第38話
朝、耳元で囁かれる甘い声で、俺は微睡みの中から意識をゆっくりと引き戻された。
「壮真さん。朝ですよ。起きてください」
薄目を開けると、そこにはいつもの愛らしい光景があった。
朝の日差しを浴びて、ピンクのエプロン姿の恋歌が天使のような微笑みを浮かべて俺を上から覗き込んでいる。
「おはようございます。……うふふ」
「おはよう。恋歌」
「今日はバレンタインデーですね」
(バレンタインデー?すっかり忘れてた)
「今回のは自信作ですから、期待していてください!」
エプロンの裾を握り締め、恋歌は胸の前で小さくガッツポーズを作る。
「うん、楽しみにしているよ」
「ふふ、朝食が冷めないうちに、リビングに来てくださいね」
恋歌は俺にちゅっと軽い口づけを落とすと、満足そうに微笑んで足取り軽く部屋を出ていった。
(バレンタインデーか……去年は恋歌の他には士門先輩と高畑さんから義理チョコをもらったっけ……でも、今日は土曜日だから授業は休みなんだよね。部活の練習はあるけど)
朝食を終え、学校に行く支度をすると、玄関で恋歌と口づけを交わす。
毎日のルーティンをこなすと、俺は部活の練習のため学校へと向かった。
野球部の練習を終えると、士門先輩と猪鹿川さんが部員たちに義理チョコを配っていた。
(去年も士門先輩が配ってたっけ。マネージャーは大変だな)
ガサゴソと配ってる中、猪鹿川さんが俺の前にやってきた。
「や、山口先輩。これ私からです」
差し出されたのは、他の部員が貰っている義理チョコとは明らかに違う、可愛くラッピングされた小さな箱だった。
「ありがとう。猪鹿川さん」
「一生懸命、愛をこめて作りました。へへへ」
猪鹿川さんは、満面の笑みを浮かべて小動物のように笑っている。
「……そ、そうなんだ」
「ぴ、ピンクの悪魔より、美味しくできてると思います」
(ピンクの悪魔って、間違いなく恋歌のことだろうな……)
更衣室に向かおうと思った瞬間、ふと、グラウンドの外に目をやると、女子生徒たちがざわざわ騒いでるのに気づいた。
(なんだあの群れは?)
そんな中、士門先輩がやって来て、綺麗にラッピングされた小さな箱を差し出してきた。
「壮真くん。はい、これ私から」
「ありがとうございます」
「あ、ちょっとした騒ぎになってるから帰りは気をつけてね」
士門先輩は、怪訝そうな顔をして苦笑している。
「は?何のことですか?」
◇◇◇
制服に着替え終わり、秀樹とグラウンドを出ると、驚きの光景が広がっていた。
うちの学校の女子生徒が、20人くらいの群れを作っていたのだ。
「秀樹。なにあれ?芸能人でも来るのか?」
秀樹は、残念な生き物を見るような目をして、ひとつため息をついた。
「なに言ってんの、お前を待ってんだろ」
「なんで俺を?」
「あのな、野球部のエースだぞ。それなりモテるだろ。大体、お前は顔もいいからな」
『あ、山口くん来たわよ』
『わー、練習お疲れ様!』
『山口先輩、これ受け取ってください!』
女子生徒の群れがこちらに向かって押し寄せてくる。
その時、猪鹿川さんが俺の前に両手を広げて立ちはだかった。
「や、山口先輩。ここは私に任せてくだ……ぐふっ」
猪鹿川さんは変な声を漏らし、女子生徒の群れにもみくちゃにされながら消えていった。
全員からチョコを受け取ったのだが、多すぎてスポーツバッグに入り切らない。
途方に暮れているところに、再び士門先輩がやって来て俺に大きめの紙袋を差し出してきた。
「壮真くん。これ使いなさい」
「助かります!ありがとうございます!」
俺は、紙袋にチョコを丁寧に入れて家に帰ろうとした。だが、校門に向かうと、どこで聞きつけたのか他校の女子生徒の群れまで押し寄せていた。
全員からチョコを受け取ると、ようやく帰路につくことができた。
(これがモテ期というやつか?なんかめちゃくちゃ疲れたけど……でも、やっぱり嬉しいな……)
