第45話
野球部の練習を終え、重い体を引きずりながら帰路へとついた。
夏の予選まであと一ヶ月。
実戦を想定したハードな練習が連日続いていて、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
リビングのドアを開けると、恋歌が心配そうに歩み寄ってきた。
「おかえりなさい。壮真さん。大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
「もう……無理しないでください。お風呂に入って少しでも疲れを取りましょう」
恋歌は俺の制服を優しく脱がせると、ハンガーラックに掛けた。
そして、華奢な体を目一杯使って、疲労で傾く俺の肩を支えながら、風呂場へとゆっくり向かってくれた。
浴室に入ると、恋歌は小さな手で髪と体を優しく洗ってくれた。
心地よさに身を委ね、軽いマッサージまでしてもらうと、ようやく二人で湯船に浸かる。
俺は向かい合う恋歌を引き寄せ優しく抱きしめると、恋歌の肩に顎をそっと乗せた。
肌に触れる豊かで柔らかなふくらみの感触と、湯気に混じるシャンプーの甘い香り。
それだけで、さっきまでの疲労が嘘みたいに和らいでいく。
(……本当に疲れが吹っ飛んだ気がする)
「今日の壮真さんは甘えん坊さんですね。うふふ」
「もう少しこうしていていい?」
「……いつまででもいいですよ。えへへ」
「ありがとう。こうしていると癒されるんだ」
腕に少し力を入れると、さらに柔らかい感触と心地よい温もりが伝わってくる。
「それは良かったです。ふふ」
「明日もまた頑張れるよ」
「はい!でも、無理はしないでくださいね!」
俺は顔を上げて恋歌の顔を見つめると、彼女もとろんとした上目遣いで見つめ返してきた。
どちらからでもなく顔を近づけると、深い口づけを交わした。
風呂から上がった後、火照った体でいつものように恋歌のヘアケアをして髪を乾かし、二人で
晩御飯を食べた。
リビングのソファ、俺の膝の上に跨がり、首に手を回している恋歌を優しく抱きしめながら、しばし寛いでいた。
「今夜はいつもより抱きしめてくれますね。えへへ」
「疲労回復のためだよ」
「私は疲労回復薬ですか?うふふ」
「レンカミンゴールドだな。俺にとっては最強の回復薬だ」
「何ですかそれ?もう、嬉しいです。えへへ」
恋歌は少し照れたような顔をすると、俺の肩におでこを擦り付ける。
「なにしてんの?」
「マーキングです。またチビッ子や他の女と抱き合わないように」
(……まだ根に持ってるんだな。でも、この甘い香りと温もりに包まれていると体力が回復していくような気がする)
「……い、いやだなぁ。あれは勝手に抱きつかれただけだよ」
「でも、壮真さんが油断してなかったら避けられたんじゃないですかね?」
「……うっ、それは」
「これからは油断しちゃダメですよ。私だってお仕置きをしたくてしてるんではないんですから。うふふ」
(……嘘だ。ノリノリでやってたじゃないか)
「……了解です」
「そろそろ寝ましょうか。壮真さん」
「そうだね。寝ようか」
俺たちは寝室に向かうと、もつれ合うようにベッドへと倒れ込んだ。
視線の先で、恋歌が少し潤んだ瞳で見つめてくる。
「おやすみのキスをお願いします」
「はいはい。お姫様」
覆い被さるようにして、その柔らかい唇に自分の唇を重ねた。
ほんの少し名残惜しさを残して唇を離すと、恋歌が満足そうに俺の胸へと滑り込んできた。
俺は彼女の頭を優しく撫でる。
「寝るまで撫でていてください。うふふ」
「かしこまりました。お姫様」
「おやすみなさい。壮真さん」
「おやすみ。恋歌」
しばらく恋歌の頭を撫でていると、やがて恋歌はすうすうと寝息を立て始めた。
俺は恋歌の天使のような寝顔をずっと見つめていたが、いつの間にか寝てしまっていた。
(明日の練習も頑張れるな)
◇◇◇
翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日で目を覚ますと、すぐ耳元で恋歌の甘い囁きが聞こえた。
「朝ですよ。壮真さん。起きてください」
まだ気だるい瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには天使のような笑顔を浮かべている恋歌が立っていた。
「おはよう。恋歌」
「おはようございます。壮真さん」
