第49話
朝、酷い寝不足気味の体を無理やり起こし、俺は顔を洗いに洗面所へ向かった。
洗面所の鏡に写った自分の顔は、目が真っ赤に腫れ上がって酷いもんだった。
昨夜は、もう人生の全ての分の涙を流したんじゃないかってくらい、泣いた。
冷水で目を覚まそうと顔を洗っていると、自宅のインターホンがけたたましく鳴り響いた。
玄関に向かい、引き戸を開ける。
そこに立っていたのは、聖愛を抱きかかえた姉ちゃんだった。
「おはよう!何、湿気た顔してんのよ!元気出しなさい!そんな顔を見せたら恋歌ちゃんが心配するわよ」
姉ちゃんが聖愛の靴を脱がし廊下に下ろすと、ずかずかと家の中に入ってきた。
「……元気が出るわけないだろ」
「情けないわね。明日、決勝戦でしょ」
「決勝戦か……なんかどうでもよくなってきた」
姉ちゃんが右手を振りかぶった瞬間──パシィッ!。
乾いた音が静かな廊下に響いた。
遅れて、頬に走る熱い痛み。容赦のない、姉ちゃんからのビンタだった。
「あんただけの決勝戦じゃないのよ!チームメイトだって、マネージャーだって、応援してくれている全ての人にそんなこと言えるの!?」
「…………」
何も言い返せなかった。
俯く俺の肩を、姉ちゃんは強く掴み、真っ直ぐ見据えてくる。
「それに、そんなこと言ったら、恋歌ちゃんが一番がっかりするわよ!」
「……恋歌が?」
「甲子園行くの楽しみにしているんだから。まあ、ほら、とりあえず朝ごはん食べなさい。姉ちゃんが作ってあげるから」
嵐のような勢いでリビングに入ると、姉ちゃんはキッチンで朝食の支度を始めた。
「そーま、だいじょーぶ……?」
聖愛が俺の手を握り、不安そうな顔で見上げている。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
俺は聖愛を抱きあげると、リビングのソファへと深く腰を落とした。
◇◇◇
姉ちゃんが作ってくれた朝食を食べ終えると、聖愛を連れて近くの公園へと向かった。
砂場で一緒に遊んでいると、不意に上から影が落ちる。
「よう、壮真」
気の抜けた声とともに、アホヅラの秀樹が現れた。
「恋歌ちゃんのこと聞いたぞ」
秀樹の表情からいつものおちゃらけた雰囲気が消えていた。
「……そうか」
「何、湿気た面してんだよ」
「姉ちゃんにも同じこと言われたよ」
「恋歌ちゃんのためにも明日の決勝頑張ろうぜ!甲子園が決まったら絶対に喜ぶぜ!」
秀樹は俺の目の前で、拳を握っている。
「恋歌、喜んでくれるかな?」
「当たり前だろ!喜んで病気も治っちゃうよ!」
秀樹の根拠のない明るい言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……だと、いいんだけどな」
「ばかっぽいおにいさんこんにちわ」
聖愛が秀樹にとことこと歩み寄ると、ペコリと頭を下げた。
「あ、俺のこと覚えていてくれたんだ。……何か嫌な覚え方されてるけど」
「うちの聖愛はお前と違って物覚えがいいのだよ。ふふ」
「ばかっぽいおにいさんたべて」
聖愛が歪な形の泥団子を、秀樹の前に差し出した。
「ははっ!ありがとう。聖愛ちゃん。いただきます。……もぐもぐ」
秀樹は口元に手をやると、下手くそな食べる演技をした。
「ばかっぽいおにいさんたべてない!たべて!」
「ちゃんと食べたよ」
「たべてない!たべて!」
「聖愛が一生懸命作ったんだから、ちゃんと残さず食べろよな」
「無茶言うなよ!」
この後、秀樹は聖愛の砂地獄の洗礼を、しばらく浴び続けた。
全く引く様子のない聖愛に、汗だくで対応してる秀樹を少し不憫に思い、俺は聖愛を何とか説得して家へと帰った。
◇◇◇
姉ちゃんが作ってくれた昼食を食べ終えると、姉ちゃんと聖愛は帰って行った。
俺は明日に向けての野球部の軽い練習とミーティングが終わると、恋歌のお見舞いに行くために家を出た。
病院に向かう途中で、ピンクのバラのプリザーブドフラワーを買った。
永遠に枯れることがないその花に、俺は恋歌の病気が治るよう、二人の絆がいつまでも枯れないようにと願いを込めた。
そして、花を手に彼女が待つ病室へと向かう。
軽くノックをしてからドアを開けると、ピンクのパジャマ姿の恋歌が天使のような微笑みを浮かべて迎えてくれた。
少し痩せたせいか、いつもより彼女は小さく見えた。
「壮真さん。また来てくれたんですね。嬉しいです。うふふ」
「毎日、恋歌の顔を見ないと落ちつかないんだよ」
「私もですよ。えへへ」
「これ、ここに置いとくね」
俺はベッドの横にある棚の上に、お見舞いに買ってきた花を置いた。
「可愛い花ですね」
「うん、恋歌に似合うと思って」
「ありがとうございます。ふふ」
「……恋歌」