思わず笑みがこぼれ、俺は間違いなく調子にのっていた。
初めてのモテ期に我を忘れて、ただただ浮かれていた。
恋歌の怖さも忘れて……。
◇◇◇
家に帰り、リビングのドアを開けると、俺の背筋は凍りついた。
明らかに、目が笑ってない氷のような微笑みを浮かべた恋歌がそこに立っていたのだ。
恋歌は音も立てずにすーっと、こちらに歩み寄ってくる。
「壮真さん。おかえりなさい。うふふ」
もう、何度も見たこの恋歌の冷たい笑顔。絶対に怒っている。
「た、ただいま。どうかしたの?恋歌」
「ふふ、あら?壮真さん。その紙袋はなんですか?」
「……こ、これは。ユニホームがちょっと汚れちゃったから紙袋に入れてあるんだ」
「あら、洗っときますから貸してください」
恋歌がぬぅっと紙袋の方に手を伸ばしてきた。
「じ、自分で洗うからいいよ」
恋歌が俺の背中に両手を回し、おでこを胸に埋めてぎゅっと抱きついてきた。
少しの間があったのが怖くて、俺は震えていた。
「……壮真さん。今日は随分とおモテになったみたいですね。うふふ」
恋歌は、普段の甘い声とは別人のような恐ろしいほどの低い重低音で囁いた。
「……な、なんのことかな?覚えてないな」
「……牛から報告がありましたよ。たくさんのチョコを貰って、モテモテだったって」
「…………」
「他の学校の女子生徒からもモテモテだったらしいですね。ふふ」
(猪鹿川さんといつの間に結託しやがったんだ)
「とても嬉しそうだったと言ってましたよ。良かったですね。うふふ」
「いやだな、そんなんじゃないよ。あはは」
「──紙袋」
「…………っ」
部屋の気温が一気に下がったような気がした。
突き刺すような恋歌の殺気に負けて、俺はカタカタと震える手で紙袋を恋歌に差し出した。
恋歌は、チョコの箱と一緒に添えてある手紙に目を通した。
「一生懸命投げているあなたの姿を見て好きになりました。私とお付き合いしてください……ふっ」
恋歌は鼻で笑うと、手紙をビリビリに破り、ゴミ箱へと投げ捨てた。
「……壮真さん」
恋歌は瞳を閉じて、キスのサインを送ってくる。
俺は恋歌の柔らかい唇にそっと自分の唇を重ねると、恋歌はまるでこの人は誰にも渡さないと言わんばかりに強く抱きしめてくる。
その後、恋歌は士門先輩と猪鹿川さんのチョコだけ俺に渡すと、嬉しそうに微笑んだ。
「後は没収しますね。うふふ」
紙袋を手に持った、恋歌はリビングを出ていった。
(……俺が貰ったチョコなのに)
◇◇◇
晩御飯を食べ終えると、いつものように食器洗いをしていた。
恋歌に食事を作ってもらうようになってからは、これが俺の担当だ。
食器洗い中に、恋歌がずっと後ろから抱きついているのもすっかり慣れた。
「よしっ、終わり」
「壮真さん。終わりましたか。うふふ」
洗った食器を拭き終わると、恋歌は俺から少し離れた冷蔵庫へと向かった。
(あれ?あんな冷蔵庫はうちにはなかったよね?)
冷蔵庫から恋歌が大きなダンボール箱くらいのサイズの箱を取り出し、リビングのテーブルの上に置いた。
「壮真さん。バレンタインのチョコです!」
「……随分と大きいね」
「開けてみてください。うふふ」
箱を開けると、物凄く精巧に作られた兜の形をしたチョコが現れた。
「……ありがとう。かなりの力作だね」
(売り物になりそうなくらいリアルな兜チョコなんだけど。もはやプロのパティシエでしょ)
「鍬形の部分がなかなか難しかったんですが、ここが二人にとって一番大事な部分なので頑張りました」
鍬形の部分は愛の形をしている。
「……直江兼続の兜だね。よくできてるよ」
「私たちの愛の象徴が再現できて良かったです。うふふ」
(……でも、その兜の愛は意味が違うと思うよ)
その夜はいつも以上に恋歌が愛を激しく求めてきて、ただただ愛を育むんでいった。
(恋歌にだけモテればそれでいいか)
読んでくださりありがとうございました