「朝食はできてますから。早く来てくださいね。うふふ」
「いつもありがとう」
恋歌は俺の顔を覗き込み、軽い口づけを落とすと、楽しげに軽い足取りで、部屋を出ていった。
──朝食を終え、学校へと向かう支度を済ませて玄関へ。
今日は朝練がないので、恋歌と一緒に二人で学校へ行く。
出がけにもう一度恋歌と軽いキスを交わし、玄関の引き戸をガラリと開けて外へ出た。
◇◇◇
電車に揺られる車内。
俺は、腕の中にすっぽり収まる恋歌の小柄な体を、通勤・通学の混雑から守るように庇っていた。
ふわりと、彼女の髪からシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「もっとくっついても大丈夫ですよ」
「いや、これ以上は公共の場ではマズい」
すでにほぼ、二人で抱き合ってるのと同じ状況だった。
「いいじゃないですか。恋人同士なんだから」
「人の目あるからダメだ」
すでに遅いような気もするが、俺は力を込めて少し体を離したのだが──そんなのお構い無しと言わんばかりに再び恋歌が俺の胸に飛び込んできた。
「壮真さん。うふふ」
恋歌が瞳を閉じてキスのサインを送ってくる。
「さすがに無理だよ。恋歌」
「……えっ」
俺を見つめる恋歌の瞳から、徐々にハイライトが消えていく。
「……れ、恋歌。どうした?」
「キスできないってことは……他に好きな女ができたとか……私を捨てる気ですか……ブツブツ」
(マズい。恋歌の瞳からスッとハイライトが抜け落ち、目の奥が深海のように暗くなっていく。恋歌のダークモードが発動してしまう)
「恋歌以外に好きな人なんていないから!キスは家でしよう!」
「今じゃなきゃ嫌です……今すぐしてください……ブツブツ」
車内の乗客たちの『あの子可愛いけどヤバくない?』や『なにが始まるの?』というようなヒソヒソと囁く声が聞こえてきて、注目を集めだしている。
しかし、恋歌の視界にはもはや俺しか映っていない。
深海の底のような瞳が、じっと俺を捉えている。
俺は覚悟を決めた。
周囲の視線からの公開処刑を受ける覚悟を。
恋歌の唇に、ちゅっと音を立てて軽いキスをする。
恋歌の瞳に眩しいばかりの光が戻り、天使の笑顔が復活した。
「壮真さん。愛してます。うふふ」
「……お、俺も愛してるよ」
恋歌は自分の学校の最寄り駅に着くと、名残惜しそうに電車を降りていった。
一人残された俺は、周りから突き刺さる『リア充爆発しろ』という視線と『朝からイタイな……あのバカップル……』という陰口が確実にメンタルを削っていった。
(早く電車降りたい……)
◇◇◇
電車を降りて、駅の中をトボトボと歩いていると、後ろから声をかけられたので振り向いたら颯希が悪戯っぽい顔をして立っていた。
「壮真先輩。朝から大胆ですね。にひひ」
「……見てたのか?」
「はい、バッチリと!まさか車内でキスシーンが見れるとは思いませんでしたよ!」
(……あんな周りが完全アウェーで、ロマンチックじゃないキスシーンなんて映画やドラマではないだろ)
「俺の身を守るには、ああするしかなかったんだ」
「壮真先輩。少し肩が震えてましたもんね。はは」
「それじゃあ。この辺で」
俺は手をサッと軽く上げると、颯爽と歩きだそうとした。
しかし、そうはさせじと颯希が俺の腕を掴んできた。
「一緒に行きましょうよ!」
「いやだよ。一人で行ってくれ」
「なんか、壮真先輩。最近、私のこと避けてませんか?」
(俺はもう恋歌からのお仕置きを受けたくないんだよ!体がもたん!)
「じゃあ、俺は秀樹と大事な約束があるからこれで」
「嘘つかないでください!さっき新井先輩と高畑先輩が仲良く歩いてるの見ましたよ!」
振りほどこうとする俺の腕に、颯希は胸を押し当てるようにしがみついてきた。
「やめろ!こんなところをまた猪鹿川さんに見つかったら……あっ」
カシャッ。
不吉な音が駅の構内に響き渡った。
音がした方に視線を向けると、少し遠くの人混みでスマホを掲げている猪鹿川さんとバッチリ目が合った。
彼女はトドメと言わんばかりにもう一枚写真を撮ると、雑踏へと消えていった。
(……終わった……きっとあの写真はもうすでに恋歌の手元に届いているだろう……今夜も恋歌のお仕置きが待っている)
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