えると、別荘へと戻っていった。
◇◇◇
別荘に戻り、受験勉強をしていると、あっという間に時間が経過し、窓からは夕陽が差し込んでいた。
「恋歌。温泉行かない?」
「温泉ですか?温泉はやめませんか」
恋歌はあからさまに嫌そうな顔をしている。
「温泉気持ちいいし、行こうよ」
「もう、仕方ないですね」
渋々ながら恋歌は了承してくれて、二人で温泉へと向かった。
大浴場の扉を開けると、湯気の向こうに先客の和歌さんと花子さんの姿が見えた。
いち早く危険を察知した恋歌が、俺の腕をがっしり掴む。
「壮真さん。アレがいます。部屋へ戻りましょう」
「ちょっと待ってよ。一緒に入りましょうよ」
「嫌です!戻りますよ!壮真さん!……ひゃんっ!?」
次の瞬間、音もなく背後に回り込んでいた花子さんが、恋歌をひょいと持ち上げる。
そのまま凄まじい手際で彼女の体を洗い上げると、有無もいわさず湯船へと連行した。
「壮真くん。立ってないでこっち来なさいよ」
温泉に浸かりながら、ワインを飲んでいる和歌さんが優雅に微笑んでいる。
仕方ないので俺も体を洗い、温泉へと浸かった。
温泉へ入ると、すぐに恋歌がやって来て、ガードするように俺の前へと座った。
「何してるの?恋歌」
「お母さんから壮真さんの息子を守らないといけませんから!」
「もう、大丈夫よ。壮真くんの息子なら花子に徹底的に調査してもらったから」
(依頼主はやっぱりあんたか)
「なんてこと花子さんに頼んでるんですか!」
「まあまあ、ゆっくり温泉に浸かりましょうよ。ふふ」
「それ以上は壮真さんに近づかないでくださいね!」
「わかったわよ。本当に壮真くんにべったりね」
「未来の旦那様ですから!」
「はいはい、たまにはお母さんも大事にして欲しいわね。花子おかわりくれる」
「奥様どうぞ」
花子さんはワインのおかわりを、丁寧な手付きで和歌さんに渡した。
「壮真さん。熱くないですか?」
恋歌が温泉の中で俺の背中に手を回し、抱きついてきた。
「うん、このままでも大丈夫だよ」
「ありがとうございます。うふふ」
「あなたたちこの温泉はバカップル禁止よ。気をつけなさい」
和歌さんは立ち上がると、壁に掛かっている立て札をビシッと指差した。
立て札には大きな文字でバカップル禁止と書いてあった。
(あんなのいつの間に持ち込んだんだ……ってか、ここの女性陣は前を隠すという概念がないのか……)
◇◇◇
温泉から上がり、晩御飯のイワナとヤマメの塩焼きを堪能した俺たちは、部屋へと戻ってきた。
俺はバルコニーの藤の椅子に腰掛け、夜空を見上げる。
「綺麗ですね。壮真さん」
俺の膝の上にちょこんと座っている恋歌が、目をキラキラと輝かせている。
「あれがベガですかね?」
「そうだね。織姫だね」
「じゃあ、あっちがアルタイルですか?」
「うん、彦星だな」
「一年に一回しか会えないなんて、私なら絶対に耐えられませんね」
(だろうね……ほとんど毎日一緒にいるし……)
「……壮真さん」
恋歌は立ち上がると、俺の膝に跨がり、首に手を回して抱きついてきた。
俺も彼女の腰に手を回し、ぎゅっと抱き寄せていると、ふと人の気配に気づいて窓の方を向いた。
窓際にはバカップル禁止と書かれた立て札を手に持った和歌さんが、満面の笑みを浮かべて立っていた。
(余程、気に入ったんだな……あの立て札……)
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