俺はベッドの端に座る恋歌を、そっと抱き寄せた。
「どうしたんですか?壮真さん」
「ただ、こうしていたくて」
「壮真さんは甘えん坊さんですね。うふふ」
「明日の手術は絶対成功するし、大丈夫だから!」
「はい、壮真さんにそんな悲しい顔させないように頑張りますね。ふふ」
「……恋歌。甲子園行きたいか?」
「行きたいですし、壮真さんなら絶対に行けますよ」
「……そっかぁ」
「……壮真さん。少し苦しいです」
無意識のうちに、抱きしめている両手に力が入っていた。
俺の中で、何か熱いものが芽生えるのがわかり、恋歌のために絶対に甲子園へと行く決意ができた。
「ごめん」
俺は力を抜いて、優しく恋歌を再び抱きしめた。
「大丈夫です。抱きしめられるのは嬉しいですので。えへへ」
「俺もできるだけ恋歌の温もりを感じていたい」
「私もです。夜は一人で淋しいですので、壮真さんの温もりを覚えておきたいです」
お互い見つめ合うと、俺は恋歌の柔らかい唇にそっと軽いキスをした。
「明日の決勝は絶対に勝つよ」
「頑張ってください!応援に行けなくてごめんなさい……」
「俺も手術なのに傍にいれなくてごめんな……」
「お互い謝るのはやめましょうか。うふふ」
「そうだな。はは」
面会時間終了まで抱き合ってた俺たちは、お互い名残惜しそうに身体を離すと、明日また来るからと告げて病室を後にした。
◇◇◇
家に帰ると、猪鹿川さんが玄関の前で立っていた。
「こ、こんばんは。今夜もおにぎりを作って来ました」
「何か悪いね。ありがとう」
俺はサイフから千円札を抜き取り、猪鹿川さんに渡そうとしたのだが拒否された。
「お、お金は結構です」
「そうはいかないよ。おにぎり作るのにお金かかるからね」
「お金はピンクのあ……じゃなくて恋歌先輩から頂いてあるので」
「え?恋歌が?」
「はい、今日、午前中にお見舞い……というか、呼び出されて行った時に『壮真さんをよろしく』って一万円を頂きました」
「……そうなんだ」
「受け取れないって言ったんですが、『受け取らないとこのまま永遠に胸を揉み続けるわよ』って言われたので……仕方なく」
猪鹿川さんは自分の胸をかばうように抱え込むと、何かを思い出したのか怯えるようにガタガタと肩を震わせていた。
「……大変だったね」
「でも、恋歌先輩が元気そうで安心しました。へへへ」
「ありがとう」
「あ、あの恋歌先輩は何の病気なのですか?聞こうとしたら、お母さんが来て聞けなかったので」
「俺も詳しい病名は聞いてないんだけど、明日、難しい手術をしないといけないらしい……」
「そうなんですね……でも、恋歌先輩なら大丈夫ですよ」
猪鹿川さんは俺に向かって、精一杯の笑顔を見せた。
「うん、そうだよね。ありがとうね。猪鹿川さんはもう晩御飯は食べたの?」
「い、いえ、まだ食べてないです」
「一緒に食べる?おにぎりのお礼に何か作るよ」
「い、いいんですか?」
「うん、入って」
俺は引き戸をガラリと開けると、猪鹿川さんを家へと招き入れた。
俺はキッチンで、手際よくナポリタンを作ると、猪鹿川さんの前のダイニングテーブルに置いた。
「できたよ」
「は、はい、ありがとうございます」
「どうぞ、食べてみて」
俺は猪鹿川さんの隣の椅子に腰掛けた。
「い、いただきます」
「いただきます」
猪鹿川さんはナポリタンを、俺はおにぎりをそれぞれ食べ始めた。
「お、おにぎり、どうですか?」
「美味しいよ。中学の時より美味しいかも」
「よ、良かったです。ナポリタン、とても美味しいです。へへへ」
「口に合って良かったよ」
二人で楽しく食事を終えると、スマホのバイブが鳴った。
画面を確認すると、恋歌から『牛との食事は今回は特別に許しますが、浮気は絶対に許しませんからね!?』というメッセージだった。
(え?何でわかったの?)
再び、スマホが震えた。
『壮真さんの口もとにごはん粒がついてますよ。うふふ』というメッセージだった。
(待て、これ絶対に見てるだろ)
俺は部屋を見渡すと、部屋の隅の棚に不自然に置かれているくまのぬいぐるみと目が合った。
……心なしか、ぬいぐるみの目がレンズっぽく鈍色に光っている気がした。
すると、今度は猪鹿川さんのスマホが震えた。
スマホの画面を確認している猪鹿川さんの顔が、みるみる青くなっていく。
「どうしたの?猪鹿川さん」
「な、なんでもありません。『食事が終わったらさっさと牛舎に帰りなさい』と恋歌先輩からのメッセージが……。私、そろそろ帰らないと」
「送っていくよ」
「あ、ありがとうございます」
俺は猪鹿川さんを彼女の家に送り届けると、帰路へとついた。
(……まさか、俺の家は盗撮までされているのだろうか)
読んでくださりありがとうございました




